(8)コリント気質とプリスキラとアキラ夫妻
■コリント人気質
 紀元100年の東地中海の都市人口は、ローマ65万、アレクサンドリア40万、エフェソ20万、シリアのアンティオキア15万、コリントとアジア州のサルディスがほぼ同数の10万で、アテネが3万ですから〔ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』龝田信子訳。新教出版社(2014年)168頁〕、パウロの頃のコリントの人口は、10万以下でしょう。当時は、現在わたしたちの生活を支えてくれる便利な器具類の役割のほとんどが奴隷の仕事でした。例えば、エフェソでは、奴隷が市の人口の7割を下らなかったと言われますから、コリントでも、市の人口の少なくとも半数以上が奴隷で、彼らが「自由人」の生活を支えていたことになります。
  パウロの見たコリントは、アテネとは異なり、ローマの植民都市として都市の構造も、そこに住む人たちの生活様式も「ローマ様式」が基準にされていました(コリントで発掘されたこの頃の碑文はほとんどがラテン語です)。帝国内の方々から集まり集められた出所の異なる多様な人たちの寄せ集めで、コリント市の経済活動は活気に溢れていました。交易とビジネスによる成功志向の強い人たちによって街全体が運営されていたのです〔Anthony Thiselton. The First Epistle to the Corinthians. The Paternoster Press (2000).3-4.〕。伝統や文化よりも、商売上手が出世への近道ですから、自由な身分の人と言えども、自分が人からどのように「値踏み」され、どう「評価され」ているかが気になるところで、コリントでは、人目を気にする相互評価と、これに伴う「自己能力の顕示」が求められていたようです〔 Thiselton. The First Epistle to the Corinthians.13〕。
 しかし、人種、出所、技能、職能、学識、宗教などがこれほど多様な社会では、人は誇示すると同時に、それぞれの固有の弱みを隠したがるものです。表向きのローマ基準とは別に、様々な異なる尺度で評価され、これによって身分が決まるこういう社会では、高位の者は「解放された元奴隷」の身分を隠したがり、「野蛮な人種」と見られる部族・民族の者はその出身地を出さないなど、人は、ある種の「地位矛盾」に陥ることになります〔Murphy-O'Connor. Paul.269〕。パウロの場合で言えば、テント職人という手仕事からすれば「低い身分」だと見なされますが、タルソの「裕福なユダヤの家」の出ともなれば多少見る目も変わるでしょう。これにローマの市民権が加わり、弁論術の知識が披露されれば、さらに評価も上がろうというものです。「唯一の神を信奉する」ユダヤ人は、宗教的に敬意を受けますが、それもローマ帝国の権威に逆らわず、地元の神々の祭りやしきたりに反しない限りのことです。原理・原則、主義・哲学にこだわらないコリントでは、神々の礼拝も祭りも儀礼も、宗教的・文化的と言うよりは「社交的な」意味を帯びていたからです。
  コリントは、海の神ポセイドンをその守護神とし誕生しましたが、その後、市の守護神は、生殖と豊饒の女神アプロディテー(ローマ神話のウェヌス)に代わることになります。このため、アクロ・コリントス山の神殿では、アプロディテーの霊感を受けた女預言者が預言する慣わしが古くからありました。女預言者の制度は、コリントに限らず古代のスパルタでも行なわれましたが、やはりアプロディテーのお膝元は格別で、この伝統のお陰で(?)、コリントの女性たちは、他のギリシアの諸都市にくらべて比較的「自由な」活動が認められていたようです。実は、これがパウロの宣教に大きな力を発揮するのですが、このために、万事ローマ風のコリントでも、女性たちは、ローマの由緒正しい女性なら着けるべき「頭の被り物」をあえて着用しなかったようで、これがパウロのお叱りを受けることになります(第一コリント11章13節)。良くも悪くもこういう「自由」が、コリント女性の気質だったのでしょう。
  なお、アクロコリントスの岩山では、女神に仕える巫女たちが、「聖なる売春」を営む風習があったようです。これに与るのは、地位身分のある金持ち階級に限られますから、一般庶民は、街の方々で営まれている安上がりな悪所を選ぶことになり、このため有名な「コリント病」(性病のこと)が地中海周辺で流行するという有り難くない「うわさ」が広まることにもなります。アテネで「偶像」に憤ったパウロは、ここでは「風紀の乱れ」に憤慨するのです。
■プリスキラ夫妻とパウロ
  女神アプロディテーが鎮座するアクロ・コリントスの岩山が目に入ると、パウロは、コリント市の入り口が近いと思ったでしょう。レカイオン通りに入ると、その雑踏に驚き、大理石で飾られた壮麗なアゴラへ出ると、あらゆる種族の人たちが行き交うのを目にします。
  クラウディウス帝の紀元49年、ローマで「クレストゥス」と称する者たちが騒動を起こしたとかで、ローマ(とおそらくその周辺の)ユダヤ人たちに退去命令が出されました。「クレストゥス」とは「クリストス」のラテン語読みだから、騒動を起こしたのは「キリスト」と関係があるようですが、「キリスト」が騒動を起こしたのか、「キリスト」に対して周囲のユダヤ人たちが騒動を起こしたのか、その辺は定かでありません。おそらく後のほうでしょう。このあおりを食らって、天幕作りの職人であるアキラとプリスキラのユダヤ人夫婦が、ローマから船でコリントへ渡ったのです。ちょうどその年にイスミアの祭りがあったので、祭りで催される競技大会の際に大量の天幕が必要だというので、夫婦は、さっそく天幕作りを始めます。アキラは、黒海の南岸にあたるポントス州の出だとあるから、そこから、はるばるローマへ出てきて、妻のプリスキラに出会ったのでしょうか。「ユダヤ人」とあるから、コリントのユダヤ人の会堂に属していたのは確かですが、夫妻は、すでにキリスト教徒だった可能性があります。だとすれば、パウロによる回心とは思えませんから(第一コリント1章14~16節参照)、二人は、ローマで福音を信じたのか、後述するように、すでにパウロ以前にコリントにいたキリスト教徒に感化されたのか、どちらかでしょう。
  パウロは、天幕作りのユダヤ人の職人がいないかと尋ね歩いた末に、やっと二人を見つけたのかもしれません。人手が足りない夫婦は、この多少風変わりなユダヤ人の天幕職人と契約を結びます。夫婦は、この男が、自分たちをローマから追い出す原因ともなった「クレストゥス」運動の張本人(?)の一人だったとは知るよしもなかったでしょう。とにかく一緒に仕事を始めたのです。だから、互いに信者だったとは!と、不思議な出会いに驚いたか、主に感謝したかどちらかなのは間違いありません。アキラ夫婦にしてみれば、ローマで聞いたイエス・キリストの話を今度は事もあろうにエルサレムから来た律法の専門家から聞くことができるのだから、こんな有り難い話はないわけです。夫妻は、コリントのユダヤ人の会堂のメンバーでしたから、安息日ごとの礼拝を欠かすことはなかったでしょう。
  ところが、この男(パウロのこと)、仕事の合間に、少しでも時間の余裕ができると、すぐさま祈り出すのです。時には声を上げ、時には訳の分からない言葉(異言)で祈り、時には聖書を大声で朗唱する〔アラン・ドゥコウ/奈須瑛子訳『聖パウロ』女子パウロ会(2003年)204頁〕。唖然として見ていた夫婦も、やがて、彼がただのキリスト教徒の天幕職人ではないことを知るようになります。そのうちに、テサロニケとフィリピで受けた傷で弱っていたパウロの体もどうやら彼らのお陰で癒やされてきました。
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