(10)コリント教会の人たち
コリントの伝道も、会堂長のクリスポが家族ごと信仰に入ったり、ティティオ・ユスト という裕福なローマ人がパウロの一行を受け容れたりで、ルカの描くコリントの伝道は順調だったように見受けられます。しかし、これは結果からその過程を逆に見るルカ特有の救済史観から出た見方であって、実際はそれほど順調ではなく、パウロが伝えようとしたイエス・キリストの御霊にある福音が正しく理解されたわけでもなかったようです。このことは、第三回の伝道旅行の際に明らかになるのですが、その前に、コリントの教会の主だったメンバーをここで紹介します。
コリントの教会は、第一コリント人への手紙とローマ人への手紙と使徒言行録を通じて、教会の構成員と彼らが置かれていた社会的状況を他の教会以上に明らかにしてくれます。「この世の基準から見るなら、あなたたちの中では、賢者も多くないし、有力者も少なく、裕福な者もそれほど多くはない」(第一コリント1章26節)とありますが、「賢者」とは、教養を具えていて、それゆえに、しかるべき判断を下せる資格のある人のことです。「有力者」とは、社会的に地位のある人物であり、「裕福な者たち」とは、ユリウス・カエサルによって奴隷身分から解放され、ローマの植民者としてコリントへ送り込まれることで「成功した」人たちのことでしょう。パウロによって名前があげられている人たちは、まさに、その「多くはいない人たち」です。これら三つの階層に具わるのは「自由人」の特徴で、そこから垣間見えるのは、比較的少数でありながら、影響力の強い共同体です。
その他の者たちも決して「最底辺の」貧困層ではありません。新たな宗教に興味を抱き、それに加わることができるだけの「余裕のある」人たちですから。ステファナやクリスポの「家に属する者たち」とは、おそらく奴隷身分の人たちです(第一コリント7章21節を参照)。主人が入信すれば、その家の者がそろって洗礼を受けるのは、キリシタン大名とその臣下の場合と同様でしょう。しかし、彼らとて、それぞれの教育や技能を具えていないわけではなく、身分ある家の奴隷たちは、その才能を発揮できる自由が保証されていました。
【アキラ夫婦】クラウディウス帝が、ユダヤ人をローマから退去させるように命令したので、最近イタリアから来たのです。ステファナの家はアカイア州の初穂だとあるから(第一コリント16章15節)、これで判断すると、アキラ夫婦は、パウロによって入信したのではなく、ローマですでに入信していて、コリントでは、ユダヤ人の会堂のメンバーになっていたようです。おそらく、彼らは、できて間もない北の市場か、あるいは、コリント市の中心にあるアゴラの西半分に並ぶ小さな店の一つに仕事場と住まいを定めたのでしょう。パウロに出会うまでは、キリストの伝道をやらなかったようですが、パウロに出会ってからは、「命を危険にさらす」ほどの伝道の協力者になりました(ローマ16章4節)。パウロと共にエフェソに渡り、彼の留守の間に訪れたアポロの話を聞いて、彼を招いて「もっと正確に」神の道を説明したのもこの夫妻です(使徒言行録18章26節)。この二人は、使徒言行録やパウロ書簡に断片的に出てくるだけですが、初代の地中海沿岸でのエクレシアで、目覚ましい働きをした人たちではないかと思われます。
【クリスポ】クリスポは、ガイオと共に、最初の頃、パウロから洗礼を受ける恩恵に浴した一人です(第一コリント1章14節)。彼は「会堂長」(アルキシュナゴーゴス)だとあるが(使徒18章8節)、この肩書きは名誉職に近かったらしく、会堂での礼拝を取り仕切る正式の役職と言うより、ユダヤの会堂に何かの貢献をした者への名誉の肩書きという側面もあったようです。だから、ユダヤ人でなくても「会堂長」の肩書きを持つことができたし、同業組合の有力者にも、この肩書きが与えられました。ただし、クリスポは、ユダヤ人キリスト教徒で、会堂の内外で裕福な顔役であったのは間違いありません。
【ガイオ】ラテン名「ガイウス」で、彼は、クリスポと並んで、コリントで第二回伝道の時にパウロから洗礼を受けた一人です(第一コリント1章14節)。このガイオは、ローマ16章23節の「家の主人ガイオ」であると考えられますから、おそらく相当に大きな別邸の持ち主で、そこを開放して「コリントの教会全体を世話する」ほどの身分の人です。コリントには、比較的小さな「家の集会」が幾つかあったと考えられます。この事情は、ローマでも(ローマ16章5節)、エフェソでも(第一コリント16章19節)、コロサイでも(コロサイ4章15節)変わりません。どの家の教会も、比較的裕福な「自由人」の家です。しかし、パウロがここで言う「教会全体」とは、コリント市内にある集い全部の合同集会のことではないかと思われますから〔Murphy-O'Connor.
