2章 神の奥義キリスト
 
御子の贖いの奥義
 
7御子においてわたしたちは贖いを得た
 その血によって罪過の赦しを得た
 ひとえに神の恵みの豊かさによって。
8 この恵みはわたしたちの内にあふれ、
  あらゆる知恵と洞察となり、
9神の御心の奥義をわたしたちに知らせた。
キリストにあって予(あらかじ)め定めた
  神の摂理に従い
10時満ちてご計画が成就し、
キリストを頭としてあらゆるものを統轄するために
 諸天にあるものも地にあるものも
 キリストにあってまとめられた。
(エフェソ1章7〜10節)
 
〔キリストの血による贖い〕
 これがこれから語ることの根本です。このことをしっかりと心に留めてください。「血」とはキリストの十字架の犠牲のことです。だから、救いの力はわたしたちから出ているのではありません。「(キリストが復活されたのは)来たるべき世世にわたり、恵みの豊かさをキリストにあるわたしたちに顕わすためです。実にあなたがたが信仰によって救われたのは、恵みによるのです。あなたがたから出た(救い)ではなく、<神の賜物>です」(エフェソ2章7〜8節)とあるのをしっかり心に留めてください。これが、これから語ることの根本です。イエス様の十字架からの赦しの働き、これこそ、これから語られる宇宙を創造した神からの絶大な力の源です。
〔豊かさ〕
 「恵み」とは、今お話ししたイエス様の十字架から降る「恵み」のことです。それでは「豊かさ」とは何でしょう? パウロが「罪の増すところ恵みもさらに増し加わった」(ローマ5章20節)と言っています。これがここの「豊かさ」のことです。豊かさが「あふれ出た」とあるのは、恵みが「いや増し加わる」ことです。御霊にある恵みそれ自体が、人間の罪深さをを超えてどこまでも注がれることです。だから、恵みは、どこまでも<探求するために>授与されているのです。霊能による癒しやその他の賜物も確かに知覚できる「恵み」です。しかし、霊能的な恵みに留まっていないで、さらにその先へ恵みを探求してください。あなたが出会ったイエス様の赦しの恵みをどこまでも深く尋ね求めてください。「与えられて求める」のです。そうすることで、御霊の恵みが、深く深く「増し加わる」からです。恵みが、キリストの御霊の働きによって、主様にある人の内で増し加わり、働き続けることを覚知することが大切なのです。
 「覚知」すると言いましたが、続く「知恵と洞察」は、二つのコンマで挟まれています。語法的に見れば、先のコンマがなければ、「知恵と洞察」は「わたしたち」にかかるから、人間の領域に入ります。しかし、後のコンマがなければ、9節の「知らせる」にかかるから「神がわたしたちに教える」ことになります。御霊がわたしたちに与える「知恵と洞察」は、たとえ神からのものであっても、「知恵」(ソフィア)とか「洞察」(プロノイア)は、啓示の知恵から生活の知恵まで、神と人間の<両方の領域>を含むのです。だから、御霊にある「知恵と洞察」は、自分のものであって、自分のものでない。神の御子から来るものであって、わたしたちに与えられているという不思議な「知恵と洞察」です。
■神の御心の奥義
 ここは難しいけれども大事なところです。「奥義」は隠されていた神の御心のことで、「秘義」あるいは「神秘」とは、不思議で理解できないことです。パウロは、キリストの福音がイスラエルの民から異邦人の救いへ向かうことが「測りがたい神秘」であると言っています(ローマ11章33〜36節)。ところが今回、この「神からの奥義/神秘」が人に「知らされた」とあります。「知らされた」のは8節の「知恵と洞察」を通じてですから、この秘義は、御霊にある人が悟ることのできる奥義であり神秘でしょう。とりわけ今回は、もろもろの時代(アイオーン)と世代の前には隠されていたものが、今や聖徒に啓示されたとある「神の奥義」という意味です(コロサイ1章26〜28節)。しかもこの神秘が「異邦の諸民族にも」知らされたことが重要なのです。
 その「奥義」がどのようなものかが9節の後半から10節前半に顕われます。 実はこれが驚くべきことなのです。イエス・キリストの血による贖いの業は、世の初めから神の奥義として定められていたことだからです。それが、人類の長い歴史において、それぞれの時代、それぞれの場所での人間の悟りに応じて、徐々に預言され啓示されることで「開示されてきた」のです。そして、今「時満ちて」、この奥義は人類にはっきりと啓示された。こう10節は告げています。
