エフェソ人への手紙の霊性
4章 エクレシアと結婚愛
■エフェソ5章
21キリストに対する畏れをもって互いに所属し合い
22妻たちは、主に対するように、自分の夫に属している。
23夫は妻の頭である
キリストが教会の頭であり、
自らその体の救い主であるように。
24ちょうど、教会がキリストに属するように、
妻もすべてにおいてその夫に属する。
25夫たちよ、妻を愛しなさい。
キリストも同様に教会を愛し、
教会のために御自分を与えたように。
26教会を聖化し清めるために
言葉による水の洗いによって。
27自分と共に教会を立たせ
教会に栄光を与えるために
汚れも傷の類いもない聖く無垢な姿になるために。
28夫の責務は
自分の妻を自分の体のように愛すること。
自分の妻を愛する者は、自分自身を愛する。
29自分の身を憎んだ者はだれもいない
かえって、その身を養いいたわる
キリストが教会にするように。
30わたしたちはキリストの体の一部である。
31「それゆえ、人は父と母を離れて
その妻と結ばれ二人は一つ体となる。」
32この神秘は実に偉大である。
わたしが言うのは、キリストと教会のことである。
                   〔私訳〕
(T)本文の解説
■エフェソ5章21〜32節の構成
 今回の箇所は、コロサイ3章18〜19節で語られていることを敷衍しているのに注意してください。ところが、コロサイ人への手紙のこの部分は、これに先立つコロサイ3章12〜17節と密接に関連していて、そこでは、主の御霊にある赦しと愛に心を支配されて、知恵と賛美と霊の歌に満たされた生活をするよう促されています。今回のエフェソ人への手紙の箇所も、同じように、エフェソ5章18〜20節では、イエスの贖いの愛から発する聖霊の働きを受けて、賛美と霊の歌に満たされる生活への勧めがあり、結婚愛がこれに続きます。ただし、コロサイ人への手紙では、妻が夫に仕えることに重点が置かれているのに対して、エフェソ人への手紙では、夫と妻とが対等な関係に移行していると言えましょう。
 今回の引用部分の構成を見ると、最初の21節を20節と22節の中間において、これを両方のつなぎと見なす読みがあります〔ギリシア語原典の句読点の異読〕〔NRSV〕[REB]。これに対して、21節から新たな段落を始める読みもあります〔新共同訳〕〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』295頁〕〔Linocoln WBC〕。19〜21節には「語り合い」「ほめ歌い」「感謝しつつ」「所属し合い」などの分詞が並行していますが、命令形はひとつも現われません(22節に「従え」という命令が挿入されている異読が欄外にありますが)。したがって、ここは、家庭の有り様を諭す倫理規定ではありません。むしろ、御霊の働きによる創造の業に照らして「このようになる」ことを述べているのです。
 18〜20節の御霊に満たされる状態を受けて、「所属し合う」という主題に移ります。言うまでもなく、この「所属する」は、わたしたちが、主イエス・キリストに「所属する」ことがその源泉になっています。だから、22節で「主に対するように」が来ていて、これは、イエス・キリストとエクレシアとの御霊にある「交わり」を指しています(エフェソ1章20〜23節参照)。この段落全体では、キリスト=エクレシアと夫=妻との二重の関係が、「〜のように」や「ちょうどそのように」(24節)によってつながります(ヨハネ13章15節の「ちょうどそのように」を参照)。24〜25節は並行していて、夫と妻の関係がキリストとエクレシアの関係で言い表わされます。24節の「すべてにおいて」が、続く26〜27節につながり、そこでは、三つの「〜ために」が並行して表われ、キリストとエクレシアの類比が強調されます。しかし、これをもって、地上の夫=妻の関係が二義的であるとか、結婚愛は、エクレシアではない世俗の領域に属すると考えるのは誤りです。むしろ逆で、この段落は、イエス・キリストにある夫婦関係への勧めで始まり、夫婦関係への倫理で終わります。ここで基本となるのはキリストの犠牲的な愛です。31〜32節は、「それゆえ」で始まる創世記2章24節と関係づけられます。創世記のこの箇所が、キリストと教会との神秘につながり、著者のエクレシア神秘思想がここに完成します。
■キリストとエクレシアの愛
 エフェソ5章24節で、「ちょうどそのように」とあって、キリストとエクレシアとの関係が、夫と妻のそれへと転換します。ここで三つのことに注意してください。
(1)この夫婦観はイエスにさかのぼるものですが、それはヤハウェ=イスラエルの関係から来ていることです(ホセア書1章2節/同2章4節)。
(2)ここではエクレシアがキリストの妻の隠喩で語られますが、エフェソ公会議においてマリア崇拝が認められてからは、中世カトリック教会においては、「母なる教会」が語られることになります。17世紀にイングランドで起こったピューリタン革命においては、エクレシアのイメージが、「母」から「花嫁」へ転換されることになります。
(3)日本人にとっては、「妻/花嫁」よりも、「母」の隠喩のほうがより適切に感じるかもしれません。川口愛子先生は「聖霊は母ではないか」と言っています。この点で、モルトマン夫人の「聖霊は女性なのか?」と比較できます。