Paul.267〕、かなり広い家でしょう。それでも、立ったままで、せいぜい30人ほどが限度でしょう。後述するように、聖餐の食事ともなれば、全員が一つの食卓につくのはとても無理です。
【テルティオ】パウロのローマ人への手紙を口述筆記したテルティオは(ローマ16章22節)、ガイオを「わたしの主人」と呼んでいますから、ガイオの家に属する奴隷だったのでしょう(ローマの有力な議員キケロの秘書であった奴隷のティロと同じに読み書きの才能があった)。ガイオは、このテルティオをパウロの「秘書役」に当てていたようです。
【ティティオ・ユスト】ティティオ・ユスト(使徒18章7節)は、「ティティウス/ティトゥス・ユストゥス」Tit(i)us Justus)からですから、ギリシア名ではなくローマの名前です。「神を敬う」とあるので、ユダヤ教の神を信じて会堂に所属していたのですが、パウロのメッセージで、イエス・キリストを信じて異邦人キリスト教徒となり、会堂と袂を分かち、パウロたちに集会の場を提供しました(使徒18章7節)。集会を始める以前から、パウロたちに住まいを提供していた可能性があり、そこがコリント伝道の拠点であったのかもしれません〔Pervo.
Acts. Hermeneia(2009)453.〕。彼も裕福な一人です。このようにして、パウロは、比較的短い期間で、コリントの教会の「中核」を形成することができました。
【エラスト】コリントで身分の高い異邦人キリスト教徒です。エラストは、コリント市の経理係という公職に就いていた重要な人物ですから(ローマ16章23節)、彼だけに「経理係」(ギリシア語「オイコノモス」)という職名が記されています。同じ名前が第二テモテ4章20節と使徒言行録19章22節にもでてきて、こちらの人は、パウロの一行と共に福音伝道に携わっていたと思われます。しかし、コリント市の経理係エラストは、役職柄パウロと一緒に旅することはできないから、おそらく、この二つの名前は同一人物ではないでしょう〔Murphy-O'Connor. Paul. 269〕〔Cranfield.
Romans. Vol.II. ICC.(1979).807.〕。「経理係」という職名が付されているのは、二人のエラストを区別するためでしょうか。実は、コリントの遺跡では、劇場前の大理石通りの敷石に「市のアエディリスであるエラストス(ラテン名)がこの道を自費で舗装した」と刻まれています。「アエディリス」というラテン語の役職は、公共の建物や公共の工事などを監督する役職のことらしく、これで見ると、この「エラストス」は、相当の身分の人で、コリント市の功労者だったようです。「アエディリス」(日本語で「按察官」と訳されている)というラテン語の役職は、ギリシア語で言えば「アゴラノモス」なので「経理係」(ギリシア語「オイコノモス」)とは違うから、この二人は別人だという説もありますが、経理係から按察官へ昇進することだってあるし、二つの役職を兼ねる場合もありえます。コリント市の役人で「エラストス」という名前の人で、パウロの時代の人となれば、同一の人物だと判断するのが妥当でしょう〔Murphy O’Connor.
Paul: A Critical Life. 268-69.〕。彼が、コリント市のアゴラ(市場)の監督官だったとすれば、市場/広場での伝道の許可を得るためにパウロが彼と知り合ったのも容易に察しがつきます。こういう人物がキリスト教徒になった意味は大きく、市の役人ともなれば、当然様々の公共事業や催しに出なければならないでしょう。コリント市の催しで、女神アプロディテーが関わらないものがないのは、エフェソの女神アルテミスの場合と同じです。エラストは、ユダヤ人ではないから、こういう場合に、キリスト教徒としてどのように振る舞うべきか、さらには、イエス・キリストとアプロディテーとをどのように扱うべきか、さらに、アゴラで売られている物で「偶像に献げた物」以外の物を見つけるのは容易でないから、この問題は難しいでしょう。パウロが「神は唯一であり、唯一の主イエス・キリストの前には、偶像なる神など存在しない」(第一コリント8章)と言う時、これがエラストへのパウロの助言であったかどうか、わたしも知りたいところです。こういう異教世界での異邦人キリスト教徒のアイデンティティにかかわる問題は、言うまでもなく、エラスト一人の問題ではありません。彼の社会的なアイデンティティのこういう複雑な「あいまい性」は、コリント書簡全体の多様で難しい諸問題と深くかかわっているからです。
【フェベ】ギリシア名「フォイベ」(英語Phoebe)は、「月の女神」のことです。コリントの近くのサロニコス湾に面した港町ケンクレイアの裕福なビジネス・ウーマンで、おそらく独身です。彼女は、ケンクレイアのキリスト教徒共同体の中核となる女性です。女性でありながら、パウロの援助者であるばかりか、他の多くの信者をも援助できる地位と経済力を有していました(ローマ16章1節)。パウロは、後に、ローマにいるキリスト教徒たちに宛てた重要な一通の書簡、ローマ人への手紙を彼女に託しています。