 「神の摂理」と訳した箇所は、文字通りには「神が嘉(よ)しとするみ心」“the mystery of his will, according to his good pleasure”〔NRSV〕です。これ、神の「意志」であり「喜び」のことですが、内容的に見れば、神は創世記の初めの天地創造を観て「嘉(よ)しとされた」とあるところまでさかのぼります。だから、キリストの贖いの摂理は、人類のあらゆる世世の「諸時代(アイオーン)」を貫いていて、そこには神の創造の喜びが働いているのです。「キリストによる血の贖い」は、神が人類の歴史を導いてきた意図と目的であって、その目的が「神の時満ちて」わたしたちに「知らされた」(9節)のです。だから、「前もって定めた神のみ心」による「神のご計画/摂理」が、イエス様の出来事において「成就した/完成した」のです。
  パウロは、「律法の下にある時が今や(キリストにあって)成就された」と言います(ガラテヤ4章4節)。エフェソ人への手紙は、神によってあらかじめ定められていたもろもろの時代が、「時満ちて成就する」のです。ここでは、「天地創造」という空間的な宇宙観と、「時が満ちる」という時間的で終末的な宇宙観がひとつになっています。「時空一如」です。「イエス・キリストの出来事」は、神の永遠からの計画であった「救い」の出来事であり、神のご計画の成就なのです。ヨハネ黙示録が言う「アルファでありおオメガ」です。「初めであり終わり」です。ここで言うのは、人類の歩みである「諸々のアイオーン」が、ただ並列的に連なるのではありません。そうではなく、それぞれのアイオーンは神の創造のみ手とそのご計画の中にあって「創造的に」つながりながら、最後の終末の成就と完成へいたるのです。これが「時満ちる」ことです。神のご計画による歴史は、神の目的が達成されるその過程において、様々な時期に「啓示の出来事」として奥義を啓示してきたのです。
 空間的な領域と時間的領域がひとつになった「御霊の働く場」にあって、わたしたちは常に動いています。新たな世界(時空)の中で新たな価値観が啓(ひら)かれてくるのです。実は、世界の初めから隠されていたわたしたちの「有り様」が、キリストにある神の創造の御業によって啓示され、そこに新たな創造の業が形成されていくのです。
■ガラスの天蓋(てんがい)
 今お話ししたことを視覚的(空間的)なイメージで説明すれば、次のようになるでしょうか。天地創造の始めに、神は、御子の十字架による「罪の赦し」というガラスの天蓋で、人間世界をすっぽりと覆ってくださった。現在、世界にはキリスト教、仏教、イスラム教など無数の宗教があり、これにもろもろの政治的・社会的なイデオロギーを加え、さらに自然科学的な世界観をも加えると、この世界には、ありとあらゆる人間の教えが共存して、相互に作用し合っています。しかも、これら人間の想いと計らいで作られたもろもろの価値観が、あるがまま、そのままの現状で、人間の知らない隠された「イエス・キリストにある天蓋」で覆われているのです。人類が、様々な争いにあっても、なんとか生存し、今も保たれているのは、ひとえにこの「隠された神の天蓋」のお陰なのです。
 この天蓋は、人類の長い歩みの中で、様々な聖者や賢者を通して、幾つもの時代にわたって徐々に啓示されてきましたが、「時満ちて」ナザレのイエスの到来によって「十字架の血による罪の贖い」として初めて人類にほんらいの姿で啓示されました。しかし、それ以後も、復活のイエス・キリストの聖霊の働きを通じて、啓示は今も続いています。ここで大事なのは、現在の人間世界には、このような神の天蓋の存在と働きを「知って悟る」人たちと(ヨハネ15章9〜17節)、これを全く知らない人たちが共存していることです(ヨハネ14章20〜28節)。しかし、神の贖いの御業をまだ知らない人たちでも、彼らが、「世の初めから隠されていた」神による「赦しの天蓋」を知らされ悟らされるならば、イエス様の聖霊は、あるがままそのままの彼らに働いてくださるのです。とりわけ、もろもろの宗教と価値観が渾然と共存する日本と韓国と中国の東アジアでは、他宗教や異なる価値観の人たちに、断罪ではなく赦しを、批判ではなく神の寛容を伝えることが、現在とても大事なのです。
