1章 パウロの「死の刺」
死は勝利に飲み込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前の刺はどこにあるのか。
この死の刺こそ罪であり、
罪の力は律法にある。
(第一コリント15章54〜56節)〔私訳〕
■イザヤ書とホセア書から
パウロの「死の刺」言葉には、イザヤ書25章8節とホセア13章14節とが、併せて反映されています。
(主は)死を永遠に呑み込んでくださる。
主なる神はすべての顔から涙をぬぐい
その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。
(イザヤ書25章8節)
私が彼らを陰府の手から救い出し
死から彼らを贖うというのか。
死よ、お前の災いはどこにあるのか。
陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。
憐れみは我が目から隠される。
(ホセア13章14節)
イザヤ書のほうでは、「死」は、「(主が)呑み込む」目的語です。ここは、イザヤたちが待ち望む「救い主」への預言の成就ですから、引用の言葉に続いて、その救い主について、「わたしたちが待ち望むわたしたちの神であり、わたしたちを救うお方、わたしたちの待ち望むお方」だとあります(イザヤ書25章9節)。主の贖いの日には、エルサレム神殿が建つシオンの山に、この方が降り立って、「すべての顔から涙を拭ってくださる」のです。これは、この世の終末に訪れる喜び(の酒宴)を言い表わしています(ヨハネ黙示録21章4節を参照)。
これに対して、ホセア書のほうは、偶像礼拝の罪を重ねてきた北王国イスラエルの民への主なる神からの「裁き」の言葉です。原文は「(わたしが)死から彼らを贖うと(でも)いうのか?」と否定する疑問文で、もはや、北王国には、(当時のアッシリアの侵略による)「死と陰府」の訪れしか残されていないと告げています。ただし、ここを、否定を意味する反語的な疑問としてではなく、次の七十人訳に見るように、イスラエルに救いを約束する肯定的な内容に理解する解釈もあり、否定と肯定の両説があるようです〔James L.Mays.
Hosea. Old Testament Library.181〕。
ホセア13章14節を肯定的に採れば、先立つ11〜13節と内容が合いません。否定に採れば、続く15節と合いません。このあいまいさは、イスラエルの民が、カナンの偶像礼拝に陥った場合、そこに待ち受けるのは「死と陰府」であり、そこは、もはや、主であるヤハウェ神でさえも手の届かない場所だからだと指摘されています〔前掲書182頁〕。ところで、ここを「死よ、お前の刺はどこにあるのか。陰府よ、お前の針はどこにあるのか」〔フランシスコ会聖書研究所訳〕と訳す版もあります。
■七十人訳では
ギリシア語の七十人訳のイザヤ書25章は、「死は力強く呑み込んだ」ですから、ヘブライ語原典とは異なり、「死」が主語になります。しかし、何を呑み込んだのかは出てきません。なお、「勝利して(呑み込む)」を挿入するギリシア語版もあるようです。
ホセア13章14節の七十人訳は次のようです。
わたしは彼らを黄泉(ハデス)の力から解放しよう。
彼らを死から贖おう。
死よ、お前の罰の根拠はどこにあるのか。
黄泉よ、お前の刺はどこにあるのか。
これで見ると、七十人訳のホセア書では、イスラエルへの「裁き」ではなく、「救い」が約束されています。パウロは、「罰の根拠」を「勝利」に替え、「黄泉」を「死」に替えています。「刺」(ギリシア語は「ケントロン」)の出所は不明ですが、ほかの版のギリシア語訳からかもしれません。以上で分かるとおり、パウロは、七十人訳のほうから、しかも、かなり自由に自分なりの文脈で引用しています。このやり方は、パウロに限らず、その当時、しばしば行なわれた「聖書引用」の仕方です。
■パウロの「死の刺」
第一コリント15章54節で言う「死」には、その背後に、「生ける神」の御手から離れた「陰府(よみ)」と、そこに横たわる「生きる望みのない死(体)」とが一つになった旧約の伝承があります。パウロの言う「死」にも、ホセア書の「死」と「陰府」が一体化しています〔Anthomy C. Thiselton.