【ステファナの家族】ステファナ(「冠」の意味)とその家の人たちのことは、第一コリント1章16節と同16章15節に出てきます。この人は、パウロのアカイア州での伝道によって「最初に」入信した人であり、「その家」とあるように、家族も奉公人(自由人と奴隷の両方を含む)も、そろってパウロから洗礼を授けられたようです。ただし、アテネでパウロのメッセージを聞いて、すでに入信した人がいますから(使徒言行録17章34節)、正確に言えば「アカイア州の(初穂)」とは言えません。ペロポネソス半島の中で「最初に」の意味でしょう。彼のような指導的な地位にある者が、聖霊のバプテスマを受けると、そのカリスマ性はおおいに威力を発揮して、下の者たちへ影響力を及ぼすものです。彼とその家は、最後までパウロに忠実で、コリントの周辺の諸集会で教えたり、援助と奉仕を惜しまなかったようで、ステファナは、コリントの教会を代表してエフェソへ派遣された3人のひとりです(第一コリント16章17節)。
【フォルトナト】この名の意味は「幸いな/運のいい人」の意味で、奴隷あるいは解放奴隷に多く見られる名前です。アカイコと並んで、二人は、ステファノの家の奴隷ではないかという説があります。だとすれば、二人は、コリントの教会からの書簡を託された主人に従ってエフェソを訪れ、そこで、パウロの返事(第一コリント人への手紙)を受け取ってコリントへ戻った一人になります。しかし、教会の代表として、同一の家の者たち二人が選ばれるだろうか?という疑問がありますから、この推定は確かでありません。
【アカイコ】アカイコ(第一コリント16章17節)も「アカイアから出た者」の意味ですから、おそらく、奴隷身分の名前です。ラテン名「アカイクス」は、アカイア以外の地でしか意味を持たない名前ですから、彼は、アカイア州からイタリアのどこかへ売られて、そこからコリントへ再び売られて(?)戻って来た奴隷だったのでしょうか。ただし、彼もエフェソへ代表として出向いていますから、フォルトナトと同様、それなりの自由が与えられていたようです。
【ソステネ】「会堂長ソステネ」は、コリントのユダヤ人たちがパウロを新総督のガリオンに訴え出た時に、その訴訟の責任者として、訴訟に失敗した責任を取らされて「みんなに」殴られたとあります(使徒言行録18章16節)。しかし、「会堂長」は複数いて、ある種の名誉職ですから、この辺は確かでありません。第一コリント1章1節にも「わたしの兄弟ソステネ」が出てきます。二人が同一人物なら、コリント騒動の後でパウロによって入信したユダヤ人キリスト教徒になりますが(伝承ではこのように伝えられています)、確かなことは分かりません。
以上のコリント教会のメンバーを見ると、既婚者(アキラ夫妻)、独身(フェベ)、ユダヤ人キリスト教徒(クリスポ)、異邦人キリスト教徒(エラスト)、自由人と奴隷、主人と奉公人など様々な身分、人種、立場の人たちがいます。アキラ夫婦は熟練した職人であり、クリスポとソステネは有力な地位の人たちです。彼らに共通するのは、技能と身分には恵まれていても、それがそのまま社会的な強さとして通用するとは限らないというアイデンティティの矛盾です。エラストでさえ、素(もと)を正せば奴隷身分であった可能性があります。だから、裕福な家に育ち、ローマの市民権を持つとは言え、それが、そのまま「力」とはならないパウロ、このパウロが伝える「弱さの中で発揮される強さ」(第二コリント12章9節)こそ、異邦社会に住むユダヤ人の特徴を具現していたのです。パウロが伝える福音に含まれるこの自己アイデンティティの複雑さと矛盾こそが、コリントのメンバーのようなユダヤ人と異邦人の心をとらえたのでしょう。社会的に見て矛盾するアイデンティティの持ち主たちでありながら、身分や民族に左右されることなく、等しく対等につきあうことのできる交わりの有り様こそ、これらコリントのキリスト教徒たちの特徴なのです。
こういう共同体は、イエスの御霊にあるとは言え、コリントの社会全体の人付き合いを反映していて、人と人のつながりを重視しますから、「あなたがたは<だれから洗礼を受けたのか>に、なぜそのようにこだわるのか?」とパウロから指摘されるのです。コリントのエクレシアでは、教育程度においても、経済力においても、社会的な身分においても様々だったから、当然のことながら、それぞれのメンバーの宗教的な願いも多種多様でした。それらが御霊にある交わりに入れられることで、人同士の付き合いが密になるほどに、競争意識も芽生えますから、このエクレシアの中でも、一般世間とは程度こそ違え、種々雑多な競争心が互いの間に芽生えてもおかしくありません。
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