(4)トロアスからマケドニアまで
■トロアスまで
 アンカラから山脈の間を縫うように西へ進むとムシア州のハドリアノテライ(現在のバルケスィル)へ出ます。その間400キロ以上はあるでしょうか。そこから70キロほど先にあるエーゲ海沿岸のアドラミテオに出て、さらにその西のアソスから海路でレクトン岬を回りトロアスへ寄り、そこからマケドニアを目指すことになります。
 思えば、旅の出発地であったシリアのアンティオキアは、エルサレム神殿を汚し、ユダヤ人を拷問にかけて迫害したギリシア系の王朝アンティオコス4世の本拠地でした(前2世紀)。パウロが生まれた故郷のタルソは、ペルシアのダレイオス三世が、アレクサンドロス大王との決戦に敗れたイッソス平野のすぐ近くです。パウロが今目指しているギリシアの「マケドニア」地域は、そのアレクサンドロスの本国ですから、「マケドニア」こそ、ユダヤが長い間「ギリシア化」されるその本拠地であったことになります。パウロは、「ヘレニズム化した」ユダヤ人の典型のように見られがちですが、マケドニアへ向かう彼は、感無量と言うべきか、その心境は複雑だったでしょう。従来のヘレニズムの世界では、散在するユダヤ教の諸会堂は、そこに住むユダヤ人にとって、その「内部だけ」が、旧約聖書の神信仰が許されていて、ユダヤ教の礼拝は、その内部だけに限定されていました。ところが、パウロは、今、イエス・キリストの御霊に迫られて、ユダヤの会堂だけに限られていたその殻を突き破って、神への信仰が、ユダヤ人もギリシア人も等しく、キリストの御霊の支配下に置かれることを目指そうとしているのです。 
■マケドニアへ
 トロアスからネアポリス(現在のカバラ)まで、およそ四日ほどの航海でしょう(使徒言行録20章5節を参照。ルカの「航海に出る」は、出発地から港までの陸路をも含みます)。前5世紀には、ペルシアの大軍が、ここを通ってギリシアに押し寄せ、前4世紀には、アレクサンドロスが率いるマケドニアの精鋭部隊が、ここを通ってアジアに攻め込みました。今や、ユダヤ人の福音の戦士たちが、七十人訳の聖書を武器に、今度は逆に、ヨーロッパへキリスト教宣教のために踏み込んだのです。この歴史的意義をその時はまだだれも知りません。この出来事を記念して、9世紀以降、この町は「キリストゥポリス」(キリストの町)と呼ばれるようになりました。
 パウロ一行は、そこから、西北方向に20キロほど内陸にあるフィリピへ向かいます。ここは、後にローマの初代皇帝となるオクタヴィアヌスとアントニウスの連合軍が、カエサルを暗殺したカシウスとブルートゥスの同盟軍を破った古戦場ですから、ローマの歴史に残る「関ヶ原」です。だから、この地フィリピは、ローマ帝国から特に目をかけられていたようです。パウロが生まれたタルソのユダヤ人たちは、この「関ヶ原」の時に、オクタヴィアヌスに味方して、多数の若者の命と献金と引き替えに、オクタヴィアヌスからローマの市民権を与えられました。おそらくパウロも、このことを聞かされていたでしょう。
 フィリピの町には、ユダヤ人が少なかったのか、会堂がなかったようです。こういう場合、水汲み場が、少ないユダヤ人たちの集まる場所になるのはリストラと同じですから、パウロたちは、安息日に、町を流れるストリュモン川の支流の畔の祈り場へ行くと(Hadjifoti. Saint Paul. 58)、女性たちが集まっていました。パウロの説教を聞いて信仰を抱いたのはユダヤ教に興味を寄せていたおそらくは解放奴隷のリディアだけです。彼女は、アジアのフリギアから紫の染料を採取する貝殻を輸入し、家の女主(あるじ)として自分でも紫布を商(あきな)っていたのかもしれません〔前掲書〕。パウロの語るイエス・キリストを受け容れた彼女は、ヨーロッパの「最初のキリスト教徒」という栄誉に与ることになります。現在、フィリピには、聖リディア教会があり、彼女の受洗の跡も遺っています。
 ところが、彼らが祈り場へ通ううちに、「ピュート-ンの霊」にとり憑かれた若い女奴隷がつきまとって、パウロたちのことを「いと高い神の僕たちだ」と叫び続けるのです。「ピュートーン」とは、アポロンに退治された大蛇のことです。実は、このピュートーンが、デルフォイ神殿に今も遺る「世界のへそ」と呼ばれる石の下に葬られたと言われています。だから、ピュートーンは、アポロンよりもさらに古いトラキア地方(マケドニア)のカミかもしれません。彼女を黙らせるためにパウロがその霊を追い出したところ、これで生業(なりわい)を立てていた奴隷の主人が、怒ってパウロたちを訴え出るトラブルが生じます。その結果、パウロとシラスは投獄され、そこで起こった地震の時に、看守とその家族も入信することになります(使徒16章16節以下)。フィリピの教会は、これ以後パウロたちに多大の援助を提供しています。パウロは、その後も、この地を54年の夏と55年の冬とさらにその夏も?と三度訪れています。
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