The First Epistle to the Corinthians. The New International Greek Testament Commentary. Eerdmans & The Paternoster Press (2000).1300.〕。しかも、パウロは、「死の刺」に、ホセア書の「陰府に下る死」が意味する以上の恐ろしさと苦痛を加えています。
パウロと同時代のギリシア哲学では、人を霊魂と肉体とに分離して、死は、単なる身体に及ぼす働きにすぎないから、人に具わる永遠の霊魂は、「安んじて」身体の死を受け容れることができるという「哲学の慰め」が語られていました(例えばソクラテスの『饗宴』など)。しかし、パウロは、同時代のキリスト教徒と同様に、このようなギリシア哲学の慰めは、死の恐ろしさから目をそらす根拠のない幻想だと見なしています。
「死の刺」は、具体的に言えば、サソリの猛毒の刺のことで、この「死の刺」は、当時、拷問や苦痛を与える処刑にも用いられました。「死」は、パウロにとって、人を「傷つけてその心を殺す」致命的な刺(とげ)を具えています。それは、「死」が「罪」と結んで、さらに、「死の罪」が、「律法」とコラボレーションして働くからです(ローマ7章7〜25節)。パウロは、第一コリント人への手紙で、復活論を縷々(るる)説明した後で、「死の刺は罪/罪の力は律法/神に感謝せよ/勝利は我らにあり/我らの主イエス・キリストのおかげで」(第一コリント15章56〜57節)と結んでいます。「罪の力は律法」とあるのは、罪が律法を利用して働くからです。"Sin
gains its power from the law."(REB) これは、律法それ自体が「罪」であるという意味ではありません。律法は正しくて善いものであっても、律法の行使の方法を誤るなら、律法の働きが、逆に人に罪を犯させる源に転じることを言うのです。こういう事態をパウロは、「霊では神の律法(ノモス)に従い/肉では罪の律法(ノモス)に従う」(ローマ7章25節)と述べています。「ノモス」とは、律法/法則/法のことです。これを「罪<の>律法」と訳すのは適切でありません。日本語で言うなら「罪<な>律法」のほうが適切です。心優しい「いい男」が、そのゆえに多くの女性を引きつけて、女性同士の妬みや嫉妬の種になる。心優しく美しい女性が、多くの男たちの間で争いを起こすもとになる。こういう場合に、日本語では「罪な男」「罪な女」と言います。これは、その男あるいは女が「罪人」だという悪口ではありません。「善い」ことが、逆に仇となって、困った結果をもたらす場合の言い方なのです。ギリシア語をそのまま訳しても、このニュアンスは伝わらない。ちなみに、パウロは、ギリシア語の「ノモス」を(1)神からの啓示としての「法律」(ローマ7章12〜13節)、(2)人に罪の自覚をもたらす「律法」(ローマ3章20節)、(3)天地の法則としての「法」(ローマ8章2節)の三通りの意味で用いていると解釈されています〔Thiselton前掲書1303頁〕。
パウロによれば、「死」は、人が犯した罪への報いであり、その「報い」とは、人が神無くして追求するあらゆる「善」でさえも、己の意に反して、傲慢、憎しみ、殺意、妬み、争いなど様々な醜い罪をもたらすことです(ローマ3章10〜20節)。言い換えると、「死」とは、人に生きる力を失わせる「虚無性」のことなのです。「死」は、身体に死を呼ぶ働きをしますが、それ以上に、人類の終末に、神の裁きと滅びをもたらす「最後の敵」(第一コリント15章26節)です〔Thiselton前掲書1302頁〕。
■呑み込まれる「死の刺」
断罪と滅びの火が待ち受ける終末へ向かわせる「死の刺」と闘って、その刺の働きを「圧倒する力」で抜き取り、永遠の命へ向かわせてくださる「恩寵による大逆転」、これこそ、十字架のナザレのイエス様が、「死から復活する」ことで、わたしたちに成し遂げてくださった「勝利する力」の働きです。
第一コリント15章54節の「呑み込まれた」(ギリシア語は「カタピノー」のアオリスト形受動態)は、液体を「飲み込む」こと、固体を「食い尽くす」ことから出た用語です。パウロがここで「死を呑み込んでしまう勝利」と言うのは、イエス様の十字架と復活の「勝利」のことです(コロサイ2章10〜15節)。
