(3)エクレシアの一致のために
■エクレシアのために
このように、知的で強い人たちの<原理化する知の働き>に対して、パウロは「神からの愛」を対置します。その上で彼は、己の「知識」をあえて「放棄する」ことをも辞さないのです(8章13節)。犠牲の肉を知識によって克服する彼らの「知」の有り様を全面的に否定するのではありませんが、それでは、まだ御霊の真理から見れば「神秘に隠された神の霊知」(2章7節)に到達しているとは言えないからです(第一コリント8章2節)。彼らの知の有り様では、弱者の内面性がその信仰共々に侵害され損なわれるからです(8章11節)。「神の愛」こそ真の基準であり、これが「知識」を正しく導くことを悟る必要があります。これこそが、第一コリント13章で語られる愛の意義です。それはパウロが「最高の道」(12章31節)と呼ぶ愛で、「自己放棄する愛」(13章5節)のことです。個人個人が神に<知られることで知らされる>神から来て神へ向かう愛です(8章3節)。
パウロはここで、エクレシア全体の交わりを「建徳する」(オイコドモー)ことを第一に置いています。人がその「霊的な知識」において真に正当かどうかの分かれ目がこの点にあるからです。コリントの知的な人たちの単なる個人主義的な知識追求と、パウロが目指すエクレシア全体への神秘な知恵との違いがここにあります。しかも、種々の状況に適応する個人の応答は、「わたしはパウロに」、「ペトロに」、「アポロに」のように、宗派や宗団ごとの原理的な基準に置かれるのではなく、それぞれが、主イエスへの御霊の導きに従って、「その時その場で」の振舞い方を「それぞれに与えられた信仰に対応して」実行するのです。御霊にある自由と御霊にある一致、この二つをつなぐものこそ、イエスの十字架から発する「御霊の倫理」なのです。
■パウロの宣教理念
パウロが目指すのは、万物の創造~としての唯一神教のことだけでなく、「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」から啓示される御霊の知恵に導かれることです(8章11〜12節)。これこそ、パウロが第一コリント人への手紙で強調してやまない「十字架のイエス・キリスト」の恩恵であり、そこから流出する弱者への愛です。主イエスの十字架から発する御霊の愛こそ、人間的な知恵に潜む罪を赦して、これを「神の知恵」へ導くことができるからです。イエス・キリストの十字架を通して啓示された父なる神の御心こそがパウロの宣教理念の根幹です。
これは、事物を客体化することで人間を恐れから解放しようとするヘレニズムの思考様式と同じではありません。ここで問われるのは<すでに獲得されている>知識のことではありません。パウロは、霊知へいたろうとするその<到達過程>それ自体が御霊にある愛によるものかどうかを問うからです。パウロのこういう「知恵」の有り様は、ほんらいのギリシア的な知ではなく、むしろイスラエルの伝統を受け継いでいるヘレニズム・ユダヤ教から来ていると見るべきでしょう。
ナザレのイエスの父の神が啓示する導きは、客観的で中立な物への知識よりも、むしろ人への愛を優先させる「恩恵」を啓示するものです(ヨハネ1章14節/コロサイ1章14節)。これが、ほんらいイスラエルの神が与える知恵にほかなりません(箴言8章22〜23節/知恵の書7章22〜30節)。強いコリントの信者たちは、唯一神教を原理化した信条をパウロと共有しようとするかもしれません。唯一神教への理念それ自体は誤りではありませんが、人類一般の「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)のためを思うなら、さらに、現にこの世で宣教しているエクレシアと、これと共に働いておられるイエスの御霊の導きに従うなら、他宗教をも含めて偶像がこの世では「まだ生きている」ことを無視し、この宗教的な事実を否定することで唯一神観を<原理化し>、弱い立場の信仰者たちや他宗教に対してその原理を<無理強い>することは許されないのです。
事はコリントの弱いキリスト教徒への対応にとどまりません。聖書の唯一神教を振りかざすことでこれを絶対の原理として、キリスト教以外の諸宗教を頭から否定し、もろもろの「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)を単なる「異教徒」と見なす従来の宣教理念だけでは、一般の人たちを主イエス・キリストの「贖いの愛」へ導くことはできないでしょう。弱いキリスト教徒も知識を持たない異邦人も<彼らの意識と良心それ自体において>イエスの御霊の愛によって贖い出されなければならないからです。これが、ナザレのイエスの御霊の愛による「十字架の宣教」です。
「強い者」と「弱い者」が混在する多種多様なキリスト教徒で成り立つエクレシアにあって、「多様の中の一致」を見出し造り出し、これによってエクレシアを「その全体において」育て導くのがイエスの御霊にあるパウロの宣教理念です。第一コリント人への手紙でパウロは、信者個人個人が「神の御霊が住まう家」であることを強調し(3章10〜17節)、「一つ体と多くの部分」(12章12〜31節)を通してキリストのからだ(エクレシア)の形成を説くのはこの理由からです。「原理」を振りかざして異教を屈服させる挑戦的で戦闘的な宣教手段ではなく、主イエスの御霊にある「十字架の愛の倫理」に従って、個人個人が隣人愛の実践を通して、多種多様な宗派宗教の人たちを感化する、こういう平和と寛容を重んじる宣教手段こそ、これからのアジアのキリスト教宣教にふさわしいのではないでしょうか。
*このメッセージは、『舟の右側』(2015年8月号)に「浄・不浄について」と題して掲載されたものです。
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