5章 オリゲネスの「後継者」たち

■オリゲネスの「後継者」と正統・異端説
 アレクサンドリアのディオニュシオス(190年頃~264年頃)は、オリゲネスの弟子で、アレクサンドリアの主教(就任247年)でした。デキウス帝の時には、迫害を逃れますが、ヴァレリアヌス帝のキリスト教迫害の際に、アレクサンドリアから追放されました(257年)。彼は、御子が「造られたもの」「生成されたもの」と見て、御父と御子との関係を「葡萄栽培者と葡萄の樹、船大工とその船」にたとえています〔『原典古代キリスト教思想史』(1)409頁〕。このために、ローマ教皇のディオニュシオスから「御子の従属主義」の疑いをかけられます。しかし、アレクサンドリアのディオニュシオスのほうは、自分へのこの嫌疑を「虚偽」だとして、「種子から成長する樹木は、その成長したところのものとは異なるが、本性は完全に同一である」〔前掲書410頁〕と述べています。彼はまた、「三つの実体が存在するなら、三つの神々が存在することになる」と見て、サベリウス主義を批判し、最初に最高の「単一性」が存在し、次に「最も神聖な三性(ヘー・トリアス)」が来ると述べています〔前掲書411頁〕〔「ヘー・トリアス」(英語"the Triad")は、「へー」(女性単数の冠詞)+「トリアス」(「三つ組」)です〕。
 オリゲネスの次の世代には、アレクサンドリアのアレイオス(250年頃~336年頃)が居ますが、彼についての詳細は控えます。彼は、北アフリカのリビアの生まれで、ローマ帝国東部の北シリアのアンティオキアで、アンティオキア学派の指導者であるルキアノスのもとで学びました。ルキアノスは、三位一体については、「独り神の三様態論」と「(御子の御父への)従属論」と、その両方を合わせた見解を唱えており、帝国の東部特有の(比喩的ではなく)字義的な聖書解釈を重視しています。その後、アレイオスは、エジプトのアレクサンドリアの教会に加わり、アサンドリアの主教ペトロスに認められて執事になりました。ところが、アレイオスは、エジプトのメリティオス(エジプトのリコポリスの主教)の説に従って、迫害によって棄教した者たちを再び教会に復帰させることに厳しい姿勢をとったために、復帰を比較的緩やかに認めていた主教ペトロスと対立して、破門されます。しかし、主教のペトロスが殉教した後(311年)、アレクサンドリアに戻り長老になりました。一説では、その後、アレイオスが、当時アレクサンドリアの主教であったアレクサンドリアのアレクサンドロスの見解を「独り神三様態」のサベリウス主義であると批判したために、アレイオスは、主教から自説の撤回を要求されますが、これに応じなかったので、アレクサンドロスによって破門されたと言われています〔『キリスト教大事典』41頁〕。その後、アレイオスは、ビザンティウム(現在のトルコのイスタンブール)に近い西方のニコメディアの主教ニコメディアのエウセビオス(カイサリアのエウセビオスと区別)の庇護を受けます。第一回ニカイア教会会議(325年)で、アレイオスの従位説は、異端として断罪され、ギリシア北部のイルリクムへ流罪になりますが、ニコメディアのエウセビオスの執り成しで、コンスタンティヌス帝の赦免が与えられました。しかし、間もなく、当時ビザンティウムから「コンスタンティノポリス」と改名された(330年)ばかりの首都で逝去しました。
 オリゲネスの弟子であったアレクサンドリアの学院長テオグノストゥスは(生まれ年?~282年頃)、父と御子との完全な同一性を唱えています。アタナシオスも、オリゲネスの弟子でありながら、師の没後、三位一体説の代表格と見なされるほど、三位一体を支持しました。このために、アレイオス派によって度度追放されています。一方で、北シリアのアンティオキアの主教エウスタティオス(?~395年頃)は、ニカイア総会議で、オリゲネスを(御子の父への従位説(水垣訳)支持者と見なして)オリゲネスの説を異端として排撃しています。
 ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(483年頃~565年)は、東ローマの皇帝で(在位527年~65年)、西はイタリア半島から、東はパレスチナ一帯まで、北は小アジア、南は北アフリカ沿岸一帯の版図を統一します。ユスティニアヌス一世は、ローマ法典の制作者として知られていますが、皇帝神授権の信奉者と言えるほど宗教政策に熱心で、ローマ教皇と司教たちを皇帝の支配下に置き、キリスト教以外の異教に厳しく、アテネのプラトン学院を閉鎖しました。彼は、キリスト単性論(イエスは、その人間性がその神性と融合することで単一の本性であるとする)を批判し、コンスタンティノポリスでの会議で、単性論を禁じ、オリゲネスに対する異端弾劾を承認し、オリゲネスの著作を破棄するよう命じました(553年)〔Anchor Bible Dictionary Vol.4.p.42〕。確認はできませんが、その際に、4世紀のオリゲネス主義者であったエヴァグリウス・ポンティクス(Evagrius Ponticus)の著作が、オリゲネスの著作と混同されたという指摘があります。このためもあって、オリゲネスに異端弾劾が下されますが、553年のオリゲネスヌの異端弾劾は、彼自身の著作に基づいているとは言えません〔Anchor Bible Dictionary. Vol.4.p.42〕。
