三位一体の「愛」と「自由」
                       
 コイノニア京都集会
                 (2021年1月30日)
■今回の聖句(コロサイ3章9〜10節)
 今回は、三位一体の神に働く「愛と自由」についてです。取り上げる聖書の箇所は、コロサイ人への手紙の3章からと決められていますので、そこから始めます。コロサイ人への手紙で「愛」について語る箇所は、「あなたがたが、すべての聖徒に抱いている愛」(1章4節)と「愛は、すべてを調和させて結び、全体を完成させる帯」(3章14節。以下、聖句はすべて私訳)とあるところです。
 ところが、コロサイ人への手紙に「自由」は一度も出てきません。その代わり、「耳障りがよくても実効性のない哲学に丸め込まれて虜(とりこ)にされ、連れ去られることがないように注意しなさい。そういう哲学は、(神によらず)人の(自己判断の)言い伝えが編み出したものです。それは、宇宙の(惑星の)諸霊力論からでたもので、御子キリストから出たものではありません」(2章8節)とあります。また「(キリストは)私たちを法的に束縛する手書きの証文を破棄して、その文書を十字架に釘付けにして無効にしてくださった」(2章14節)ともあります。
 そこで今回の3章では、次の箇所に注目します。「互いの間で(神から出たと自称して)偽りを言い合ってはなりません。(自己判断による)古い自己中心の行動を脱ぎ捨てなさい。むしろ、(キリストと共に新生されることによって)新しくされた人を身に纏(まと)うことで、新たな人(キリスト)を創造された神の像に近づくために、霊智を働かせなさい」(3章9〜10節/エフェソ4章22〜24節を参照)。「神の像に近づく」は、創世記1章26〜27節を反映しています。ここで「霊智を働かせる」とあるのに注目してください。ここでは、「空しいだましごとの哲学」(コロサイ2章8節)と「知恵と知識の宝」(同2章3節)との対比・対照が前提になっています。
■霊智か、自己判断か
 ここで言う「霊智を働かせる」とは、1章の「イエス・キリストと共になる」ことによって与えられる聖霊のお働きのことですが、これには、人間の自己中心の判断と知力によらないことも含まれています。「空しいだましごとの哲学」とあるのは、人間には特別な智慧が具わるから、これによって、宇宙万物も人間存在の意味も、すべてを理解し把握することができる。この智慧さえ働かせれば、人間の肉体は死んでも、魂は肉体を離れて永遠に生きることができる、という思想のことです。これは、現代でも十分通用する考え方で、人は、頭脳さえあれば、カミもホトケも要らないという考え方に近いです。こういう思想から、「グノーシス」と呼ばれる異端が生まれました。
 この哲学では、「自由」とは、人が知力によって判断するままに、誰にも何事にも邪魔されずに行動する「自由」のことです。当時、「ヘルメス哲学」と呼ばれる思想が、エジプトのアレクサンドリアを中心にエフェソやコロサイにも広まっていました。この哲学は、人間の欲望のままの自由を否定して、身体的欲望から抜け出して霊魂に働く智慧だけを絶対化することで「自由」を獲得するように教えていました。こうなると、「手をつけるな、味わうな、触れるなという規定に縛られます」(コロサイ2章21節)。これに対して、聖書は、こういう人間的な知力が生み出した「哲学」によるのではなく、神の御子イエス・キリストによって、神からの霊智を身につけなさいと奨めているのです。
 では、聖書がそのように言うのはなぜでしょうか?「自由」は、人がこれをはき違えると、恐ろしくて危険なものに転じるからです。かつて、オウム真理教の麻原彰晃は、悪い人間を殺して仏の下へ送ることは、その人のためになると言って、多くの人をサリンで殺すよう命じました。人を殺す自由。他人の自由を奪う自由。自分に逆らう者やほかの宗教の人たちを皆殺しにする自由。こういう自由のはき違えは、現在でも、世界中で実行されています。こういう「自由」は、いわゆる「正義」にとらわれる必要がないからです。だからパウロは、次のように言います。「実を言えば、あなたがたが罪の奴隷身分であった時には、正義からは自由であった」(ローマ6章20節)。人間に具わる自由願望は、行き過ぎたり、はき違えたりすると、いかなる動物よりも恐ろしい働きをします。地球の温暖化に見るように、人間の知力による産業技術が、今、地球とその生物を危険に曝すところまで来ています。だから、パウロはこう言うのです。キリストが来たことによって、「アダムの罪によって歪められている地上の自然現象が、その滅びの腐敗から自由にされて、神の子たちと共に栄光を受ける自由へ入る時を待ち望んでいます」(ローマ8章21節)。
