2章 パウロの「肉の刺」
■パウロの「肉の刺」
 第一コリント15章55節の「死の刺」のほかに、第二コリント12章7節でも、パウロは、自分に働く「肉への刺」について語っています。「(死の)刺」(原語は中性名詞「ケントロン」)と「(肉の)刺」(原語は男性名詞「スコロプス」)は、「毒針」と「串刺し」ほどの違いでしょうか。どちらも、先のとがった「とげ」の意味では共通します。
 筆者(私市)は、先に、パウロが言う「死の刺を呑み込む勝利」を、アダムとエバが犯した罪への赦しを表わす神の「恩寵の衣」と関連づけました。パウロは、自分の「肉/からだ」に、この「刺」が働いていることを「告白する」前に、楽園でエバが蛇に騙されたように、コリントの信者たちが「異なる福音」に欺かれて、「キリストへの純潔を失う」のではないかと懸念しています(第二コリント11章1~4節)。第二コリント12章の「肉の刺」は、「この問題」と関連して、パウロが、それまで誰にもしなかったと思われる「弱さの告白」と共に出てきます。いったい、コリントの教会では、何が起こったのでしょう?
■第一と第二コリント書簡の背景
 パウロは、第2回伝道旅行の際に、シラスやテトスと共に、コリントのプリスキラとアキラ夫妻の援助を得て、コリントの教会で福音を説くことができました(51年~52年)(使徒言行録18章1~17節)。その後、第3回伝道旅行で、エフェソに滞在中に、パウロは、コリントからエフェソを訪れた女性の商人クロエから、コリントの教会のことを聞いて、問題を感じたようで、コリントの教会へ最初の書簡を送ります(「失われた手紙」として現在遺っていません)(54年春?)。パウロは、テモテをコリントへ派遣しますが、入れ替わりに、コリントの教会から派遣されてエフェソを訪れた人たちから、質問状を受け取り、これに応えて、第一コリント人への手紙を書き与えます(54年6月頃?)。ところが、テモテがコリントから戻って、あるユダヤ人キリスト教徒が、コリントを訪れて、パウロの福音に反する教えを流していることを知ります。パウロは、早速コリントを短期訪問しますが(「苦痛の訪問」と呼ばれています)、パウロと敵対者との間に立つコリントの教会の態度が、パウロに不安を抱かせます。エフェソへ戻ったパウロは、それからマケドニアを訪れますが、再びエフェソへ戻ります。
 その頃(54年秋?)、コリントの教会で、パウロに敵対する者が力を得ていることを知らされたようで、パウロは、いわゆる「涙の手紙」(これも現在失われている?)を書き、今度はテトスに、その手紙を持たせて、コリントへ派遣します。その後、パウロは、マケドニアを訪れて、冬をそこで過ごします(54~55年)。テトスは、コリントから、マケドニアのパウロのもとへ来て、先の「涙の手紙」がコリントの教会に受け容れられたと、朗報を伝えます(55年春)。そこで、パウロは、第二コリント人への手紙を書き始めますが、後半を書き終えるまで時間がかかったようです。パウロは、テトスに、献金の勧めと共に書簡を持たせてコリントに派遣します(55年夏?)。それから、パウロは、マケドニアを旅して、テサロニケからギリシアへ下り、コリントを訪れます(55年秋)。その冬のコリント滞在中に、ローマ人への手紙を書いて、コリントに近いケンクレアの姉妹フェベにその書簡を持たせてローマへ送っています(56年頃)。
■敵対者の正体
 以上が、第一と第二コリント人への手紙に前後する事情ですが、いったい、コリントの教会で、パウロを悩ませた人物とは、どのような人だったのでしょうか? 諸説があって難しいところですが、パウロ書簡を「鏡」にして、相手の顔を以下のように映し出すことができましょう〔Murray Harris. The Second Epistle to the Corinthians. The New International Greek New Testament Commentary. Eerdmans & Paternoster Press. (2005) 71--87.〕。
(1)彼(あるいは彼ら?)は、パレスチナからコリントを訪れたユダヤ人キリスト教徒で、「律法主義的な」教えを広めようとしています。したがって、彼は、使徒教令(使徒言行録15章19~21節/同28~29節)を知っていたはずですが、これに従わず、割礼の実施を主張したかどうかは分かりませんが、食物規定などのユダヤ教の律法を厳しく実践させようとしました。
(2)彼は、ヘレニズム化したユダヤ教の影響を受けており、人間の「知性の働き」を救いの条件として重視する「グノーシス的な」傾向を帯びています。禁欲的で、「悪に染まった」身体よりも、「霊魂の救い」のほうを重んじ、イエス・キリストの「霊魂の復活」を唱えて、キリスト教徒の「霊魂の救い」には、「イエスの復活」は必要でないと考えていたようです。
(3)彼は、エルサレムの主な使徒たち(ペトロやイエスの弟ヤコブや使徒ヨハネ)と直接に関わりが無いにもかかわらず、あたかも、自分こそ使徒たちの教えを正しく伝えているかのように装(よそお)っていました。
(4)彼の教えは、「イエス」と「御霊」と「福音」の三つの相において、パウロが伝えている十字架のイエスの贖いによる恩寵の働き、すなわち、パウロが「福音の真理」(ガラテヤ2章5節)と呼ぶものとは、「霊」においても実際においても、全く「異なる偽りの福音」(第二コリント11章4節)でした。
パウロを批判するこの人物は、ギリシア的な知性を重んじるコリントの知識人たちに強い影響を及ぼしたようです。彼は、パウロの説く「イエスの御霊の福音」に意義を唱えただけでなく、エルサレムの使徒たちの権威を装って、パウロの使徒職それ自体にも疑いを抱かせようと企んだのです。このような人物は、パウロにとって、最も「やっかいな」敵対者だったでしょう。
■「肉の刺」とは?
