(2)「強い人」と「弱い人」
■強い人と弱い人
 「強い」「弱い」というこの言い方、実は55年の末頃、コリント滞在中に書かれたローマ人への手紙に出てくる用語です(ローマ15章1〜2節)。まだローマへ行ったことのないパウロですから、コリントの教会の人たちが彼の念頭にあったのは間違いないでしょう。この「強い」と「弱い」をめぐっても諸説があります。強い異邦人キリスト教徒と弱いユダヤ人キリスト教徒、改宗したばかりの弱い異邦人キリスト教徒と成熟した強いキリスト教徒、知識層と無教養な人たち、社会的地位の高い者と低い者、肉を食べる富裕層と滅多に肉に与ることができない貧困層、家庭で肉を食べることと神殿の境内で公に食べる場合の違いなどです。肉食の「自由」と肉食による「偶像の汚れ」の間には、個々の事情による具体的な状況が重なります。ちなみにマルコ2章25〜26節では、ダビデの場合に関連して、「聖なる物」を「俗人が食べる自由」についてイエスの口から語られています。
 パウロは、霊的に「成熟した人」(第一コリント2章6節)とまだ「幼い者」(3章1節)とを対比させています。「霊的な知恵」には、当然段階に応じた有り様がありますから、「高級」と「低級」の差から生じる対立や分裂はパウロの時代に限りません。神学的・聖書学的な「知識を誇る」キリスト教徒たちと、単純に聖書を信じる「未熟で幼稚な」(?)キリスト教徒との間に横たわる亀裂が、キリストの共同体(エクレシア)を霊的に分断している状況は現在もパウロの時代と変わらないのです。
 コリントの教会のユダヤ人キリスト教徒たちの中には、モーセ律法を重視する人たちが抱く「汚れ」思想、「いかなる偶像にもかかわってはならない」という狭く厳しい警戒心を抱く人たちがいました。しかし同時に、どのような偶像もイエス・キリストの御霊にある自由の前には完全にその存在意義を失っていると見なす強い「自由信仰」への理念の持ち主たちとも出会います。コリントの教会内では、この全く異なる「浄・不浄」への信仰が相対立してパウロを困らせていたのです。
 ここでパウロは、人の「内面の意識」に注目することになります。「偶像への供え物については、第一コリント8章と10章14〜33節で扱われています。ところがそこで述べられている彼の論旨は一直線ではありません。まず「世の中には偶像など存在しない」という強い自由への信念が語られます(8章1〜6節)。ところが続く7〜13節では「良心が弱い者」への配慮が必要だと告げられます。さらに10章14節〜22節では、キリストの血と体に与る聖餐を引き合いに出して「偶像にまつわる悪霊を避ける」よう警告されます。しかし続く23節以下では、公共の場などで未信者や異教徒も交えて食事をする時には、「良心であれこれ詮索しないで、何でも食べなさい」(27節)と言われるのです。ところがその「良心」とは、自己の良心のことではなく他人の良心をも含むのです。「偶像礼拝」(エイドーラトリア)を避けて「偶像への供え物」(エイドーロストイ)を食べながら、「すべての点ですべての人の益を図る」(33節)のは難しいです。
 ここでパウロが目指すのは、彼に批判的な強い人たちを「排除する」ことではありませんから注意してください(こういう解釈もありますが)。そうではなく、知的で強い人も偶像に警戒心を抱く「弱い?」人も、共に一致してエクレシアを形成していくことがパウロの目的です。ところがパウロは、この目的を達成するために、信仰を原理化することを避けて、個人の霊的な自由を重んじるよう勧めるのです。一見すると、これら二つのことは、エクレシアの一致とは正反対の方向を指しているように思われます。この謎を解く鍵は、イエスの十字架から降る愛と恩恵の御霊の働きです。
■原理化を避ける
 「わたしたち全員は、偶像に対するそれなりの霊的な知識を所有している。このことは、わたしにも分かっている」(第一コリント8章1節)。パウロはこう始めます。言わばこれが、コリントの教会の知的なキリスト教徒たちのスローガンです。
 たとえ神々が信じられていようとも、偽りの神々が(「偶像」のほんらいの意味)存在しないのなら、それらに犠牲として供えられた肉であろうと、そうでナイ肉と同じに見なすべきではないか(8章4節)。これがコリントの教会の「強い人たち」の「知識」であり、彼らはこの原理に基づいて振舞おうとします。物を人間の宗教心から切り離して、主観とは別の客観的な存在だと見なすこの見解は、現代の科学的で唯物的な視点に通じるもので、これこそギリシア的な伝統に立つ知の本質です。
