(7) コリントへの旅とその市街
■コリントへの旅
使徒18章1~6節によれば、パウロは、単独でコリントへ来て、そこでプリスキラたちに出会ったことになっています。アテネから100キロ以上離れたコリントまで、現在なら電車で1時間ほどですが、当時は、陸路でも海路でも、丸三日はかかります。海路は季節の風向きと天候に左右され、それに占いで出航を取り止める場合もあったから、おそらく陸路を選んだでしょう。途中には、デルフォイの神殿に劣らず古いエレウシース祭儀の聖地があり、そこから、メガラを経由して、険しい崖下の道を通り抜けると、サロニコス湾とコリント湾とを結ぶ南北10キロほどの運河に出ます。橋の上から眺めると細長い直線の河に見えますが、ここは、当時の東地中海の「スエズ運河」で、コリントの経済発展は、この運河に支えられていたと言ってもいいほどです。このあたりからコリント市の領域に入ります。
領内に入って、先ず目に留まるのは、イスミアの大競技場です。ここは、ペロポネソス半島の東端にある聖地オリンピアに並ぶ西のオリンピック会場です。東のオリンピア会場は天の神ゼウスの神殿が中心ですが、イスミアのほうは海の神ポセイドンの大神殿です。前6世紀に始まるこの「汎ヘレニズム大会」は、各年ごとに行なわれ、運動競技だけでなく、絵画や音楽や詩の朗読まで加わって、開会中は大賑(おおにぎ)わいです。前回は49年に行なわれたから、パウロたちがコリントに来たのが50年の初夏だとすれば、次の大会を控えて大量のテントの需要が見込まれます。
パウロが、アテネで、テモテとシラスを待ち合わせていたのは(使徒17章16節)、彼らが届けてくれるはずのマケドニアからの援助金のことがあったからかもしれません。ただし、テモテとシラスがマケドニアに残ったのは、マケドニアの教会が気がかりだからであって、援助資金が目的ではなかったでしょう。しかし、彼ら3人の苦境を伝え聞いたフィリピの教会が、残った二人に資金援助を申し出たのはありえることです。お金もないままにコリントへ単独で先に赴いたとすれば(使徒18章5節)、パウロが競技の聖地に興味を抱くことはなかったとしても、テント作りで自活するのに好都合だと判断したのかもしれません〔Murphy-O'Connor. Paul: A Critical Life. Oxford (1996).259.〕。
■コリントの市街
コリントの歴史は古く、都市としての起源は前10世紀にさかのぼります。前6世紀には、38本もの立派なドリア式の石柱に支えられたアポロンの神殿が建てられ、運河が開通し、イスミア祭が始まり、前5世紀頃から、このポリスは、イオニア海とエーゲ海を結ぶギリシア最大の商業都市として、アテネやスパルタと並んで繁栄します。前146年にローマによって滅ぼされますが、前44年に、ローマの執政官カエサルは、この地の交易の重要性を見抜いて、コリントをローマ式の都市として復興します。このために送り込まれた解放奴隷を含む種々雑多な人たちが地中海一帯から集まり、
コリントは、新たな商業都市として活気を呈するようになります。
市の中心には、石柱に囲まれた石畳の壮麗なアゴラ(広場)が、やや傾いた長方形で、東西120メートル、南北100メートルほどの広がりを見せています。広場は、南側30メートル、北側70メートルほどの所で、石柱の立ち並ぶ回廊によって南北に区切られていて、回廊の中央には、立派な柱頭を持つ石柱に囲まれた演説台(ベーマ)があり、そこで総督が演説をしたり裁判を行ないました。パウロの裁判もこの演台の前で行われたでしょう(使徒18章12~16節)。回廊の下の階には、立ち並ぶ石柱に区切られて店がびっしりと軒を連ねています。このアゴラは、いろいろな競技の場としても使用されたようです。広場の西側にはヘルメス神殿、ヘラクレス神殿、ポセイドン神殿、パンテオン神殿が並び、さらにその西のほうに、初代ローマ皇帝オクタヴィアヌスの神殿が堂々とそびえています。ここは皇帝への税を納める場所でした。
広場の北側は高台になっていて、そこに、
アポロンの神殿が壮麗な姿を見せており、向かい合う南のほうには、がっしりした
アクロ・コリントスの山の上に、女神アプロディテーの神殿があって、これら二つの神殿だけが、古来のコリントを偲ばせて変わることがなく、ローマ様式の新たなアゴラを南北から挟むように見下ろしています。
広場の北側の中央には、立派な凱旋門が、アーチ型の入り口を開けていて、そこから真っ直ぐ北方に100メートルほど、市の繁華街となるレカイオン通りが延びています。レカイオン通りの両側は、コリントの名店街で、わたしたちが今回注目する食肉市場もここにあったと思われます。レカイオン通りの東側には、柱廊に囲まれた聖なるピレーネの泉があり、さらに進むと、同じ東側にエウリクレスの大浴場があります。この通りの西側の裏手には、立派なバシリカ様式の公会堂があり、公会堂の西側の高台には、広い境内に囲まれたアポロンの神殿が壮麗な姿を見せています。神殿の北側にも柱廊に囲まれた正方形の市場があり、様々な店が大勢の人たちを四方から囲んでいました。市街の東北の一郭(かく)には、扇型のローマ式音楽堂(オデオン)が、今もその跡を留めています。その北側に、前5世紀に建てられたひときわ大きい扇型の劇場があり、さらに、その北側に、体育館(ギュムナジウム)の建物と競技場がありました。
レカイオン通りは、長いローブをまとった男女の市民たちで賑わっていたでしょう(コリントの遺跡に付属する博物館には当時の男女の立像が多数展示されています)。大きな正方形の石を敷き詰めたこの通りは、現在も残り、その先は遠くコリント湾に臨む港に通じていましたから、パウロは、おそらくこのレカイオン通りへ通じる道を北から市の中心へ向かって入って行ったと思われます。
アポロンの神殿は、現在わずか7本の石柱を遺すだけですが、そこから見渡すと、眼下にコリントの遺跡が広がり、その向こうにアクロ・コリントスの岩山がそびえています。左(東)へ目をやると、美しいギリシア正教の聖堂があって、かつてのコリントのキリスト教徒を偲ばせてくれます。
使徒パウロと共に(前編)へ