(9)コリントでのパウロの宣教
■パウロの宣教
  パウロがコリントに到着した頃は、アポロン神殿の北側の市場ができたばかりでした。正方形の広場に面して、高さと奥行きが4メートルほどで、間口が2・8メートルから、広ければ4メートルほどの様々な店が並んでいました。小アジアのサルディスでも、体育館とユダヤ教の会堂が建つ高台の直下の通りに、同じように様々な店が並ぶ遺跡が今に残っています。水とトイレが共同なのはエフェソの下町と同じです。店の奥には木の梯子があり、そこから2階へ通じています〔Murphy-O'Connor. Paul. 263〕。
  店で働き始めた最初の頃は、訪れた客と会話を交わす「一本釣り」の個人伝道だったという推定もありますが、それだけでは収まらず、安息日以外の日を選んで、仕事が終わると、広場に面した狭い間口の店の中で「集会」をやっていたと思われます。大声で歌う賛美とパウロの熱烈なメッセージ、それに異言や預言など、霊感に満たされた祈りは、広場の人たちを驚かせ、彼らの好奇心を惹きつけるのに十分だったでしょう。集会が終われば、集まった人たちと食事を共にし、安息日が終わると、また仕事が続き、夜はアキラ夫婦が狭い2階で休み、パウロは下の仕事場で、ほとんどごろ寝同然(?)の姿で眠る、という日々だったのでしょう。
 集会が特にユダヤ人たちの注目を集め出したのは、パウロが安息日にユダヤ人の会堂で語ることができるようになってからです。そこでは、アンティオキアとアテナイでのパウロの体験が大いに役立ちます。彼は、アテナイで哲学者たちに語ったような「巧みな知恵の言葉」を避けて、単純率直にナザレのイエスの十字架と、このイエスのよみがえり、すなわち復活を説いたのです。ただしパウロは、このイエスが「今にも再び訪れる」ことを付け加えるのを忘れませんでした。これはテサロニケ伝道の成果です。会堂のユダヤ人には、イエスこそ約束されたメシアであると語り(使徒17章3節)、家に集まる異邦人には、イエスこそ罪を赦して命を与える救い主(キリスト)であると告げることで(使徒16章31節)、パウロたちは、現実的で自由で新しいものに開かれたコリントの人たちの心を次第にとらえていきます。
  シラスとテモテがマケドニアからコリントへ来て、パウロと合流します(使徒18章5節)。彼らがもたらしたマケドニアの諸集会からの援助は、パウロを喜ばせます。これで仕事を離れて宣教に専念できるからです。二人の支えをえて霊肉ともに力づけられたパウロの宣教は、いよいよ鋭さを増し、集会のメンバーも増え、その宣教はコリントのユダヤ人の注目を集めると同時に嫉視の的にもなりだします。
  おそらくこの頃から、3人は、夫妻の家を離れて生活し始めたのではないでしょうか。彼らの住まいは、パウロの話に感動したコリント人で、会堂の隣に住んでいたティティオ・ユストの家だったのかもしれません〔高橋三郎『使徒行伝講義』教文館(1987年)297頁〕。だとすれば、3人が会堂を離れた後も変わらず伝道できたのは彼のお陰です。
 しかし、アテナイの哲学者たちは復活を笑い、ピシディアのアンティオキアの人たちは「律法から自由になる」イエスの御霊の働きに憤激したように(使徒13章38~39節)、コリントでも同様のことが起こるのを避けることができませんでした。会堂のユダヤ人たちは、直ちにではなかったものの、次第にパウロの律法観に疑いの目を向けるようになったからです。先祖からの律法による割礼や食物規定などの細則と、自分たちが日々体験している異邦世界との狭間で暮らしていた彼らユダヤ人にとって、パウロの語る「律法観」は、理解に苦しむ難しさと魅力を併せ持つものでした。賛成する側も反対する側も、どちらもパウロの真意を理解するのと同じほど誤解していたのは間違いありません。古い伝統にこだわるのは何時の時代でも庶民であり、新しいメシアの到来と新たなメシアの律法を理解するのは知的な人たちです。