 身近な例えで言えば、恋人からヴァレンタインにもらったチョコレートも、物質的な見方をすれば、店に山積みされている一つにすぎないとしか映らないでしょう。これではせっかく恋人がこめた想いも、その有り難みが消えてしまいますが、同じ見方が偶像の神々への恐れをも取り除いてくれるのです。だからコリントの教会の知的な人たちは、犠牲の肉を「客観的に」見ることで、これを無害だと見なすことができるのです。
 しかし、パウロはここで「知識は人を高ぶらせるが、愛は建徳する」を加えます。知的な原理に基づいて、物を客体化した上で、その対象を知によって「支配しよう」とする彼らの「知識」は人を誇らせるからです。「唯一~」の存在こそコリントの教会人たちの「自由の土台」なのはその通りです。だが、そういう「知」が人を解放するから偶像など現実に存在しないと見なすまさにその「知識」こそが、ここで問われることになります(8章2節)。教会の全員が、そこまでの知識を所有しているわけではないからです(8章7節)。「霊的な知識」は、コリントの教会の知的で強い人にもパウロにも等しく与えられている神からの御霊の賜にほかなりませんが、パウロは、彼ら以上に霊的に奥が深いのです。
■霊的自由を重んじる
 コリントの教会の知的で「強い」人たちは、唯一~への信条をギリシア的な知によって原理化し、この原理に基づいて偶像への恐れを克服しようとします。「神々なくば、偶像なし」という「客観的」な事実によって「宗教問題の解決」を図ろうと志します。しかし、パウロは教会の「弱い者」個人個人の内面性とその意識/認識を問うのです。強い知的な人が言う「正しい知識」では問題はまだ解決しないからです。偶像は弱い個人のうちにいぜんとして<生きている>からです(8章5節はこのことを明示します)。
 たとえ正当な理由があっても御霊にある恩恵を原理化できないのは、問題の本質が、その物(食用の肉)が個人に対して帯びる<その場の宗教的歴史的な存在様式>にあるからです。パウロは、犠牲の肉に関わる当人の意識の有り様が、「その物と切り離す」ことができないことを見抜いています。そこでは<宗教的で歴史的な状況>の中で生じる物とその人との関係が問われるのです。コリントでは供犠(くぎ)の肉は、追悼会でも、結婚式でも、公の祭日でも配布されます。コリントの教会の強者たちは、弱者の意識、すなわち弱者の良心を変革させようとするのでしょうが、パウロはここで、そうは<言わない>のです。信仰者それぞれが、自分に与えられたその段階での内面的な信仰と、そこから生じる<良心的な認識>に従うよう勧めるのです(7章17節)。その上で、「食べる者は食べない者を軽蔑せず。食べない者は食べる者を批判しない」よう要請するのです(ローマ14章1〜6節)。ここで言う「弱者」を、偶像に対して警戒心の強いユダヤ人キリスト教徒だとか、回心後間もないがゆえ偶像に感化されやすい異邦人キリスト教徒だとか、ある特定のグループに限定してはならないでしょう。どのような場合にも、強者の振舞いに躓きを覚える「弱者たち」が必ず居るからです。
 だから特定の知識に基づく原理主義によって、個々の歴史的状況に配慮することなく、それぞれの場における物と信者との霊的な関わりを無視して「知の暴力」を行使してはならないのです。この場合、「肉」という物それ自体の中立性は、これに対する振舞い方の正当化にも、自由の行使権の保証にもなりません。問題は、哲学的な原理でも、神学的な教義でもなく、それぞれの歴史的な状況での「御霊にある自由」の行使の是非です。行使<する自由>があるのなら、行使<しない自由>もあることをわきまえるべきです。行使するかしないか、その選択は、その人が、主イエスの御霊にある交わりにあって決めるべきです。
 強い人を立てるのか、弱い人をおもんばかるのか?くどいようですが、肉それ自体のことではありません。これを「食べる」人の内面性とこれに基づく主体的な行為のほうが大事です。弱者にとって供犠(くぎ)の肉が偶像を<生き返らせる>なら、それは彼の信仰の侵害になるでしょう。彼は「信仰によらない行為によって自らに罪を招く」ことになります(ローマ14章23節)。だからパウロは、自己の自由を弱者への愛のために行使しないことで、その判断の是非を「主に委ねる」のです(第一コリント8章6節)。
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