エフェソ人への手紙の霊性
3章 万象を和解させる力
■エフェソ2章
14実にキリストこそわたしたちの平和である。
  キリストは敵対する者同士を一つにし
  間を隔てる垣根を壊し
  敵意を御自分の肉にあって取り除いた。
15それは教義的な諸規則からなる律法を廃棄し
御自分にあって、双方からひとりの新しい人を創造し
平和を実現するためである。
16こうして十字架によって双方を和解させ
  神へ献げる一つ体とするために
  御自身の内にあって敵意を滅ぼした。
17キリストは、その来臨と福音の働きにより
  遠く離れたあなたがたに平和を伝え
  近くにいる人々にも平和を伝えた。
18だから、キリストによってわたしたち双方は
一つ御霊にあって御父に近づくことができる。
 
〔平和〕
 
ここでの主題は、14節と15節にでてくる「平和」です。「平和」(エイレーネー)とは、対立/敵対する二つの側が「和解する」ことであり、そうすることで、双方が「一致して」「ひとつになる」ことです。書簡の作者は、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒が相互の対立を解いて一致することを目指しています。しかし、事は単に「ユダヤ人」と「ギリシア人」という人種や民族間のことではありません。「教義的な諸規則から成り立つ律法」とあるように、互いに対立し合う宗派同士・宗教同士の「和解と一致」こそ、ここで問われている問題なのです。15節で「教義」と訳した「ドクマ」は「指令/命令/規定」の意味ですが、ここでは律法と組み合わされていますから宗教的な意味をこめて「教義」と訳しました。「宗派・宗教的な教義に基づく様々な諸規定」の意味にとってもいいでしょう。
 このように言うと、まるで旧約のユダヤ教が廃棄されて新約の教えだけが「平和」をもたらすように聞こえますが、実はそうでなく、ここの「平和」はイザヤ書9章5節の「平和の君」やミカ書5章4節の「平和をもたらす者」へさかのぼります。どちらも「嬰児(みどり子)が生まれる」ことに関連したメシア預言です。だから、今回の「平和」には、イスラエル民族の歴史を通じて神が啓示されてきた「平和」の到来が告げられているのです。ただイスラエルの民だけでなく、さらにさかのぼれば、神は、予(あらかじ)め世の初めから、人類の歴史を通じその時代に応じて、福音の根源である「平和」を啓示してきました(エフェソ1章4〜10節)。
〔コロサイ2章〕
 では、その「平和」の中身である「和解」とはなにか? どのようにして敵対から和解へ、和解から一致へ進むことができるのか? エフェソ人への手紙のこの箇所は、コロサイ2章13〜15節がその下敷きになっています。
13あなたがたは死んだ者であった
  その罪過によって
  その肉の無割礼によって。
神はキリストと共にあなたがたにも命を与え
あなたがたのすべての罪過に恩赦を与えた。 
14神はわたしたちを非難する証書を破棄した
  わたしたちに敵対する教義ともどもに。
神はその証書を採りあげ、その真ん中を
  十字架に釘付けにして
15もろもろの支配と権威の武装を解除し
  彼らを公然とさらしものにして
  キリストの凱旋行列に彼らを加えた。
 
 何ともすさまじい表現で、イエス様の十字架の威力がいかに絶大であるかを語っています。ここには、わたしたちが、「キリストと共なる命に生かされた」とあります。しかしこれは、わたしたちがイエス様の十字架にあって「キリストと<共に>死ぬ」ことが前提になっています。イエス様の御霊に導かれるままに、イエス様と<共に>自分が十字架されることで、<共に>復活し、<共に>同じ命で活かされるのです(コロサイ2章12〜13節)。
 イエス様が十字架に釘付けにしてくださった「証書」とは、わたしたちを束縛し、神に訴え、わたしたちに非難を向ける宗教的な律法のことで、それは、わたしたちの「罪過の記録証書」です。この「罪過証書」があるばかりに、わたしたちは罪に怯えて神を避けてきたのです。
 ところがイエス様の十字架は、その驚くべき威力を発揮して、わたしたちの罪過証書を十字架にかけて無効にしてくださった。これが13節にある「十字架の恩赦」です。だからわたしたちは、「自分をさいなむ」律法的な証書から解き放たれて、なんにもこだわらず、ただありのままでイエス様の十字架のみもとに行き、イエス様に自分を委ねることができます。そして御復活のイエス様の御霊の働きに与ることができます。