会堂長のクリスポが、家族共々にパウロの語るイエス・キリストを受け容れたのは、こういう状況の中でのことでしょう(使徒18章8節)。彼らの回心は偶然ではないでしょう。パウロは、福音伝道があらゆる人たちのためであることを心得ていましたが、特に自由人に伝えることで、福音が広く行き渡ることを洞察できる実際的、現実的な方策を立てていたようです。自由人には、福音を伝えるだけの教養と時間と経済的な余裕があるからです。奴隷にはそのような自由は許されるべくもありません。アキラとプリスキラ夫婦は、「裕福」とは言えないまでも、彼らには、ユダヤ人としての福音理解の素地と、経済的な自立がありました。パウロは、大勢の人たちに語ると同時に、比較的上・中流層にねらいを定めていたようで、このやり方は、パウロの主であるイエスの方針といささか異なりますが、この際やむをえません。
■ユダヤ人会堂でのパウロ
  パウロがアテナイで受けた衝撃は大きく、彼は、二度と「知恵の言葉」を用いて語るまいと決心したようです。コリントでは十字架に付けられたままのイエス・キリストだけを語ろうと。アテナイの人たちの「知恵」ではなく「神の知恵」を語ろうと。
  ペトロは、聖霊体験を与えられた直後の説教で、十字架に付けられて復活したナザレのイエスを証ししました(使徒2章36節)。イエスの復活こそイエスがメシアであったことのしるしなのだと。パウロも、ペトロのこのメッセージを継承しています。しかし彼は、ペトロのメッセージにもう一つ大事なことを加えます。イエス・キリストの再臨です。しかも、彼らが「まだ生きている間にも」生じるであろう再臨です。
 ナザレのイエスが復活したのは、自分たちが死ぬことが無く、イエスと共に永遠の命に与るためだと信じたテサロニケの信者たちは、パウロの言葉を受け容れて、パウロと同様に、これを「いたる所へ」伝えずにはいられませんでした。ところが、テモテがテサロニケからもたらした知らせは、この点で問題を提起していました。テサロニケの信者の一人が、イエスに出会う前に「死んだ」のです。パウロは、自分でこれに答えるために第一テサロニケ人への手紙を書くことにします。彼は、テサロニケに向けて、生前のキリスト教徒とすでに亡くなったキリスト教徒とどちらが先にイエスに見(まみ)えるのか?という疑問に応えるのです(第一テサロニケ4章13~18節)。
  コリントのユダヤ人たちは、会堂で語るパウロのメッセージに耳を傾けていました。パウロが、聖書に預言されたとおりにメシアが到来することを告げた時にも、彼らはじっと聴き入っていました。ところが、そのメシアこそ、ナザレのイエスであり、このイエスが十字架にかかり復活して、再び再臨する段になると、彼らの静けさが喧噪に変わり始めます。ピシディアのアンティオキアで、イコニオンで、テサロニケで起こったことが、ここでも起こるのです。さらに、このイエスを通じて、ユダヤ人も異邦人も、もれなく救いに与ることを告げると、彼らの怒りが爆発します。「十字架に付けられたイエス・キリスト」という「神の知恵」は、彼らにとってとうてい受け容れ難いのです(第一コリント1章20~31節)。やむをえずパウロは宣言します。「あなたたちの血は、わたしに責任がない。これからわたしは、異邦人のほうへ行く」と。このパウロを受け容れたのが会堂の隣に住んでいたティティオ・ユストで、彼はローマから来た異邦人です。
 ついに会堂から離れたパウロたちは、自分たちだけの集まりを、その隣のティティオ・ユストの家で続けることになります。それでも、まだこの段階では、会堂のユダヤ人にもパウロの集会の人たちにも、パウロの語るナザレのイエスの十字架と復活と再臨が「ユダヤ教の一派」のメッセージであったことに変わりありません。ユダヤ教を知らないコリントの人たちは、パウロのほうに耳を傾け、ユダヤ人たちは両方の間で迷いました。体勢はパウロの語る福音に傾きかけていたものの、ティティオ・ユストや会堂長のクリスポやソステネたちが、イエスの御霊のあらがいがたい働きの前に屈服するにいたって、ついにユダヤ人の反対派の焦りと憎しみが爆発します。それでもパウロは、「それならわたしたちは異邦人のほうへ向かう」と公言してはばからなかったのは、パウロとおそらくその他の人たちにも、御臨在のイエスが顕われて、「恐れるな。この町には大勢わたしの民が居る」と告げたからです(使徒18章9節)。