 「肉の刺」とパウロが言う場合の「肉」(原語「サルクス」)とは、人間の身体のことだけでなく、「生身(なまみ)の人間」の有り様全部を言い表わす言葉です。だから、「肉の刺」それ自体は、パウロの心身を含みますから、様々な解釈が可能です。けれども、ここは、一般的に、パウロ自身の身体に関わる何か具体的な疾患を指していると考えられています。「私の体に一つの刺」〔聖書協会共同訳〕〔フランシスコ会聖書研究所訳〕「私の肉体にひとつの刺」〔新改訳2017〕。ただし、問題がこれで解決しないのは、この「刺」が、「サタンの手下」と結びついていることです。このことは、「肉の刺」が、単に「病気」とか「病気癒やし」に関わるだけでなく、人の行ないを含む霊性の有り様にも及ぶことを意味します(第一コリント5章1~6節参照。ここでも何か具体的な「身体の疾患」が関係しています)。私が、私訳で「心身の刺」と訳したのはこの理由からです。
 「サタンの手下」は、マタイ25章41節とヨハネ黙示録12章7節に出ていて、サタンもろともに「終末に滅ぼされる」運命にあります。とりわけ、今回の「身体の刺」は、第二コリント12章3~4節での「第三の天へ昇る」という(おそらくパウロ自身の)霊体験と、その時の自分の「身体」とも関係すると考えられます〔Murray Harris. The Second Epistle to the Corinthians. 851--858.〕。「肉の刺」は、(14年前の)その時の体験と関係して「与えられた」のでしょうか? 「第三の天」も「肉の刺」も、何か「異常な啓示体験」を踏まえていると見ることができます〔Hurris.前掲書851頁/853頁〕。パウロは、ここで、疾患が「常々自分を弱らせて屈辱的な思いをさせる」から、「サタンの手下の仕業」だと言うのでしょうか〔前掲書851頁〕。どうも、それだけでななさそうです。
■「肉の刺」私訳
 ここで、パウロの言いたいことを改めてわたし流に翻案し意訳すれば、次のようになるでしょうか。
 
 たとえ、今わたしが、自らを「誇る」としても、それは、自分へのうぬぼれから出た「愚か者の誇り」にはなりません。なぜなら、わたしの誇りは、わたしにほんとうに働いてくださる「キリストの御力」という真理だからです。
 けれども、今わたしは、「このこと」を「誇る」ことさえも、あえて差し控えましょう。なぜなら、わたしは、自分にあって働いておられるキリストの御力それ自体のことさえも、皆さん方が、ご自分の目で見て、ご自分の耳で聞いて、ご自分で確かだと判断することを求めているからです。そのあなたがたのわたしへの評価以上のものをわたしは求めません。
 多分皆さんも気がついていると思いますが、今のわたしには、神からの「絶大な啓示の力」の働きのあまり、わたしがうぬぼれて有頂天にならないように、わたしのからだに、一つの刺が与えられています。これは、わたしのうぬぼれを「叩く」ためのサタンの手下の仕業なのです。ただし、このサタンからの刺が、実は、わたしのうぬぼれを防いでくれるのです。「このサタンの刺をどうか取り除いてください」と、わたしは三度(みたび)主に祈り求めました。ところが、主からのお答えはこうです。「わたしの恩寵こそすべてに勝る。あなたの心身に働くその『弱さ』こそ、それを逆転させるわたしの恩寵が働く場そのものだからです。」だから、わたしは、自分の「弱さ」を喜んで誇ろうと思う。なぜなら、わたしが、心身の「弱さ」にあればこそ、「キリストの御力」が、このわたしに宿り、その御力が最大限に発揮されるからです!
           (第二コリント12章6~9節)〔私訳〕
 
 人の弱さを逆転させるキリストの恩寵の絶大な力、パウロのこの何とも不思議な「論理」を、皆さんは、どう思うでしょうか? 「霊の人は霊のことを霊の言葉で語る」(第一コリント2章6~18節)とパウロが言うのは、こういうことでしょう。それにしても、キリストの御力を発揮させてくださるパウロの心身の「弱さ」が、「サタンの手下の仕業」によるとは、どういうことなのでしょう?「肉の刺」とは、単に自分の疾患にかかわることだけではなさそうです。パウロが、コリントの教会の人たちに向けて告白している「己の弱さ」と、その弱さゆえにいっそう発揮されるキリストの御力の絶大なパワーと、これによるパウロの「誇り」、これこそ、コリントの信者たちの目の前で、現に今起こっている事態です。しかも、この事態は、コリントを訪れている誰かさんという「サタンの手下」がもたらした結果なのです。サタンの手下が招いた結果が、逆に、パウロに働いている「キリストの御力を証しする」結果をもたらしているという不思議な事態。パウロは、「このこと」をも示唆しているようです。
                      キリストの御力へ