希望に輝くキリスト   
               宇宙論と宗教
              コイノニア会京都集会
             (2020年8月29日)
  「私たちに宿る希望に輝くキリスト」(コロサイ1章27節私訳)。
■宇宙と科学
 コロサイ人への手紙の第1章15〜20節には、御子イエスが、大宇宙全体の「お頭(かしら)」であるという宇宙観が語られています。皆さんは、こう思うかもしれません。宇宙は「自然にできてきてきた」ものだと。その通りです。自然科学は、人体から星空まで、この宇宙の諸々(もろもろ)の現象をこと細かく分析して、個々の現象に働く機能を理論づけて説明しようと努力してきました。だから、科学者たちは、無数の分野に分かれて、それぞれの専門分野で、物事の原理を追求しています。
 ところが、最近の物理学では、宇宙を構成する原理は、たった五つの理論に集約されているようです。それも、今の段階では、五つの内のどれが正しいのか分からない。しかし、ゆくゆくは、「万象唯一原理」(the theory of everything)へ到達すると信じています。どうして、そんなに、唯一原理を必死に追い求めるのでしょうか? それは、「神は唯一である」という宗教(信仰)が背後に潜んでいるからです。科学者たちのこの信念は、宗教する人とも共通します。ちょうど、日本の千万(ちよろず)の神々が、宇宙の万象それぞれに宿っていると信じて、それらの祟りや呪いを畏れるところから、唯一の神の怒りを畏れる信仰へと移行するようにです。
■神話と科学技術
 現在の私たちの生活は、科学技術のもろもろの装置で成り立っています。電話、パソコン、自動ドア、自動炊飯器などなどです。しかし、自動ドアも自動炊飯器も、アラビアンナイトに出てきます。「ご主人様、何がお望みですか?」と尋ねるロボットもでてきます。コンピューターは数字の「スペル」(綴り/呪い)で動きます。一文字間違えばうまく動かない。これも昔の「おまじない」の文句と同じです。現在の医学の最終目標は、いかにして人体を「死なないように」するかということです。ところが「永遠の命」は、最古のメソポタミアのギルガメシュの神話に出てきます。だから、人類の科学技術は、昔から語られてきた宗教や魔術を実現させることを求めて発達してきたことが分かります。錬金術師(alchemist)から現代の化学者(chemist)が生まれたように、占星術(astrology)から現在の天文学(astronomy)が生まれたように、宗教や魔術がなければ、自然科学は有り得ないのです。言うまでもないことですが、これらはすべて「人間のため」です。宇宙原理も科学技術も、行き着くところは人間の知力とその可能性の追求にほかなりません。「そうでない」と、いくら叫んでもそうです。ところが、その人知が生み出す技術が、核兵器のように人類を滅ぼそうとしている。これが、現在の人類にとって最大の危機なのです。
■三位一体の啓示
 今回のコロサイ書の宇宙論は1章18節をその核にしています。18節には、宇宙のはじまりから存在したお方が、人間の共同体であるエクレシアのお頭(かしら)として啓示されたとあります。そのお方は、十字架を通り死から復活されて、現在「私たち/あなたがた」エクレシアの一人一人に宿ってくださる。これがコロサイ1章27節が私たちに告げていることです。全宇宙の唯一の神がおられて、その神が一人の人間イエスとなって顕われた、その方が、十字架の受難を経て、万人に宿るイエス・キリストの御霊となられた、この三位一体がここで語られているのです。
■聖(きよ)く歩め
 十字架のイエス様の救いが、私たち一人一人に求めていることは、「今までの生活を離れて、聖く歩め」(1章21〜22節)ということです。イエス様の十字架のお赦しの御力は、全宇宙を動かすほどのものです。この御霊のお働きに動かされるなら、人間の本性に潜む罪性に支配され動かされることがありません。だから、私たちは、三位一体のイエス様の御前に、「祈りつつ歩む」のです。今の「あなたがた/私たち」には、「このこと」だけが求められています。それ以外のことはどうでもいいのです。いったい、何のためにそんなに「聖く」歩むのか?これの答えが1章27節の「希望に輝くキリスト」です。宇宙規模のキリストですから、その希望も宇宙規模です。しかし、「あなたがたに宿る」とありますから、御復活のイエス様に「どうぞ<この私に>お宿りください」と祈るのです。すると「輝く希望」が与えられます。
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