■コリント騒動
 コリントに、アカイア州の新たな総督ルキウス・ユニウス・ガリウスが着任しました。紀元51年の夏(?)のことでしょうか。通常パウロの年表は、この年を基準に計算されます。ギリシアのデルフォイ神殿遺跡近くの石切場で、12行のギリシア文字が刻まれた灰色の石灰岩の破片が発見されました。その第二行目には、クラウディウス帝が、「12回目の護民官就任」と「26回目の皇帝承認歓呼式」の時とあり、第六行目には、「我が友にしてアカイア総督であるユニウス・ガリオンが、近頃報告してきて・・・・・」とあったのです。この碑文が、パウロのコリント滞在の年を52年と決定するのに重要なてがかりだと最初に判断したのはフランスのA・J・リナック(?)で(1907年)、その後W・M・ラムゼイが、ガリオンのコリント滞在を52年4月~53年4月とし、パウロのコリント到着を51年10月としました(1909年)。ガリオンの到着以前に、パウロはコリントに1年6ヶ月いたとあるからです(使徒18章11節)。しかし、現在ではガリオンのアカイア州総督の任期は51~52年か、あるいは52~53年とされています。ただし、彼の任期とパウロのそれまでのコリント滞在期間1年6ヶ月(使徒18章11節)との正確な対応は確認できません〔Murphy-O'Connor. Paul.19-22.〕〔Conzelmann. Acts. 153〕。
  ギリシア名で「ガリオン」と呼ばれるこの人の前に、パウロは、ユダヤ人たちによって引き出されます。ユダヤ人たちは「律法に違反する仕方で神を礼拝するよう人々を唆した」かどで、彼を訴え出たのです(同18章12~13節)。ガリオンは、ナザレのイエスを前にしたピラト同様に、「何か不正な行為か悪質な犯罪」をパウロが犯したかどうかと問いただすのですが、パウロにこれにあたる罪が見あたらないのを察知すると、彼はユダヤ人たちに告げます。「諸君たちの律法に関することは、諸君たちの間で解決せよ。わたしはそんなことに関わりたくない。」何事も平穏無事に統治することで税収を確保するのがローマの総督の腕の見せどころですから、着任早々のガリオンとしては当然の処置です。
  ところがこれを聞いた「みんな」が怒って、会堂長のソステネを捕まえ、衆人環視のうちに、広場の真ん中で彼を殴りつけたとあります。訴えに失敗した会堂長が、その責任を問われてユダヤ人たちに殴られるというルカ流の「ちゃかし」だと見る向きもありますが、「会堂長」とはある種の名誉職で、複数の「会堂長」がいて、会堂に貢献した有力者ならユダヤ人以外でもなれます〔Murphy-O'Connor. Paul.267〕。それに、この部分のギリシア語本文には、「ユダヤ人たちみんな」という読みと「異邦人たちみんな」という二つの異読があるからややこしい。怒ったのはユダヤ人のほうなのか? 「ユダヤの神」以外の神々を拝ませるようパウロが唆したという理由でユダヤ人が総督に訴え出るのを見ていたコリントの一般市民たちのほうが、反対にユダヤ人に対して怒り出してソステネを殴ったのか? どちらにせよ殴られたソステネが憐れです。もっとも、これを機会に、彼も入信してパウロに従ったという伝承がありますが(第一コリント1章1節参照)、「二人のソステネ」が同一人かどうか疑問視する説もあります。この事件は、コリントでのパウロたちの宣教をめぐる複雑な一面を垣間見せてくれます。
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