はじめに
 先に『船の右側』(2015年6月号)のインタビュー記事「人間の理性と聖霊の働き」で、私は御霊にある個人の霊性が、これからの福音活動の鍵になると指摘しました。今回、編集の方から与えられた課題は、「浄と不浄」、「聖と俗」など個人の生き方に関する「御霊にある倫理」です。現在日本人が置かれている宗教環境は、世界でも珍しいほど多様で複雑です。そこで、「浄と不浄」、それもキリスト教以外の宗教(したがってキリスト教が言う「偶像」)の「供え物を食べる」というあえて複雑な問題を選ぶことにしました。この問題を通じて、読者の方々それぞれが、霊的な視点から他宗教との関わりを考えるてがかりにしてくだされば幸いです。
  具体的で分かりやすく(?)するために、主として使徒言行録に沿って、使徒パウロと共に旅しながら、使徒とコリントの教会との間で生じた問題を第一コリント人への手紙(主として8章と10章)を中心に見ることにします。ここは、コリントで日常用いられていた「神々への犠牲に献げられた食べ物」、とりわけ「犠牲の食用肉」をキリスト教徒が食べるのは「浄か不浄か?」という問いに直面して、使徒パウロがこれに応えようとしている箇所です。そうは言っても、この手紙もその課題も一筋縄ではいかない背景と難しさを含んでいますから、思い切って、使徒パウロと彼の第二回と第三回の伝道旅行を共にすることで、パウロとコリントとの関わりを理解した上で、コリントのキリスト教徒たちに何があったのか? 使徒は、これにどのように答えたのか?を考えたいと思います。

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