■統轄すること
 この語の意味は基本的に「要点をまとめる」ことです。ここでの「まとめる」「総括する/統合する」が表わす内容について、およそ次のように類別することができます。
(1)この語は、過去の事柄を取りあげるという時間的な側面だけでなく、それまで分かれていた諸分野を秩序づけて統合するという空間的な側面をも併せ持つ。
(2)それまで罪によって引き裂かれていた万物が、キリストにあってひとつにされるという「和解」からさらに一歩を進めて、支配し「総括/統轄」することを指す。
(3)この語をこの世に働く「悪の力」との関連で見ると、全被造物は、神とキリストの愛と見守りの内にあるとは言え、それらがキリストにあってこれらの諸々の力を「服従せしめる」ことを意味する。
 イエス・キリストの御霊の力は、エクレシアの「外にある」諸勢力も、キリストの支配下に組み込むのです。
「力」とありますが、エクレシアの外には、もろもろの宗教の力だけでなく、国家権力あり、軍事力あり、通貨の力あり、自由主義、民族主義などのイデオロギー的な「力」もあります。さらに科学と技術がひとつになった「科学技術信仰」の力(宇宙開発/原子産業/生物分野の医学など)があります。イエス・キリストの御霊は、これら諸々の力を支配する力(The Power of powers)であり、すべての力をその支配下に置くことで「統括する」のです。これがエフェソ人への手紙の言う「宇宙を創造された」神とその御子の霊的な力です。だから、主の御霊は、これらの世俗の力を否定するのではなく、究極の神のご計画のためにこれらすべてを「利用し」活用するのです。
 ただし、これらのもろもろの「諸力」は、人間を「活かす」とは限りません。民族主義も通貨も科学技術も、人間を殺す方向へ働くことがありえます。人類にとって何よりも大事なのは「生きること」、「永遠の命」を生きることです。「人類」にとってと言うのは、ナザレのイエス様は、神の御子でありながら「人間」になられたからです。言うまでなく、日本人も一人残らず「人間」です。仏教徒も、神道や儒教の信徒も、カトリックもプロテスタントも一人残らず「人間」です。しかも、アメリカ人、中国人、韓国人、日本人を問わず、全人類は、単一の種から出た「ホモ・サピエンス」に属しています。ホモ・サピエンスにとって何よりも重要なのは、生存すること、生きることですあり、「永遠の命」は、この人類の生存にかかわるのです。こういう「命」は、イエス・キリストの御霊にある知恵と洞察によって悟ることから、わたしたちに生じます(ヨハネ17章3節)。
■「生まれ変わる」こと
 「生まれ変わり」という日本語には二つの意味があります。例えば、ある少年がダライ・ラマの「生まれ変わり」だと言えば(そういう少年が実在するそうです)、その少年がダライ・ラマと何らかの意味で<生き方が継続している>ことを意味します。ところが、日本語で「彼は自堕落な生活から<生まれ変わった>」と言えば、その人が、それまでとは<違う生き方>になったことを意味するのです。「生き方が」継続することと、「生き方が」変容すること、日本語の「生まれ変わり」に含まれるこれら二つの相反するかに見える意味の分かれ目はどこにあるのでしょうか? それは、「生まれ変わる」本人が、まだ地上で<身体的に生存>しているかどうか?にかかわってきます。この世に生きている間に起こる「生まれ変わり」は、同じ人が、それ以前と以後では「違う生き方」の人になることを指します。これに対して、人の死後に起こる「生まれ変わり」は、その人の「生き方」が死後も受け継がれていることが重要なのです。