 コロサイ人への手紙もエフェソ人への手紙もパウロ系の教会の書簡ですが、コロサイ人への手紙のこの箇所で、注意したいことが二つあります。一つは、パウロにおいては、キリストの十字架において自分も「共に死ぬ」ことが強調されていましたが(ガラテヤ2章19〜20節)、コロサイ人への手紙では、キリストと「共に生きる」ことのほうに重点が置かれていることです。もう一つは、コロサイ人への手紙では、「あなたがたの罪過」「あなたがたの無割礼」とあって、異邦人キリスト教徒を指して「あなたがた」と呼びかけながら、同時に、「わたしたちを非難する証書」とあり、「わたしたちに敵対する教義」とあるように、ここでは異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒が共に重なり合う形で「宗教的な教義や規定」が扱われていることです。これはとても大事なことです。
 前回のエフェソ人への手紙1章で見たように、イエス・キリストの十字架の贖いは、「世々にわたって人類には隠されてきた奥義」です。それが、今のこの時に、「わたしたち」人類に啓示されたのです。だから、唯一の創造~を信じてきたイスラエルの民とそこから出て来たユダヤ人キリスト教徒も、この神とは「縁なき民」(「遠く離れた」の意味)であった異邦人のキリスト教徒も、<共に>それぞれの過去の宗教的束縛やしがらみから、キリストにあって解放されていることが強調されているのです。「キリストと共に死んで生きる」ことも、「ユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒も過去の宗教的律法から解放されている」ことも、どちらも、パウロの信仰にすでに内在していたものですが、コロサイ人への手紙は、人類を含む宇宙的な規模で(2章20節「宇宙を構成する諸霊」)、この二つのことをいっそう明確に言い表わしています。
〔和解から一致へ〕
 エフェソ人への手紙へ戻ると、ここで注意したいことが二つあります。一つは「平和」です。ここでは、コロサイ人への手紙で語られていた律法的な束縛からの解放が、さらにもう一歩前進して、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の「完全な一致」が指し示されています。もう一つは、エフェソ人への手紙には、パウロによる書簡に見るような「ユダヤ人キリスト教徒」と「ユダヤ教徒」との間の確執も、「ユダヤ人キリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」との間の顕著な対立も見られません。「一人の新しい人を創造された」(エフェソ2章15節)とあるこの句の背後には、パウロの言う「新しいアダム」に基づくキリスト論があります。ここでの「人」については、これを個人と理解するのか、それともエクレシア共同体全体を表わすと見るのかが問われることになります。ベストは(1)の個人説を支持しているようですが、リンカーンは、この文脈では、一人の「新しい人間性」〔NRSV〕〔REB〕が集合的に全体を表わしていると理解しています〔Andrew T. Lincoln, Ephesians. Word Biblical Commentary (1990).〕。興味深いのは、リンカーンが、パウロのアダム的キリスト論をこの句の背景に想定していることです(第一コリント15章22節/同45〜49節/ローマ12章5節/コロサイ3章10〜11節)。リンカーンによれば、キリストが、彼に属する信仰者全体の代表として、集合的に新しい人間性を形成するのであって、「これは、人間レベルでの新しい創造を体現しており、(キリストが)すべてを一つに統括するという作者の見通しに立つものです(1章10節)」。パウロのアダム=キリスト論は、原初キリスト教の「人の子」思想に由来すると考えられ、しかも、共観福音書の「人の子」言葉は、イエスにさかのぼると見ることができます。そうだとすれば、イエスの「人の子」用法がすでに帯びていた個人性と集合性という二重の性格が、この「一人の新しい人へ」にも受け継がれていることになりましょう。この二重性は、エフェソ人への手紙のエクレシア観を理解する上で大事な視点を与えています。
