アテネでのパウロ
 アテネには多くの神殿や祭壇や神々の像があり、ひしめく人々と、演劇の上演や詩人や哲学者たち、イタリアから来た大勢の学生たちなど、その知的文化的な雰囲気は、パウロにとって驚きだったでしょう。タルソのユダヤ人は、ローマ人同士の戦(いくさ)の度に、厳しい政治的判断を迫られ、現実を見抜く洞察力と的確な判断で常に勝者の側に与(くみ)することで、ローマの市民権や宗教的な自治権を獲得してきたから、パウロもその実践的な洞察力を受け継いでいたと見ていいでしょう。
  アテネの「広場」(アゴラ)で、哲学者たちが自由に弁じ立てているのを見ると、パウロも、そこでイエス・キリストの復活を語り始めます。これを聞いていた彼らの幾人かが、「ついて来い」とパウロに言います。彼らは、アクロポリスの丘にそびえるパルテノン神殿の方角には向かわず、反対側の木立の中の古い石畳の道へ入ると、ごつごつした岩山の麓に、アレオパゴスの議会場が見えてきます。彼らは、そこでパウロの話を聞かせてくれと言うのです。
  アレオパゴスでは、パウロがタルソで学んだ弁論術が、その威力を発揮します。彼は、「まだだれにも知られていない神」について語り、「探せば神はわたしたちから遠くない」(17章27節)と切り出してから、前6世紀頃のクレタ生まれの哲人エピメニデスの言葉「なぜなら我らは彼(神)のうちに生き、動き、存在する」を引用します。ギリシアの最高神の名前「ゼウス」がギリシア語の「ゾーエー」(命)につながるという掛け詞をパウロが知っていたかどうか分かりませんが、ストアの哲学者にはなじみのあるこの言い方で、パウロは、「わたしたちは皆、<神の御霊>のうちにあって活かされ動き存在できる」ことを告げようとするのです。「ゼウス」ではなく「生ける聖書の神」の御霊の働きを伝えようと、続けて彼は、かつてタルソで学んだキリキア生まれのギリシアの詩人アラトゥス(前4~3世紀)の『ファイノメナー(現象)』から引用します。「我らは(その神の)子孫である」。アラトゥスの汎神論をパウロの唯一神論と重ねながら語る彼の弁舌を哲人たちはじっと聴いています。その反応を見てとると、パウロは、ここぞと神への悔い改めを語りかけ、続いてイエスの復活を語り始めると、聴いていた哲学者たちの間にざわめきと笑いが起こり始めます。「官能的享楽主義」などと評されるエピクロス派と、「禁欲」で知られたストア派という異なる学派の混合ですが、どちらの目にも、パウロが言う「(イエスを)死者たちの中から<立ち上がらせる>神」という言い方は、彼らの目には、ヘレニズムの素朴な迷信としか映らなかったようです。パウロは、ここで、鞭打ちにもののしりにも遭いませんでしたが、笑いものにされます。口をつぐんだパウロを残して、アレオパゴスの哲人たちはその場を去っていき、パウロは、アテネに二度と足を踏み入れようとしなかったようです。それでも、御霊の働きのお陰でしょうか、ディオニシオとダマリスなど幾人かが信仰に導かれたとあります。現在そこには、アレオパゴスの跡はなく、パウロの演説を刻んだ石碑だけが立っています。
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