4章 オリゲネスの思想
■オリゲネスとその時代
 紀元3世紀のオリエント(中近東)と地中海は、パレスチナを東西の境界として、東にゾロアスター教の盛んなササン朝ペルシアが広がり、これに対して、西のローマ帝国では、1世紀以降に広まったキリスト教が、ギリシア・ローマの神々を信じる人々の間で、唯一神教の神を頂く新たな宗教として、広く行き渡っていました。キリスト教の教会は、東はパレスチナから、西はブリタニア(イングランド)にいたる広大な版図を有するローマ帝国全域に及んでいました。とは言え、パレスチナと、現在の小アジアと、ローマ周辺と、かつてカルタゴが支配していた北アフリカの地域とが、キリスト教会の主な分布地域でした。
 キリスト教は、偶像を排除する唯一神教で、その功徳も、ギリシア・ローマの神々による占いや呪いなどに頼る従来の諸宗教よりも、はるかに現実的な力と実利をもたらす新興宗教として人々に信じられていました。3世紀初頭のオリゲネスの時代には、まだキリスト教への迫害が続いていましたが、それでも、キリスト教は、アラビアからササン朝ペルシアへも広がる勢いを見せていました。しかしながら、広範囲に広がったキリスト教は、そろそろ俗化する気配を帯びていたと思われます。
 そんなキリスト教世界の中で、オリゲネスは、極西アジアのヘブライ的な宗教と、ギリシア・ローマの西洋世界の宗教思想とを統合する重要な役割を果たしました。彼は、ギリシア哲学によってキリスト教を知的に基礎づけ、かつその宗教哲学によって、キリスト教の霊性をより高度な知性と倫理性を具える宗教へと高めるための土台を造った人です。唯一神教と従来の伝統的な多神教との関係を扱う彼の見解は、同じように多神教の伝統にある日本で、キリスト教が受容され、アジア的な文化の中で広まるためにも重要な示唆を与えるもので、有賀鐵太郎先生が、オリゲネスに興味を抱いたのもそのためではないかと思われます。
■オリゲネスの思想
 アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスは、初代の教父たちの中で、最も「哲学的」であったと言われています。しかし、問われるべきは、彼らの哲学それ自体とキリスト教の教義との関連だけではありません。問われるべきは、むしろ、彼ら自身、当時のアレクサンドリアの多彩で複雑な文化環境それ自体を形成していた人たちであり、そういう者として、自分たちが属している文化環境の「信仰的な現実」に対して、いかに「実践的に」参与したのか?ということです〔『オリゲネス研究』159~60頁〕。
 オリゲネスは、ギリシア哲学と異教の諸宗教にも、キリスト教に通じる思想(真理)が含まれているという広い視野から、ギリシア哲学全般、とりわけ、プラトン(プロティノス以前の中期プラトン主義)とストア哲学を深く学びます。だから、彼は、学生に教える場合にも、幾何学、音楽、修辞学、天文学などの一般的な学問から始めて〔『オリゲネス研究』170頁〕、哲学へ進み、それから、哲学の最終段階として聖書を教えました。ちなみに、聖書の理解を最終目標に置くこのやり方は、カトリック教会の神学教育にも受け継がれ、ルネサンスを経て、17世紀のイングランドの教育へと引き継がれていきます。オリゲネスは、「忍耐」(ヒュポモネー)と「敬神」(エウセベイア)を核とするキリスト教倫理を説いています〔『オリゲネス研究』167頁〕。また、「無神論」だけは別にして、それ以外に広く学問的な諸説を読むことをすすめています。
 オリゲネスの哲学の背景には、天上には「単一」(モナス)なる純粋な霊知(真理)が存在し、これが、二つ、さらに三つと、次第に多くの諸真理に分かれて降下し、それらが、地上の物質的なものに「もろもろの真理」となって宿ったという思想があります。これには、オリゲネス独特の「中期プラトン主義」的な背景があると指摘されています。彼の視点から見ると、聖書の唯一絶対の神は、冠詞付きの「ホ・テオス」で表わされ、そこから分かれて発出した神の本性が、冠詞のない「テオス」(神性)になります。この「テオス」なる「カミ」が、さらに幾つもに分かれて「カミガミ」(テオイ)になったと考えるのです〔小高毅編『原典古代キリスト教思想史』(1)「オリゲネス」333頁/340~45頁を参照〕。
  神の御子イエスについて、彼の説を引用すれば、「子は、父なる神ご自身から生まれ、その存在を神ご自身から受けるが、この誕生に始まりがない。・・・・・主要なものとして存在するものと派生的に生起しているものとの両者を含めた、将来の被造物の可能態と形態のすべてが、予知の能力によって前もって造られ秩序立てられたものとして、この知恵の実態そのものに内在していた」(小高毅訳)〔前掲書334~335頁〕ことになります。だから、御子は、言わば、神による被造者として「第二番目の神」になりますから、「テオス」ではあるが「ホ・テオス」ではありません。神から発した知恵の「ロゴス」は、神とは従属関係になるのです〔『キリスト教大事典』184頁「オリゲネス」有賀鐵太郎〕。
