(3)使徒言行録の「わたしたち」
 使徒16章10~17節では、主語が、三人称から突然「わたしたち」に変わります。同様のことが、20章5~15節と21章1~18節と27章1~37節と28章1~16節と、全部で5箇所で起こります。これについては、以下の四つの説が提示されています。

(1)この「わたしたち」は、ルカ文書(ルカ福音書と使徒言行録)の著者を含むもので、「わたし」とはパウロに同伴していた「愛する医者ルカ」を指すという見方です(コロサイ4章14節/フィレモン24節/第二テモテ4章11節を参照)。この場合、使徒言行録の著者自らが、パウロ一行に同伴したことを意味します。これが、エイレナイオス以来の伝統的な教会の見解です。これに従えば、著者ルカは、断続的にですが、パウロの第二回伝道旅行からパウロが最晩年にローマの牢獄で殉教するまで、航海の間もパウロに付き添っていたことになりましょう。
(2)「わたしたち」の「わたし」とは、使徒言行録に用いられている「資料の作者の<わたしたち>」が、そのまま使徒言行録の本分に持ち込まれているという見方です。したがって、ルカ文書の著者を表しているとは限らないことになります。注意して読むと、「わたしたち」は、資料の作者自身が直接かかわらないパウロやシラスだけに関する箇所や、パウロ自身の演説などには用いられていません。また著者ルカ自身が「編集した」と考えられる箇所にも出てきません。したがって、著者ルカは、資料に出てくる一人称を変えることをせず、あえてそのまま、忠実に「わたしたち」を残していると見ることができます。この「資料の作者」は、著者ルカから見て、よほど重要で信憑性がある人物であり、パウロの同伴者だったのでしょう。〔フランシスコ会訳聖書使徒言行録の「解説」その他を参照〕

(3)ルカ文書の著者が「愛する医者ルカ」であることを疑問視して、著者は、不明のユダヤ人キリスト教徒か異邦人キリスト教徒であろうという見方があります。この説は、パウロ書簡と使徒言行録との内容的な食い違いを重視するところから生じたものです。この「著者」が、「わたしたち」の箇所を含む資料をそのまま人称を変えずに用いたと見るのです。「資料の作者」としては、ルカ、テモテ、シラスが想定されていますが、どれも確かでありません。(3)の説は、最近では、次の(4)のほうに移っているようです。

(4)ルカ文書の著者が「愛するルカ」でないと見る点では(3)と同じですが、「わたしたち」の箇所は、資料として扱うのではなく、ヘレニズム時代の旅行記にならった著者の文学的な手法による創作だという説があります〔佐藤研・荒井献訳「使徒行伝解説」『ルカ文書』岩波書店(1995年)。222頁(注)参照〕。この見解は、使徒言行録の著作年代とも関連します。ルカ福音書は、90年代の作と考えられますが、使徒言行録は、それよりもはるかに後期(100~130年?)の作だと見るからです。ちなみに、最近の使徒言行録の注解では、115年の著作だとされています〔Richard Pervo. Acts. Fortress Press (2009). 5.〕。
  筆者(私市)は、上記の(2)の説が適切だと考えています。著者ルカは、ユダヤ人キリスト教徒か異邦人キリスト教徒かさえいまだ明らかでありませんが、異邦人キリスト教徒だと見る人が多いようです。しかし、ディアスポラのユダヤ人なら、ヘレニズムのギリシア語に通じていて、七十人訳の聖書に精通しているのはごく自然ですから、必ずしも「異邦人」を想定する必要はないと思われます。ルカの出身地は、エフェソかマケドニアでしょう。彼の著作の場は、伝承によるアンティオキアではなく、むしろエフェソがふさわしいでしょう〔Pervo. Acts. 6.〕。エフェソには、今もルカの墓が遺っています。ルカは、マケドニアか、あるいは小アジア出身で、ルカ文書をエフェソで著わし、この地で召されたのでしょうか。

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