わたしたち人類は、神のようになろうとするうぬぼれから、「神の知恵」を我が物にしようと企んで、「知恵の樹の実」を採って食べました。その結果、逆に、自分が裸であることに「目が開かれ」て、「イチジクの葉っぱ」という「お手製の宗教」で、己の裸をうまく隠そうとするのです(創世記3章4〜7節)。しかし、アダムとエヴァの結婚生活が始まると、自己流の「葉っぱ宗教」では、とうてい裸を覆うことができません。そこで神は、憐れみから、犠牲の血を流して「皮の衣」をお作りくださって、二人にそれを「まとわせて」くださったとあります(創世記3章20〜21節)。この「皮の衣」こそ、ここでパウロが言う「朽ちる体」という裸にまとう「恩寵の衣」の予型(タイプ)なのです。
イエス・キリストにある十字架の血の贖いの結果、わたしたちは、復活したイエス・キリストをわたしたちの「朽ちるべき自然の体にまとう」ことができるようになりました。だから、わたしたち人類は、「自然のからだで蒔かれて、霊のからだで復活する」ことができるのです(第一コリント15章42〜49節)。「朽ちるからだが、朽ちないものをまとう」時、「死」は、十字架のイエス様の勝利に「呑み込まれる」という事態が生じるからです(第一コリント15章53〜57節)。ちなみに、古来、「衣服」は、人の体を災厄から守る魔除けの役目も果たしましたから、その人の霊性をも象徴するものでした。わたしたちは、自分の身体という「土に戻る土器」に働いて、いつまでも輝きを失わないもの、言わば「青磁の器(うつわ)」とでも言うべきものへわたしたちを変容させてくださる「計り知れないパワー」、これを受けるのです。これが、十字架の贖いを成し遂げて復活されたイエス・キリストの御霊の働きがわたしたちにもたらす「驚くべき御力」(第一コリント1章18節/同2章4節)です。わたしたちは、この御力を、神からの「天衣」とし「恩寵の衣」として「身にまとう」ことができます(第二コリント5章1〜4節)。「イエス様の命を我が身にまとう」者とは、こういう人のことです(第二コリント4章10〜12節)。過去の罪から未来の希望へ!〔Thiselton前掲書1303頁〕、主の霊がもたらすこの「逆転」は、わたしたちが、「主イエスの栄光をおぼろに感得する」ことで、主の復活のお姿に変容されていくために与えられています(第二コリント3章17〜18節)。こうして、わたしたちは、「生ける神の神殿」になるのです(第二コリント6章16節)。
だから、わたしたちは、己の理知能力を崇拝するあまり、神など存在しないと豪語したり、金儲けの執念から人を犠牲にしたり、己の権力を誇示するために民を犠牲にしたり、己の権力保持のために他民族や異人種を迫害したり、また、暴力を信奉し、武器を用いて、他民族、他宗教の人を殺したりするなど、様々の「偶像礼拝」に陥らないように警戒しなければなりません(第二コリント6章14〜18節)。
■何時のことか?
ところで、パウロが言う「実効力を働かせる十字架のパワー」〔Thiselton前掲書1304頁〕は、いったい、「何時」わたしたちに働くのでしょうか? 「死は勝利に呑み込まれてしまった!」(第一コリント15章54節)と叫んだパウロは、55〜56節に続けて「神には、何と感謝すべきかな!」と告げ、「わたしたちの主イエス・キリストを通じて、わたしたちに<与えられている>勝利を」(第一コリント15章57節)と続けています。ここで、「与える」の現在受動分詞が用いられていることが注目されています〔Thiselton前掲書1304頁〕。これは、単に、未来への希望だけに生きる状態のことではありません。罪と死と律法の破壊力は、イエス様の十字架の勝利に「呑み込まれてしまった」ことで、「すでに打ち破られている」からです!最終的な勝利は、未来にあるとしても、信者は、この勝利をすでに「今の時に」体験することができるのです(第一コリント15章51節)。わたしたちは、恩寵の衣を「この朽ちるからだに」まとうことができます。シセルトンの注釈には、この働きが「今の時に臨在する」("present")ことを4回繰り返しています〔Thiselton前掲書1304頁〕。「信仰」は過去を受け継ぎ、「希望」は未来を待ち望みますが、「愛」は今の時に働くからです(第一コリント13章13節)。
キリストの御力へ