 エフェソ人への手紙は、コロサイ人への手紙に見る「人種、宗教、階級の間の対立を克服するキリスト」(3章5〜11節)をさらに前進させて、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の対立という「具体的な」関係から、「二つのもの」「双方」「両者」とあるように、宇宙と自然と人類を含めて、この世に存在する<あらゆる対立関係>を解消する絶大な和解力として、「父なる神御自身の愛」が、キリストを通して啓示されているのです(3章14〜21節)。だから、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の間の「宗教的な壁」は、宇宙と人類に内在するあらゆる対立関係を象徴する比喩性を帯びています。例えば、東洋の宇宙的二元性を指し示す「陰と陽」の対立関係さえも、父なる神の世世にわたるご計画から発する「キリストの奥義/神秘」によって調和へ導かれる道が示されていることになりましょう(付記2の「逆転の恩寵」を参照)。
〔諸民族の罪過〕
 今述べた両書簡の違いを、別の角度から見ると、この二つの書簡には、異邦人キリスト教徒がかつてその中で暮らしていた「異教世界」への見方の違いがあります。異教世界(ユダヤ人以外の諸民族のこと)の「罪過」については、コロサイ3章5〜8節とエフェソ2章1〜3節/4章17〜18節にその描写があります。
 
コロサイ3章
5だから、あなたがたの地上的な部分をなくしなさい。
みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、
それに貪欲、これは偶像礼拝にあたる。
6これらのゆえに、神の怒りは
不従順な者たちの上に降ることになる。
7かつてはあなたがたも、これらの中を歩んで
このような人たちと暮らしていた。
8今は、そのすべてを捨て去りなさい。
怒り、憤り、悪意、そしり、不潔な言葉など
これら全部をその口から棄てなさい。
 
エフェソ2章
1かつて、あなたがたはその罪過と罪のために死んでいた。
2かつてはこれらの罪過にあって、
この世に働く時勢に流されて歩み
かの中空(なかぞら)に勢力を持つ支配者に、
不従順な者たちの内に今も働く霊に従っていた。
3かつては、わたしたち全員が不従順な者たちの中で暮らし
自分たちの肉の欲望のままに
肉的な本能で動きまわり、
外(そと)の人たち同様に、
生まれつき神の怒りの子であった。
 
 両方の書簡を比べてみると、コロサイ人への手紙のほうでは、「罪過」の具体例がまざまざと描き出されていて、当時のヘレニズム世界の人たちの日常に潜むおぞましい有り様が目に見えてきます。さらに、「あなたがた」がくり返されていて、ここで指摘されているのが、かつて異教世界に属していた異邦人キリスト教徒のことだと分かります。
 ところがエフェソ人への手紙に目を移すと、「罪過」の具体的な例は消えて、「肉の欲望」と「肉的な本能」とあるだけです。その代わり、「この世に働く時勢に流された歩み」「かの中空(なかぞら)に勢力を持つ支配者」(悪霊的な働きの源)が現われます。しかも、「あなたがた」とありながら、それが「わたしたち」と重なり合うのです(3節)。したがって、異邦人キリスト教徒たちの暮らしていた「かつて」(1節)が、ユダヤ人キリスト教徒たちの「かつて」(3節)と重なり合うことになります。ここでは、異邦人キリスト教徒もユダヤ人キリスト教徒も、完全に一つにされて、「かつてのわたしたち」が、キリストのエクレシアにある「今のわたしたち」と対照されています。だから、ユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒も同じように、「かつては」悪霊が働く「この世」に属していたことになります。
 このように、エフェソ人への手紙の「エクレシア」には、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが共存していますから、作者の観点は、ユダヤ人キリスト教徒の側から観た「異邦の諸民族」に対する否定的な見解とは異なることが分かります。ここで作者が言う「異邦人=諸民族」は、ユダヤ人キリスト教徒と対比されているのではなく、「キリスト教徒のエクレシア」と対比されているのです。だから、むしろ「異教徒」の意味に近いでしょう(かつての日本のキリシタンの「ジェンツ=異教徒」がこれにあたる)。だから、かつてはユダヤ人と対照されていた「異邦人」が、ユダヤ人もヘレニズムの諸国民も全部を含む「諸民族」となり、これが今の「わたしたちのエクレシア」と対比されているのです。ところが、エクレシアと、「そと」の世界との間にある対比さえも、絶対的なものとは言えません。作者が説く「キリストにある歩み」は、「多くの異教の哲学者たちの教えから、それほどはずれているわけでもない」ことが指摘されているからです〔Best, Ephesians. 415.〕。
〔エクレシアの外の「人間世界」〕