 人間の知力や欲望による自由は、人と人とを分裂させて、共同体を滅びに導く場合があります。これに対して、聖書は、「兄姉たち、あなたがたは自由になれと呼び出されたのです。ただし、それを欲望のままの自己勝手な自由だととらえないで、互いに相手に奉仕し合うために愛を働かせる自由としなさい」(ガラテヤ5章13節)と警告するのです。「主イエスは御霊として臨在します。主の御霊が臨在するところ、そこに、まことの自由があるからです」(第二コリント3章17節)。ところが、キリスト教の教会の中でさえも、せっかく「正しい自由」を求めて謬(あやま)りから出てきている人たちに、「さも偉そうな大言を吐いて、人を放縦な欲望へ誘い込もうする者たちがいます。そういう者は、自由を約束しながら、人を堕落の奴隷状態へ誘い込む」(第二ペトロ2章19節)のですから困ったものです。だから、私たちは、自己勝手な判断に頼らないで、主の御霊が導く判断に従うのです。「あなたがたが、もしわたし(イエス・キリスト)の内に留まり続けるなら、必ず真理を悟る。その真理こそ、あなたがたを自由にするのです」(ヨハネ8章31〜32節)。                 
■三位一体の「自由」の秘義
 三位一体では、地球と全人類の歴史を貫く「父なる神」と、その御子である一人の個人「イエス・キリスト」とがおられます。しかし、天にいます父と、この地上に来られた御子との間には、人知で計り知ることのできない「次元的な」隔たりがあります。また、歴史のナザレ人イエスと、復活したイエス・キリストから現在のわたしたちに降る聖霊との間にも、私たちの想いを超える時間的な距離があります。つまり、三者一体の「交わり」には、人知を超える不思議が潜むことが分かります。三位一体の「神」における三者の「愛にある自由な交わり」は、このように人知では到底理解できない「永遠の昔から隠されてきた秘義」(コロサイ1章26節)なのです。
 ところが、この三位一体の神同士の交わりに、私たちも加わることができるし、三者の間に働く「愛と自由」に与ることもできるのです(第一ヨハネ1章3節)。三位一体の愛と自由に働く「霊智」は、天地創造の昔から今に到るまで働いておられる父なる神の霊智と、これを啓示された御子イエス・キリスト「個人の」霊智と、聖霊を宿す私たちに働く霊智による「個人の自由」とが結びついています。だから、三位一体の神の霊智に与る私たちは、「信仰によって頭なるキリストにしっかり結びつく」ことが何よりも大事になります(コロサイ2章19節)。「信仰によって」とあるのは、この霊智が「人の想いを超える」働きをするからです。これによって初めて、「私たちも互いに愛し合い、相互の交わりを保つことが可能になる」からです。「キリストと共にある」(コロサイ1章12〜13節)ことから生まれる「自由」とは、こういう自由なのです。
■同行二人の良心
 コロナの現在の世で、私たちはどのような判断の仕方をしているでしょうか? 店を開くべきか、閉じるべきか? 会合に出るべきか、止めるべきか? 今、ワクチンを受けるべきか、避けるべきか。これら、判断に迷う場合が少なくありません。一般論ではなく、今の現実において、自分個人はどう判断すべきか?これの答えは、簡単に見えてこないのです。「自由」の中で、どうすればいいのか分からないことをあえて判断しなければならない。これが、一人一人に、現実に生じてくる実態です。
 自己判断をする場合、私たちは、「どう判断するのか?」を先ず自分に問いかけます。その上で、自分でその答えを出す。この「自問自答」。これこそ、私たち人間が、あらゆる場合に必ず行なう判断の仕方です。そこには、「二人の自分」が居ます。二人とも自分がやるのか? それとも、もう一人の「自分」のほうは、自分以外の誰かにするのか? さあ、これもまた判断しなければなりません。四国を巡礼するお遍路参りの人たちは、常に、お大師さん(弘法大師)と共に歩みます。これを「同行二人」(どうぎょうににん)と云います。この場合、お大師さんではないもう一方の「自分」は、「謙虚になって」(コロサイ3章12節)、二人で「共に/一緒に」判断し、「正しいと信じるほうに従う」ことが求められます。これが、「共に・知る」、英語の「良心」(con-science)が意味することです。
■祈る自由
 最後に「祈る自由」についてです。私たち主にあるクリスチャンは、自分の欲求と想いだけの判断ではなく、宇宙と人類の歴史を見通す父の神と、聖書が証しするイエス・キリストと、自分が置かれている現在の状況と、この三つが結び合う霊智を祈り求めます。自由の中で、選ぶ前に、先ず祈るのです。だから、頌栄の祈りはこうです。 「願わくは、父なる神の御愛、御子イエス・キリストの御恵み、聖霊の親しき御交わり、私たちと共にありますように。アーメン。」 
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