 人の死後に生じる「生まれ変わり」については、「不滅の魂」「輪廻転生」「地獄行き」「極楽浄土への成仏」など、様々な宗教的な有り様が提示されていますが、要するに死後の世界でも何らかの姿で存在し続ける状態を指している点で共通しています。なお、宗教的な意味で言う「よみがえり」「生き返り」も、一度死んだその<同じ>人が、現在の世界にそのままの姿で戻ることです。ただし死後に生じるこれらの生まれ変わりの場合、人の状態が「死後も同じ」と言うのは必ずしも正しくありません。地獄に落ちるにせよ、極楽に成仏するにせよ、人の死後の姿は、生前とは明らかに異なる性質を具えるからです。それでも、生前と死後とが<同一の人>であることが重要なことに変わりありません。いわゆる「輪廻転生」思想においては、人間が様々な動物にも変身すると言われますが、その場合、変身前と後の人の同一性がどのような意味で「保たれる」のか、わたしにはよく分かりません。ギリシア神話のキルケー伝説では、魔女キルケーによって獣の姿に変身させられた人間どもは、獣の姿になっても、以前の人間としての魂だけはなお保持し続けています。だからこそ、彼らは、みずからの悲惨をいっそう嘆き悲しむことになるのでしょう。もっとも、イギリスの詩人ミルトンは、これをさらに徹底させて、キルケーによって変身させられた人間どもは、その魂までも失ってしまうから、自分たちが動物の姿であるそのことさえ気付かないところまで「堕落している」と述べています。
 これに対して、地上で生きている間に生じる「生まれ変わり」は、それまでとは異なる存在に<変化/変容する>ことを指します。しかし、この意味での「生まれ変わり」は、必ずしも宗教的あるいは霊的な意味でなくても、「あの人はこの頃<人が変わった>」という言い方に見るように、日常の世界で、ごく普通に生じる出来事として理解されています。だから、この場合の「生まれ変わり」に霊的・宗教的な意味を読み取る必要は必ずしもないでしょう。
■復活の命
 人の前世と来世を「肉体の死」によって分けるところに生じる「生まれ変わり」の意味合いのこのような違いは、これをイエス様の、と言うよりも新約聖書の「生まれ変わり」と比較してみると興味深いことが分かります。新約聖書で言う「生まれ変わり」は、基本的には、<生前にこの地上において>その人に生じる出来事です。これは父なる神の子イエス・キリストを通じて神から降る聖霊の働きによって初めて起こりうる出来事です。しかも、ここで生じる「生まれ変わり」は、その人の身体と霊性を含む全存在をそれ以前とは異なる存在へと「造り変える」事態を指していますから、これは、地上で起こるどのような「生まれ変わり」よりも大きく変容した性質を具えることを意味します。だから、プロテスタントでは、通常これを「生まれ変わり」とは呼ばず、「新たな誕生」を意味する「新生」と呼んでいます(英語では通常"a born again Christian" )。
 新約聖書の「新生/生まれ変わり」は、日常の生活で起こる「人が変わったようになる」現象以上の変容を指しています。ただし、新約聖書で言う「新生」と日常世界の「生まれ変わり」とは、単なる変容の程度の差以上に、さらに決定的な違いがあるのです。新約聖書で言う「新生」では、イエス・キリストを信じることによって生じた人の霊性が、その人の肉体が失われたその後でも<永遠に遺り続ける>からです。だから新約聖書では、人の「生」と「死」の分かれ目は、その人の肉体の有無とは直接変わりがないことになります。だとすれば、人間存在を「魂」と「肉体」に二分して、たとえ肉体が滅んでも魂は永遠に生き続けるというインド・ヨーロッパ系の霊魂不滅説と変わらないように思われますが、霊魂不滅説では、人の「滅性」(mortality)と「不滅性」(immortality)の分かれ目はその人の身体の消滅を境にして生じます。これに対して、新約聖書の言う「新生」とこれによって与えられる「命」は、すでに指摘したように、現在地上に生存している間に、その人の霊性において生じる出来事なのです。イエス・キリストを信じる時に、その人が現存している間に「始まる」この新たな命の誕生は、生前においてその人の身体に働きかけるだけでなく、身体の消滅以後も遺り続けて、「人類の終末」において初めて「完成する/成就する」。これが新約聖書の言う「永遠の命」です。