 ではその、時勢に流され、中空の支配者に従っていた「肉/人の欲望」「肉的/人間的な本能」とはなんでしょう? これが、エフェソ4章からの引用にあります。
 
エフェソ4章
17そこで、主にあってこう言明し証しする。
もはや、あなたたちの歩みは、
異邦人と同じ歩みであってはならない。
彼らの知性は虚偽であり、
18その想いは暗くされた状態にあり
神の命から切り離されている
彼らの中にある無知のゆえに。
またその心のかたくなさのゆえに。
 
 イスラエルが異教世界の特徴として伝統的にあげてきた罪は、「流血と暴力を含む暴虐」であり、「性的な退廃を含む放縦」であり、「偽りの神を拝む偶像礼拝」です。「流血」と「性的退廃」と「偶像礼拝」に対比されるのが、「命」と「愛」と「真理」であることを思えば、ヨハネ福音書やパウロ書簡がこれらを大事な御霊の働きだと証ししているのは、重要で示唆深いことです。
 エフェソ4章17節は、異邦人/異教徒の「知性が虚偽である」という指摘で終わります。ここでいう「虚偽」(マタイオテース)とは、「移ろいやすいこと」「空疎なこと」と共に「当てにならない偽(いつわ)り」の意味も含んでいます。七十人訳に「主は、人間の計らい(ディアロギスムース)を虚しい(マタイオイ)と知っている」(詩編94篇11節)とあるように、この語には「移ろいやすい」と「欺瞞的な」の両方の意味が含まれていますが、知恵の書13章(1節/9節/14節/18節)では、この「虚(むな)しい」が自然崇拝と偶像礼拝の縁語になります(ローマ1章21〜23節参照)。だから17節の「愚か/無価値/虚偽」は「偶像」に関連する用語です(使徒14章15節)。しかもこの語は、18節に入ると、偶像だけでなく、エクレシアのそとの「人間生活」全般にまで拡大されます(第一ペトロ1章18節/ヤコブ1章26節参照)。
 18節では、「暗くされている」と「切り離されている」という二つの完了受動分詞が並列していて、二つの分詞に挟まれた「ている/である」は、「現にそうなっている」ことを確認させます。だから、「暗くされている」と「切り離されている」は、人間の全人格的な知性と心構えの有り様に及ぶのです〔Best, Ephesians. 417〕。そこには、いわゆる「異教的」な振舞いや行動だけでなく、通常の人間的な学識や考え方それ自体に向けられる批判がこめられています。この意味で作者の視点は、ユダヤ教やヘレニズム哲学だけでなく、人間全般への批判となるのです。
 18節後半の「無知」は、「暗くされてしまった知性/理性」のゆえに「神の命」から疎外されていることを根拠づけます。この「無知」と並列する「心の頑なさ」は、神から切り離された人間の素質とその生活全般にあてはまるものです。「無知」とは人間が「神を知っていたのに神として崇めなかった」ことであり(ローマ1章21節)、これこそが「人間世界の一つの特徴なのです」〔シュナケンブルク『エフェソ人への手紙』EKK聖書註解(242頁)〕。なお「頑な」とあるのは、偶像との縁語で「盲目(な偶像)」の意味にとるほうがより適切でしょう(詩編135篇16節/イザヤ書42章7節)〔Best, Ephesians.421.〕。「想い/思考が暗くされている」とある「想い/思考」とは、認識と理解の基となる思考能力/思考様式のことで、この語はしばしば「心」と同義語で用いられます(ヘブライ8章10節)。このようにエフェソ人への手紙の作者は、人間思想が神を認めず、その生活には、神への信仰に基づく価値観が欠如しているがゆえに無価値であり虚偽であると断定するのです。
 このような「無知」と「盲目」は、18節の後半では、「神の命」(ここでは永遠の命を指す)から切り離されていて、「罪に死んだ状態」(エフェソ2章1節)へ結びつきます。「理性(ディアノイア)の暗さ」と「神の命からの離反」とは、手を携えて「悟りのない心」を生じさせ、これが「人間の精神と人格をば、決断力もろともに狂わせ、完全な方向違いと道徳的過ちへいたらせ、愚かにも不変の神から顔をそむけ、その代わりに移ろいやすい被造物に仕えることになったからです」(4章23節)〔シュナケンブルク前掲書240〜41頁〕。こうして、エクレシアの<外にいる>人たちへ向ける作者の視点は(2章3節)、キリストのエクレシアの外にいるユダヤ人と諸民族の全体に無条件に適用されることになります。
〔東洋の智慧と異教の無知〕
 エフェソ人への手紙の作者の観点からは、エクレシアの外に広がる人間世界の思考様式と生活全般が、4章17節の「愚かさ/無価値な虚偽」と18節の「無知頑迷」によって特徴づけられています。そこでは「つかの間のはかなさ」と「欺瞞的な虚偽」が偶像礼拝の本質を成していて、これが人間世界を支配しているのです。
