パラマスと東方正教
          (2022年11月1日)
■東方正教の修道
  9世紀頃からテサロニケの近くのアトスで始まった東方正教の修道士たちは、福音書が証しするイエスのタボル山での変貌を通じて、3人の使徒たちが「神を見る体験に与った」という出来事にあやかろうと、ひたすら、イエスのみ名を唱える修行を続けた。こうすることで、人間であるイエスに神から降った聖霊の光の顕現を観ることで、使徒たちと同じに「神を見る」体験に与るためであった。それは、かつてエジプトの砂漠で修行を積んだ隠遁の修行者たちのように、孤独と静寂の中で沈黙の寂光を体験する「ヘシュキア」(沈黙/静寂)の境地に達することを目指す修行であった。
 この修行をめぐり、コンスタンティノポリスの会議(1341年5月27日)において、ヴァーラームとパラマスとの間で、論争が行なわれた。ヴァーラームは、人間にすぎないイエスを通じて現われた光もまた、人間同様の被造物の光にすぎず、それは「神とは無関係である」と主張することで、東方正教の修道に異を唱えた。これに対して、パラマスは、「タボル山でイエス・キリストを通じて啓示された光」こそ、創造者の本性を証しする光であると唱えた。
■タボル山のイエスの変貌
 タボル山でのイエスの変貌こそ、人が神から聖霊を受けて神との交わりに入ることを証しする大事な出来事である〔ルーカス・フィッシャー『神の霊キリストの霊』一麦社(1981)〕。これこそ、パラマスが、ロシアの修道を通じて証ししていることにほかならない。パラマスは、イエス・キリストの身体を通して、神ご自身のエネルゲイアが働いたと証しすることで、これに与った使徒たちと同じ体験に与ろうとする修道方法の正当性/正統性を証しした。その主張は、彼自身のアトスでの修行体験に裏付けられたものであった。
 グレゴリオス・パラマス(Gregory Palamas) の信仰は、『聖なるヘシュカスモ擁護の三論』(Triades in Defence of the Light of Tabor.)において、変貌のイエス・キリストの光から授与される使徒たちが、被造物(人間イエス)を通じて「神を見る」体験を得たことによる。パラマスは、これこそ、パウロが言う「この世の人の知恵」によるものではなく、「目未だ見たことなく、耳未だ聞いたことがない」霊的な知恵によると説いた。それは、イエスのみ名を唱える祈りと修行を通じてしか到達できない「ヘーシュカスモス」(静寂)の世界である。それは、厳しい修道の道を通じてのみ到達できる境地である。
■ヨハネ福音書と山上の変貌
 ヨハネ福音書には、東方正教が言う「父→聖霊→子」のイエスの洗礼の場面がでてこない。ラテンの教会が主張する父→子→聖霊の「フィリオクェ」を意味する処女降誕もでこない。この点で、ヨハネ福音書は、東西両方の教会に共通する啓示を宿している。では、ヨハネ福音書は、地上のイエスに父なる神ご自身が啓示されたその根拠を何処に求めるのか?これが、「ロゴスの受肉」である〔ルーカス・フィッシャー『神の霊キリストの霊』一麦社(1981)〕。ロゴスは、すべての被造物に命を与える「命の光」である。ヨハネ福音書の受肉をタボル山でのキリストの変貌と対応させるこの解釈は、ヨハネ福音書が、東方教会の正統信仰を基礎づけるものである。
■ドストエフスキー
 パラマスがその著作で言う。「タボル山での変貌のキリスト」、これこそ、東方正教が求めて止まない「キリストの御姿」にほかならない。この「キリストの御姿」を求める修道僧の心とはどのようなものか? その実態をあますところなく描いているのが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の第六篇「ロシアの修道僧」でのゾシマ長老の談話、とりわけ、六篇の(3)と(4)、続く第七篇での長老の遺体の腐敗と、長老を批判する狂信的な修道僧と、ガリラヤのカナとの場面である。
 ドストエフスキーに言わせると、天地の被造物の全体に宿る「神のロコスであるイエス・キリスト」こそ、ヨハネ12章24節で「一粒の麦」のたとえでイエスが告げたことである。山上の変貌のキリストこそ、パウロが「十字架されたキリスト」(第一コリント1章23節)と言う時の真意である。ドストエフスキーが、その『カラマーゾフの兄弟』の第六篇と七篇で証ししていることにほかならない。
■何を学ぶべきか?
 では、この東方正教の修道から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
(1)神を信じること。
(2)福音書のイエスを信じ、ひたすら祈ること。
(3)新約と旧約聖書を学ぶこと。
(4)同じ信仰の友と交わりを作ること。。
(5)修道の心は、「和」(エクレシアの交わり)「敬」(御子イエスを敬い拝する)「清」(聖霊による浄め)「寂」(人類を導く不動の神を悟る)。
 
この文書は、2022年11月2日に、市川喜一氏が発表した「グレゴリオス・パラマスと東方キリスト教」に関して、同じ研究会において、筆者(私市)が発表したものである。
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