霊智霊能のキリスト
            コイノニア京都集会
        (2020年10月31日)
■コロサイ2章から抜粋(私訳) 
私が、あなたがたのためにも、ラオデキアの信徒たちのためにも、
まだ実際に顔を合わせていない人たちのためにも、
どんなに心を労しているのか知ってほしい。
皆さんの心が、聖霊の働きに動かされ、
霊愛に結ばれることによって
数々の霊知の宝の豊かな宝庫へ辿り着くように
すなわち、神の神秘であるキリストを悟るように。
キリストには、知恵と認識のあらゆる宝が秘蔵されているからです。
                (コロサイ2章1〜2節)
このように言うのは、あなたがたが、誰にも、まことしやかに言い立てられ、
言葉巧みに騙されないためです。
体は離れていても、霊においてあなたがたと共に居て、
あなたがたが、しっかりとキリストの信仰へ向いているのを観て喜んでいます。
                 (コロサイ2章4〜5節)
あなたがたに伝えられた通りの主イエス・キリストを歩んでください。
キリストに根ざしキリストに建てられ、教えられたとおりの信仰を固く守って、
感謝に溢れてください。
人の言い伝えから出た耳障りのいい言葉に、
「キリストではなく宇宙の諸霊力に」などという空しい哲学に
乗せられないようにしてください。
キリストは、神の御性質をすべて余すところなく宿し
体現されているからです。
                 (コロサイ2章6〜9節)
 あなたがたは、道を誤り、身は無割礼で死んでいたのに、
神は、そのあなたがたの内にキリストと共にある命を働かせて、
私たちへの恩恵によって罪をことごとく赦してくださったのです。
私たちを責める証文と、そこに書かれている私たちを罪に陥れる文言とを破棄して、
これを証文もろともに取り上げて十字架に釘付けしてくださったのです。
キリストは、このようにして、支配する諸力と権威ある諸力の武装を解除して、
それらを公に曝すことで、凱旋されたのです。
              (コロサイ2章13〜15節)
 ■支配する諸力と権威ある諸力
 パウロは、ガラテヤ人への手紙やローマ人への手紙では、福音をユダヤの律法と対立させて、「信仰による救い」を説いている。 一般的に言えば、 従来、このような見方がされていました。しかし、最近では、ユダヤ人の見解も加わることで、こういう見方が疑問になっています。1世紀のパレスチナのユダヤ人は、決して一方的な「律法主義」にこだわっていたわけではない。「神への信仰」も律法に劣らず重視されていたことが、現在では認められています。
 全く同じように、今日採り上げるコロサイ人への手紙でも、そこで語られているヘレニズムの哲学や諸宗教は、従来言われていたほど「迷信的なでたらめで、無力で、効力のない」ものではない。そうではなく、医療の分野でも、工事の現場でも、天文学でも、きわめて高度に発達したもので、現実の社会に有効な手段として用いられていたことが分かってきました。例えば、古代エジプトの「トート神」と古代ギリシアの「ヘルメス神」とが合流した「ヘルメス宗教/主義」(Hermeticism)は、1世紀の知識人たちに広く読まれていましたが、現代のアメリカでも、その深い哲学のゆえに重要視されています。
 コロサイ2章15節にでてくる宇宙と人間世界を「支配する力」とは、自然科学と哲学的な諸々の原理を指します。これに対して、「権威ある諸力」とは、霊的な権威とその力である、諸々の宗教のことです。これらが「私たちを責める」のは、それらの原理も権能もでたらめではなくそれなりにほんとうであり、現実に働いている力だからです。「お前たちは無力だ」「お前たちでは太刀打ちできない」「お前たちは悪い」などと責めるのです。辛いのは、それが嘘ではなく、そのとおりだからです。だから、現実に私たちを脅かし責め立てる「武器」を持つこれら諸力と諸権能を前にして、イエス・キリストは、十字架の赦しの恩恵を働かせて、足らざるわたしたちの命を護り、それらの「武装を解除」してくださるのです。人々は、自分たちを恐れさせているそれらの諸力と諸権能が「曝しもの」にされているのを見て歓呼してイエス様を迎えるのです。
■恩恵による赦し
 イエス・キリストがそれだけの力を発揮できるのは、天地を創造された神ご自身のお働きを「余すところなく体現」しておられるからです。「キリストには、知恵と認識のあらゆる宝が秘蔵されているからです。」そのお力は、私たちの弱さと罪深さをも克服する聖霊となって働くのです。この力こそ、イエス様が十字架の死を通して獲得された御復活の力です。人間は、「道を誤り死滅する方向へ歩き続けて」います。そういう人類に「キリストの命を働かせ」てくださるのが「罪を赦す恩恵」の働く力なのです。
■欺きの教え
 人を欺くには、「言葉巧みに語る」ことが必要です。しかし、「欺き」は、「語る」ことと同時に、「語らない」ことからも生じます。「言っていること」は、「言っていないこと」を隠すための便法だからです。この薬は「効きますよ」と言うだけなら、欺きになります。「効かない場合がある」ことも併せて正直に伝えるなら「欺き」になりません。だから、人は、「言う」と同時に「言わない」ことで、欺き欺かれるのです。「ほんとうである」ことは、「そうでない」ことと裏表だからです。自然科学の原理でも、宗教的な教えでも、ことごとくそうです。わたしたちの間違い、謬りから生じる罪を「暴いてさらしもの」することで、その謬りと罪を赦して、死から命へと復活させてくださる力、これが「十字架の赦し」を通して人類に注がれる神の御子イエス・キリストにある恩恵です。
■知恵と知識の宝庫
 だから、福音が啓示するのは、「天地の主」であり、「ナザレのイエス様」であり、「復活されたキリスト」です。三位一体の神です。この神のお働きは、これを知れば知るほど、無限に奥が深いです。「奥ゆかしい」力です。決して威張らない。決して見せびらかさない。決して無理強いしない。しかしものすごいです。大自然そのままです。どうか、伝えられたとおりのイエス・キリストを信じて、その道を外れることなく、どこまでも歩み続けてください。
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