(11)エフェソへと、エルサレムへ
■エフェソへ
ガリオンの裁定が功を奏した(?)のか、事はひとまず治まって、パウロたちは、しばらくコリントに留まります。51年の秋を待ちかねたように、パウロは、アキラとプリスキラとテモテを伴って、ケンクレイアから、エフェソへ向けて船出することにします。この時、パウロは、誓願を立てて髪を切ったとあります(使徒18章18節)。これは、ほんらい、誓願を立てるために神殿において身を神に「聖別する」ことで、髪を切るのは誓願が成就した後のことです(民数記6章5節)。ただし、パウロの頃は略式で(?)、神への願い事のために髪を切る行為が行なわれていたのかもしれません。彼の願いは、ケンクレイアから、とりあえずエーゲ海を横切り、エフェソへ着き、そこから、一刻も早くエルサレムへ上ることだったのでしょう(「シリアへ向けて」とあるのは最終地点から回顧したルカ流の言い方です)。
エーゲ海を旅する船は、途中の島々を見失わないことが鉄則です。アジアの人たちが「イオニア」と呼ぶ沿岸の山々が見えてくると、湾の奥に船が停泊します。そこから、2キロほど運河が奥へ通じていて、パウロの一行は、船を降りて、小舟に乗り換えて、その運河を奥へ向かいます。行き着く所がエフェソです。小舟を降りて、石柱の続く大通りをまっすぐ進むと、エフェソの大劇場が目の前に見えてきます。通りは、そこでT字になり、壮麗な大理石を敷き詰めた大通りに出ます。地元の人が「大理石通り」と呼ぶ大通りです。そこを右に曲がり大理石通りをまっすぐ進むと、行き止まりに来ます。そこで大理石通りは終わり、道は左に折れて、別のこれも広い通りへ通じています。現在の遺跡では、行き止まりの右側に見える二階建ての壮麗な建物がエフェソの有名なケルスス図書館ですが、これは117年に建てられているからパウロの頃にはまだ存在しません。
この都市の歴史は古く、ホメーロスがここを訪れたと伝えられているほどです。宇宙論を発表したギリシアの哲学者ヘラクレイトスのことは、エフェソの人ならだれでも知っています。タレスは、ここで哲学の基礎を築いたし、ヘロドトスは、ここで歴史を書きました。けれども、大勢の人たちがここを訪れるのは、これら文人や哲人を慕って来るのではなく、この都市の東の郊外にあるアジア唯一の壮大なアルテミス神殿への巡礼のためです。神殿に関わるもろもろの商売や劇場、オデオン(音楽堂)、体育館などなども目当てなのは言うまでもありません。遺跡の図書館の側近くに、ユダヤ人の会堂が建っていた形跡がありますから、パウロたちが最初に足を運んだのは、ここでしょう。パウロとその一行は、ここで、会堂長を初め、有力な人たちと初顔合わせの挨拶をします。ここのユダヤ人は彼らに好意的です。アキラとプリスキラの夫婦を伴ったのは、彼らをエフェソへ残して、二人がエフェソで伝道するためですから、パウロは、アキラとプリスキラを彼らに紹介し、この二人を残して、エルサレムへ旅立たなければなりません。
■エルサレムへ
パウロが、どれくらいエフェソで過ごしたか分かりませんが、引き留めるエフェソのユダヤ人の会堂で、「神の御心ならば」と別れを告げた時、パウロは、三度目の旅行があり、ここを彼の本拠地として東地中海全体に伝道するとは思っていなかったようです。しかし、御霊の導きを回顧する著者ルカの目には、パウロのこのエフェソからの旅立ちが、三度目の伝道旅行と、エフェソでの本格的な伝道活動へ「切れ目なく」つながっていたようで、ルカの記述は、エフェソからカイサリアへ、カイサリアからエルサレムへ、エルサレムからピシディアのアンティオキアへ、そこから再度エフェソへと、二千キロを優に超える距離を「わずか数行で」一気にかけめぐります(使徒18章21〜23節。わたしたちも、ここは、ルカにならって、三度目のパウロの旅と彼の再度のエフェソ到着へ急ぎましょう。なお、パウロがエフェソからエルサレムへ旅立った後に、アポロが、おそらく、エジプトのアレクサンドリアから(?)エフェソへ来て(51年)、アキラ夫妻から、パウロの聖霊の福音を学んでいます(使徒言行録18章24〜26節)。(2015年6月作)
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