(1)コリントの教会と偶像への供え物
■はじめに
 先に『船の右側』(2015年6月号)のインタビュー記事「人間の理性と聖霊の働き」で、私は御霊にある個人の霊性がこれからの福音活動の鍵になると指摘しました。今回編集の方から与えられた課題は、「浄と不浄」の問題を「聖と俗」と共に考えることで、個人の生き方についての「御霊にある倫理」とはなにかを探ることです。現在日本人が置かれている宗教環境は、世界でも珍しいほど多様で複雑です。そこで、「浄と不浄」、それもキリスト教以外の宗教(したがってキリスト教が言う「偶像」)の「供え物を食べる」というあえて複雑な問題を通じて、読者の方々それぞれが、霊的な視点から他宗教との関わりを考えるてがかりにしてくだされば幸いです。
■コリント教会の人たち
 コリントの教会は、第一コリント人への手紙とローマ人への手紙と使徒言行録を通じて、教会の構成員と彼らが置かれていた社会的状況を他の教会以上に明らかにしてくれます。「この世の基準から見るなら、あなたたちの中では、賢者も多くないし、有力者も少なく、裕福な者もそれほど多くはない」(第一コリント1章26節)とありますが、「賢者」とは、教養を具えていて、それゆえしかるべき判断を下せる資格のある人のことであり、「有力者」とは社会的に地位のある人物であり、「裕福な者たち」とは、ユリウス・カエサルによって奴隷身分から解放されローマの植民者としてコリントへ送り込まれることで「成功した」人たちのことでしょう。ところが、コリントの教会のメンバーとして名前があげられている人たちは、まさにその「多くはいない人たち」なのです(ガイオ/ステファナ/ティティオ・ユスト/クリスポ/エラスト/フェベなど)。これら三つの階層に具わるのは「自由人」の特徴で、そこから垣間見えるのは、比較的少数でありながら、影響力の強い共同体です。その他の者たちも決して「最底辺の」貧困層ではありません。新たな宗教に興味を抱き、それに加わることができるだけの「余裕のある」人たちですから。
■偶像への供え物
 コリントにはアポロンの神殿を初め、神々への神殿がいたるところにあり、大きな神殿には必ずそれに隣接する広間があって、そこは市民が集う重要な場とされていました。それらは公の会議や私的な誕生祝いや結婚式などの家族の催しから、市の公共の行事まで、様々な寄り合いの場となっていたのです。コリントで売られる肉は、そのほとんどが神殿に献げられてから市場へまわされたと考えていいようです。現在も遺るパピルスには、公用や私用で市の偉いさんから食事に招かれた場合のことが幾つも記録されていますが、その実状を見ると、場所も内容も実に様々です。
 当時の神殿は「レストラン」も経営していました。日本のキリスト教徒が、地元の寺院の経営するレストランで街の人たちと食事をするのは偶像礼拝になるでしょうか? 正月にお雑煮を食べるのは、神棚に供えた献げ物を神道の神々の前で食べるのと同じ「偶像礼拝」になるでしょうか? コリントの社会的経済的な「弱者」は、小麦か大麦のパンを塩と一緒に食べるのが一般的でしたが、「肉食」にありつける機会など滅多にありません。だから、「肉に与る」機会があれば、やましい気持ちを抱きながらも、神殿に隣接するレストランで肉を食べている「弱いキリスト教徒たち」の姿も目に浮かびます(第一コリント8章7節)。異教の神々に供えられたことを「想い出させる/連想させる肉」とパウロは言いますが(第一コリント10章28節)、こういう状況では「偶像」がどの程度そこに「現実に存在している」のかを見分けるのは難しいでしょう。
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