 だから新約聖書では、このような「生」と「死」の有り様の<身体の消滅後における継続>を「霊魂不滅」や「極楽への成仏」や「よみがえり」や「生まれ変わり」とは呼ばず、通常「復活」と呼んで区別しています。先に指摘した身体の死を境にする「生まれ変わり」は、自然界で動植物に生じる「再生」と同じ意味でも用いられます。「年々歳々花相似たり」とあるように、自然界の「再生」では、その個体の季節ごとの消滅を通じて、春の巡りと共に新たな命が、その親と「同じような」姿をとって再生します。これに対して「復活の命」では、個人が消滅する以前にその人において起こるから、それは霊性の革新とでも言うべき変容を伴うのです。その変容は、個体において「始まった」時から、個体の身体の消滅とは関わりなく一貫して継続し、人類の最終段階の終末において「完成する」という独特の時間構成を採ることになります。だから「再生」(英語の"regeneration")は、新約聖書の「復活」(英語の"resurrection)とは区別されます。もっとも、『広辞苑』によれば、現在の日本語の「再生」は、「同じ姿で再び生じる」ことだけでなく、キリスト教の「復活」の変容を指す意味でも用いられるとあります。これはおそらく明治以後に、キリスト教の影響を受けて加えられた意味でしょう。
 実は、新約聖書でも、この独特の「新生」を表わすのに「再生」を意味する「パリ(再び)ゲネシア(生まれる)」が用いられている場合があります(マタイ19章28節/テトス3章5節)。おそらく、日本語の「再生」と同じく、ギリシア世界ではそれまで存在しなかったイエス・キリストにある独特の「新生」を表わす的確なギリシア語がなかったからでしょう。マタイ19章28節は「新しい世界になる」〔新共同訳〕/「新しい世界が生まれる」[フランシスコ会訳]と訳されていて、これはイエス・キリストが復活して聖霊が降臨し、教会の時代が始まった時のことで、世の終わりに成就するとあります〔フランシスコ会訳聖書マタイ19章(注7)〕。テトス3章5節のほうは、カトリックの典礼では、「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、<新たに造りかえる>洗いを通して実現したのです」と訳しています〔カトリック教会の『典礼』「主の洗礼」2016年1月10日号〕。ここで言う「洗い」(洗礼)はその人の死を象徴しますから、ここを「再生の洗い」と訳せないこともないのですが〔フランシスコ会訳聖書〕、典礼では、テトス書のこの箇所をナザレのイエス様が受けた「洗礼と聖霊降臨」の出来事と関連づけています。この関連づけの点でも、その際にイエス様に臨んだ聖霊の働きを「新しく生まれさせる」「新しく造り変える」と訳している点でも、典礼のほうがより的確な解釈だと言えましょう。なぜなら、ナザレのイエス様が地上において体験した<聖霊によって新たに創造される復活の命>こそ、イエス様がその霊性を通じて啓示した人類への新しい「命」の有り様だからです。共観福音書では、「命にいたる門」(マタイ7章14節)とあるように、イエス様はこれを「命」と呼んでいますが、ヨハネ福音書のイエス様は、これを「永遠の命」と言い表わしています。
 現在この世にあって生じる「生まれ変わり」でありながら、人に変容をもたらすその命(生き方)が、そのまま<肉体の死後も継続する>というのは、それまで人類に知られていなかった出来事です。イエス様は、このような「命」の有り様を「水と霊による新たな生まれ」(ヨハネ3章3〜8節)による創造の業として啓示しました。このような「命」に具わる霊性は、新約聖書のほかに存在しません。同じ動植物が死後に「再生」する存続の有り様を説く宗教とは異なるからです。イエス様が人類にもたらした一度限りの歴史的な「復活の命」は、生前の霊的な死(洗礼によって象徴される)を境にして人を変容させながら、しかも人の身体の生前と死後を一貫する「生命」であるという<変容と同一性>の両面を具えている点で、イエス様以前の諸宗教とは大きな違いがあるのです。イエス様に宿った命の霊性が、それ以前のユダヤ教(死後に地上の姿と同じに生まれ変わる信仰)をも含めて、それまでの人類の宗教に画期的な転機をもたらしたと言うのはこの意味なのです。どうか、こういう「命」を現代の若い人たちに伝えてください。
この章は、2016年の秋に、コイノニア会東京集会と横浜聖霊キリスト教会で語ったものを併せて編集し直したものです。
                 
エフェソ書簡の霊性へ