20世紀でも、オリゲネスは、その聖書解釈において、出来事の歴史性を尊重するものの、彼の解釈は、基本的に比喩的で象徴的な解釈だと見られています。彼は、イエスのエルサレム入城も、史的な出来事というよりも、イエスによる「人の魂への入城」という象徴的な解釈をしているからです〔Anchor Bible Dictionary. Vol.4.p.46〕。彼は、キリスト教の伝統において、「霊的な探求と体系的な神学の祖」と見なすことができるでしょう〔前掲書47頁〕。「霊的な探求」は、人間が犯す避けがたい誤解を「許し」誤りを{赦す」神の恩寵があって初めて可能です。具体的に言えば、オリゲネスの「教育」(パイデイア)思想による神学的な「訓練」(gymnastikos)がここで大事な意義を帯びることになります(水垣氏による)
■オリゲネスとグノーシス主義
  その西端とは言え、アジアで成立したヘブライ思想に基づくキリスト教が、ギリシア・ラテンの西欧世界に受容されるためには、ギリシア思想特有の理性に基づく主知主義による聖書と福音理解が必須でした。理性の働きを重んじる透徹した主知主義において、オリゲネスは、当時キリスト教によって異端と見なされていたグノーシス主義と共通するところがあります。「知性を具えた霊魂の救済」は、両者が共有する西欧思想の根幹だからです。にもかかわらず、オリゲネスは、グノーシス主義を断固退けています。その理由はどこにあるのでしょうか?
(1)グノーシス思想にあっては、造物主と言えども、「半神(デミウールゴス)」は欠陥を具えていると見なされいるのに対して、オリゲネスは、聖書の神こそ究極の「善」であることを信じています。
(2)グノーシス主義では、半神によって造られた世界は、最高の理知から堕落することで、救い難いほどの悪に染まっていると見ているのに対して、オリゲネスのほうは、地上にあって身体を具えた人間とこれを囲む物質的な自然界でさえも、本質的に善なる性質を失っておらず、身体的な感覚に支配されている人間も、自由な意思を可能にする理性の働きを有していると考えています。したがって、たとえ低次の物質界にあるとは言え、理性を通して「教育される」ことで、神の姿を回復することできるのです。
 オリゲネスは、旧約聖書の創造主である神とイエス・キリストの父なる神とが同一でないとするグノーシスの主張こそ、グノーシス主義の最大の誤りであると指摘しました〔Anchor Bible Dictionary. Vol.4.p.45〕。だから、20世紀では、オリゲネスを反グノーシス主義者だと見なす説(Boulluec.1985)があり、神と世界のグノーシス的な理解を阻もうとすることこそ、オリゲネスの趣旨であったという見解(Hal Koch 1932)があります 〔Anchor Bible Dictionary. Vol.4.p.45〕。
 オリゲネスのこの思想は、当時アレクサンドリアを中心に行なわれていたヘルメス思想と共通するところがあります。ヘルメス思想は、古代エジプトからギリシアのプラトン主義と、フィロンに見るユダヤ思想なども併せ持つものです。現在も残されている『ヘルメス文書』は、当時「牧人ヘルメス」と題されて、キリスト教会で受け容れられていました。21世紀の現在、『ヘルメス文書』をグノーシス主義と見なす説もありますが、グノーシス主義とその諸文書が、キリスト教に反する異端として斥けられてきたのに対して、『ヘルメス文書』のほうは、西欧において、キリスト教の言わば裏面史として生き残ります。ヘルメス思想は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェにおいて、フィチーノの新プラトン主義的なキリスト教の背景となる宇宙観を提供しています。この宇宙観は、フランスを経由して、16~17世紀のイングランドの「プラトン化したキリスト教」の背景を成すものです。ヘルメス思想は、独特の「神秘性」のゆえに、現在でも、その影響をキリスト教社会の人たちに及ぼし続けています。オリゲネスの思想は、当時のグノーシス主義よりも、このヘルメス思想に近いと言えるでしょう。
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