 しかしながら、この手紙の作者の「人間世界」へのこういう観点は、ここで一つの問題を提示することになります。すでにコヘレトの言葉の時代(前3世紀)に、インドから仏教が、かつてのペルシア帝国に伝えられていて、おそらくパレスチナを経てエジプトのアレクサンドリアにも仏教が知られていたからです。仏教の「虚空」(こくう)とは、「いっさいのものがなんの礙(さまたげ)もなく自由に存在し運動し変化し得る」領域を意味します。こういう「無礙」(むげ)の世界は、仏教では、「虚空」のほかに「空」があり、これは万象の実在性に向けられる厳しい否定を表わす用語です。「空」とは、人間をして、いっさいの固定観念を排除し尽くすまで働きかけて、人に悟りの境地を開かせるものです。「光雲無礙如虚空」(仏説阿弥陀経)です。したがって、「空は有(う)でもなく、しかも有であり無であるという、一見パラドックスにあるが、これは存在・ことば・現実・人間・世界そのものが免れ得ない限界性と自己矛盾をそのまま反映している」のです〔『仏教辞典』岩波書店264頁〕。
 
「智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光曉かふらぬものはなし
真実明に帰命せよ。」
 
「解脱の光輪きはもなし
光触かふるものはみな
有無を離るとのべたもう
平等覺に帰命せよ。」
  (仏説阿弥陀経より)
 ここで唱えられている「解脱の光輪」あるいは「智慧の光明」は、人をして「有」(存在)と「無」(被存在)の区別さえも超越させる悟りの世界のことです。鈴木大拙によれば、こういう仏教の「不可思議」な悟りの世界は、キリスト教の啓示の世界と異なるところがないことになります〔鈴木大拙『仏教の大意』岩波文庫35〜36頁〕。
 エフェソ人への手紙の作者は、エクレシアの外の人間世界を、欺瞞的な虚偽に根ざす偶像礼拝だと特徴づけていますが、この手紙が書かれた時代には、すでにオリエントの東方にあたる東洋世界では、高度に発達した「虚空」と「空」の思想が広がっていたのです。「虚心」という言葉が意味するように、この「虚」は、何者にも妨げられないで、いっさいの偏見に左右されることなく、自由にものを観たり思考する心の有り様のことです。 
 ベストによれば、作者は、この4章18節で、キリストにある新たな積極的な命の有り様を読み取ろうとしています。「否定」を超える「肯定的な」命の有り様が、「無明の愚かさ」を脱却し、虚偽の神概念から自由にされた霊性へ向かうことを目指していることになります。もしもこの書簡の作者が<そういうこと>を志向するのであれば、「愚かさ/欺瞞」を脱却し、「虚偽の偶像」を排除する東洋思想と、キリストにある「ディアノイア(理性的思考と認識)」とは、相互にどのように関係するのだろうか? エフェソ人への手紙の言う「人間世界」が、<わたしたちに>提起しているのは<このような>課題なのです。この書簡のはるか以前から、東洋の「人間世界」は、「無明の諸相」を照らす「知恵の光輪」が存在することを知っていたからです。エフェソ人への手紙を単なる歴史的な文書としてではなく、そこに含まれる霊的な深さにおいて現在のわたしたちがこれを読み解こうとするのであれば、こういう視野を除外することは許されないでしょう。
〔この書簡が提示する課題〕
 以上見てきたように、エフェソ人への手紙の作者が「人間世界の特徴」としてあげている「つかの間の偽りに惑わされて官能を追い求める」生活も、「虚偽に惑わされて暗くされた知性」は、これらを仏教的な「人間世界」に適用することができます。しかも、これに匹敵するイスラエルの思想が、コヘレトの言葉の「空」思想であることをわたしたちは確認できます(「エフェソ人への手紙の霊性」の「付記2」を参照)。おそらく、イスラエルのこの「空」の思想は、パウロとこれに続くエフェソ人への手紙の作者による人間世界批判の底流にもあると想定することができましょう。もしも、コヘレトの言葉の空思想が仏教の影響を受けているとすれば、エフェソ人への手紙で語られる「人間世界」批判も、仏教的な「空」思想に支えられていることになります。