 次いで、第三番目のカミガミとして、太陽と月と星星が来ます。これらを始めとして、世に多くのカミガミが居ても、人は、その理性を通じて、それらのカミガミを身体感覚でとらえることができます。人はさらに、理性の働きによって、それらのカミガミを通じて、「真の神性」を求めるように目覚めることが可能です。人は、理性的に教育されることを通じて、もろもろの「主たちの唯一の主」であり、もろもろの「ロゴス」(言)の唯一の「ロゴス」であるイエス・キリストを拝するように求められているからです(第一コリント8章5~6節を参照)。
 イエス・キリストは、神の御子であり、神のロゴスの源泉です『原典古代キリスト教思想史』(1)342~43頁を参照〕。イエス・キリストは、堕罪以前の無垢の「プシュケー」(命/魂)を宿した人として生まれ、受難と復活を通して、ご自分の「命/魂」を人間の救いの代償として悪魔に支払いました。この功徳によって、最後には、(悪魔をも含む)すべての「霊」が救われることになります〔『キリスト教大事典』184頁〕。
 オリゲネスに見る御子の御父へのこの従位説(水垣訳)は、アレクサンドリアを始めとする当時のキリスト教会では、ごく一般的な見解でした〔Anchor Bible Dictionary.Vol.4.p.45〕。オリゲネスに言わせると、被造物全体は、その「理性的な存在」の程度に応じて、神との遠近関係が定まります。したがって、宇宙を支配する天使たちやもろもろの天体などの被造物は、その堕落の程度が比較的「軽い」から、天的な霊性を取り戻しやすいが、地上の生物など他の被造物は、その理性的な堕罪が甚だしく、これらの「霊(冷)性」は、神の「温愛」を失った「冷性」だと見なされることになります〔Anchor Bible Dictionary. Vol.4.p.46〕。
 オリゲネスによれば、キリスト信者は、二つに大別されます。ただ教会に通って、週毎に説教を聞き聖体を拝受するだけの「単純素朴な」信者と、知的な探求を通じて、己の霊性をキリストに近づけようと心がける「知性的な」信者とのふたとおりです。「福音」とは言え、方や、福音の永遠性を見失った「時間的福音」であり「身体的な福音」にすぎません。もう一方は、「永遠の福音」で「霊的な福音」です。オリゲネスは、これら二つの関係を「律法」と「福音」との関係と類比させています。ヘブライ10章1節にあるように、律法と福音とは、「影と本体」との関係になります。したがって、真のクリスチャンたる者は、身体的福音から霊的福音へ、一時的福音から永遠の福音へ進まなければなりません。わたしたちが把握すべきは、「永遠の福音」であり、永遠の「ロゴス」だからです〔『オリゲネス研究』320~21頁〕。
 こういうオリゲネスの信仰の把握の仕方は、人類史の広い文化的な視野に立って、異教と異教徒たちにも、それなりに福音信仰の有り様を認めようとするものですが、一般のキリスト信者と、これを支持する聖職者たちから見れば、オリゲネスのこのような福音理解は、異教と妥協することであり、福音の純粋性を損なうものだと映ることにもなります〔『オリゲネス研究』413頁〕。また、オリゲネスの理性的に透徹したキリスト教哲学は、知的なエリートのクリスチャンを「霊的」と見なし、教会の一般のクリスチャンを「素朴」だとして区別/差別するものだと批判されることになります。ただし、こういう差別批判は、当時の教会の聖職者全般にあてはまるものでしょう〔Anchor Bible Dictionary. Vol.4.45〕。
■オリゲネスへの評価
 ニカイア信条は、オリゲネのこのような、緻密で優れた聖書解釈によるキリスト教信仰を受け継ぐことで、初めてできたものです。しかし、論争は、ニカイア会議以後も続いて、より厳密で「正確な」ものに創り上げられました。当然のことながら、その最終的な到達の結果は、ニカイア以前の神学者の見解には観られない特徴を帯びてきます。だからと言って、三位一体論の最終結論を、<それ以前の>神学者たちの信仰と諸説にあてはめて、最終の結果を逆にさかのぼらせる論法で、以前の諸説が、「(最終の結論から見て)違っているから異端だ」と決めつけてはならないのです。
  オリゲネスを異端とする文書には、オリゲネス自身が実際に書いたり語ったりした言葉では<ない>言葉や内容が引用されています。それらの言葉は、彼の思想を受け継いだ後の「オリゲネス主義者」たちの言葉です〔英文Wikipedia: Origen Crisis〕〔有賀鐵太郎『キリスト教大事典』(教文館)183~84頁〕。
                              正統性と異端化へ