 エフェソ人への手紙が、紀元1世紀の小アジアのキリスト教徒たちに宛てられた巡回書簡であり、この文書が彼らの思想を反映しているのはそのとおりです。しかしこの書簡は、現在においてもなお、単なる歴史的な文書として扱われているだけではありません。「エフェソ人への手紙が提示する(宇宙的な規模において勝利した)キリスト論は、この書簡の神学的な解釈における最も実り多い分野であり、それはキリスト論とエクレシア論との相互関係に関わるものである」〔R.J.Coggins& J.L. Houlden eds. A Dictionary of Biblical Interpretation. SCM Press (1990). 195.〕というのが、現在もなおこの書簡への有効な評価なのです。コロサイ人への手紙の価値は、エフェソ人への手紙を産み出したことにあると極論する説さえあります〔前掲書同頁〕。少なくともこの書簡が、現代におけるキリスト教のエクレシア論の起源として重要な文書であることは間違いありません。
 現代の聖書学は、エフェソ人への手紙を一つの歴史的な文書として扱うことを知っていますが、それだけでなく、この文書に現代のエクレシアに向けられたメッセージを読み取ろうと意図しているのです。この書簡はそれだけの霊的な深みを帯びているからです。もしわたしたちは、21世紀の現在において、歴史的に制約された単なる一つの文書以上のものとしてこの書簡を読み解くのであれば、エフェソ人への手紙のみならず、新約聖書が伝えている「エクレシア」の内と外との境界を<再定義する時期>に来ていることをこの書簡はわたしたちに提示してくれるのです。
 エクレシアから「人間世界」をどのようにとらえ直すのか? 日本のキリスト教界も、まして欧米のキリスト教界も、従来の「エクレシア」観と対比させられる「人間世界」観を今なお自明のものと見ているようです。しかし、エクレシアの内と外をば、「キリストの啓示」と「無知蒙昧な人間」のように単純に割り切ることがもはやできない段階にきているのです。イエス・キリストによる啓示と、仏教の「悟り」の世界や儒教の「礼」との相互関係、この問題は、日本や韓国だけでなく、近い将来、中国のキリスト教徒が激増するにつれて、アジアのキリスト教世界において必ず浮上してくるに違いありません。エクレシアと人間世界との「再定義」は、近い将来、欧米のキリスト教と対照されるアジアのキリスト教を特長づける要素となるでしょう。
 4章18節の中心には「神の命から切り離された」状態がでていますが、言うまでもなく、ここで言う「神の命」とは、イエス・キリストにある命のことであり、復活したナザレのイエスの御霊にある命のことで、これがエクレシアの存在価値の核心を形成しています。だが、そのようなエクレシアの命を「〜である」と肯定的に定義するのは難しく、おそらくこの命は、「そうでない」世界と対比させられることによって初めてより明らかになるでしょう。わたしたちは、「人間世界」だけでなく、「エクレシア」そのものを再定義する必要に迫られているのです。
〔平和の絆〕
 今、わたしには、東アジア共同体を支配するイエス様の霊性の姿が見えています。それは、世界に通用する貨幣(the Currency of the currencies)や世界を統治する権力(the King of kings)などと共に、と言うよりも、通貨も権力をも根底から支えるものとして、<世界を支配する宗教>(the Religion of religions)の姿なのです。仏教も儒教もイスラム教も正教もカトリックもプロテスタントの諸派も神道もその他のもろもろの宗教も、それらの信者たちが、「それ」なしには、「人間」として平和に生きていくことができないことを知っている「一つの霊性」、すなわち<ナザレのイエスの霊性>です。世界の創造以前から定められてたイエス・キリストにある十字架の血の贖いによる「罪過の赦し」(エフェソ1章19節)の絶大が力によって(エフェソ1章4〜10節)、隔ての障害を取り除いていただき、二つのものを一つにするイエスの御霊を信じて(同2章14〜17節)、一人の主、一つの御霊、一つのエクレシアを目指して歩み続けるなら(同4章2〜6節)、必ず達成されます。大事なのは寛容と愛とイエス・キリストにある平和の心です(エフェソ3章17〜19節/同4章30〜32節)。これこそが人間と人間を結ぶ唯一の<平和の絆>(the bond of peace)だからです。あらゆる人々は、人間として「このこと」を<知っている>という有り様です。だから、寺院にも神社にもキリスト教の諸派の会堂にも、そこには、聖典中の聖典である聖書(the Book of books)の「み言」(the Word of words)が置かれていてもいいのです。これなしに、「宗教する人」としての人類が生存できないからです。これこそヨハネ黙示録が描く神殿の存在しない「神の都」の姿なのでしょう。
                    エフェソ書簡の霊性へ