 聖書の夫婦愛は、その根底に夫婦の「人格的な交わり」があります。これが、神とイスラエルの交わりと対応するのがその特徴です。そこには契約に基づく「相互信頼」とこれの前提である「誠実さ」が求められます。「誠実」は夫婦愛を育てる根だからです〔シュナケンブルク『エペソ人への手紙』303頁〕。ここはコロサイ3章19節の「すべてに優るキリストの愛」とつながります。この愛は人格性を帯びていて、エロス的な性愛を導くことによって、これを昇華する働きをします。その愛の至高の模範がキリストの愛です(エフェソ5章2節)。この愛は、書簡の受け手であるエクレシアに語られていますから、そこにはエクレシアに属するすべての時代の人たちが含まれます。したがって、エクレシアは救いの「客観的な」場となり、個々の信者に先立って存在していることになります。「聖化する」(26節)は、ユダヤ教では、花嫁として選ぶ=婚約することを意味します。しかし、ここでは「言葉による水の洗い」とありますから、キリストの十字架の死による働きかけを指しますが、むしろ、キリストの血による聖化の働きだと理解することができます(ヘブライ10章14節「一度の献げ物によって、以後のすべての聖徒たちを完成へと仕向けた」/第一ヨハネ1章7節「イエスの血がすべての罪を浄める」)。
■エクレシア的夫妻観の意義
 エフェソ5章21〜33節で展開されている「キリストとエクレシア=夫と妻」という類比関係は、倫理的な訓告のためではありません。むしろ、霊的な出来事として、存在論的に解釈するほうが適切です。始めの21〜23節は、分詞形で語られていますから、命令形は一つも見あたりません。だから、この箇所は、夫婦の有り様を創世記の創造論からとらえ直すようにうながしているのです。ここでのエクレシアと結婚愛との結びつきは、単に人倫関係を指すのではなく、社会的、宇宙的な広がりにおいて語られています。ここでは、「創造する神の御言葉」によって、夫婦の「一つ体」が「新たに創造される」という事態が生じると告げているのです。
 ユダヤ教の伝統的な考え方から見れば、生物的な生殖による繁栄それ自体が神の祝福と見なされます。だから、イエスの事実上の離婚禁止と一夫一婦制の厳守、さらに独身を肯定する信仰は、ユダヤ教では受け入れがたいほどの大きな変容です。イエスのこのような純潔観の背後には、クムラン宗団における純潔思想があったのかもしれません。しかし、クムランの純潔観は、終末の戦いに臨む戦士の覚悟に由来するものです。イエスの場合は、そのような終末観に由来するのではなく、夫婦の一体化が「新たな創造」として、より積極的な信仰によって支えられています。ここでは、単なる「性愛の結びつき」を超克する神の御手による結婚愛の創造的な営みが支えとなるのです。イエス・キリストにある夫婦愛は、死に勝つ力をその夫婦にもたらします。このような営みは、現在すでに完成されている事態ではありませんから、これはエクレシアの努力目標であり、その意味で、クリスチャンの結婚愛は、「終末的な追求」です。
(U)エクレシア観
■エクレシア観の誕生と変容
 エフェソ5章23節の「エクレシア」は単数で、神のエクレシア全体を総称しています。パウロ書簡では、「ガラテヤの諸教会へ」(ガラテヤ1章4節)とあるように、パウロの頃は、イスラエルの伝統的な「カハール」(会衆)の考え方に従って、地域ごとの個々の「集会」が意識されていたと考えられます。だから、パウロの言う「教会」(原語は「エクレーシア」)も、その地域の諸集会を意味することが多かったようです。ただし、最初期のエルサレムのイエス=メシア宗団は、自分たちこそが、終末に成就する唯一の「神の会衆」(「カハール・エール」)であるという自覚に立っていました。パウロが、ガラテヤ1章13節で「神の教会(単数)」を迫害したと言うのは、このエルサレム宗団を意味するとも考えられます。しかし、彼がダマスコまで迫害の足を伸ばそうとしたのは、「教会」を単に地域の教会に限定したのではなく、より広い意味で「神のエクレシア」を全体として見ていたと理解するほうが適切でしょう。だとすれば、パウロが、ガラテヤ人への手紙で「エクレシア」全体を単数で総称しているのは、以後の「エクレシア」の単数の最初期の用法として重要です。パウロにとって、エクレシアは、イエスの人格的な聖霊の働きと結びついていました。だからこそ、信者一人一人が「キリストの肢体」であるという隠喩で語ることができたのです。
 この単数の「神のエクレシア」は、その後、「イエス・キリストの体」として、エフェソ人への手紙では中心的な主題になります(エフェソ1章22〜23節)。したがって、エフェソ人への手紙での「エクレシア」観は、その形成過程をパウロへ、さらにエルサレム宗団の自己認識へさかのぼることができます。おそらくその先には、ユダヤ教の伝統的な一夫多妻制を事実上否定したイエス自身の教えに基づく「夫婦一体観」が見えてくるのでしょう(マルコ10章5〜9節/これと並行箇所)。
■エクレシアの統一性と多様性
 夫と妻=キリストとエクレシアという類比関係は、個々のクリスチャンが、イエス・キリストの救いに与ることによって初めて授与されるものです。この類比に基づくなら、エクレシアもまた、そのような個々のキリスト者による無数の夫婦によって成り立つと見てよいでしょう。だから、エクレシア(単数)が、個々の夫婦から成り立つのなら、エクレシアには、それぞれの夫婦愛による無数のヴァリエーションが存在していなければなりません。キリストとエクレシアを夫と妻との類比において理解することは、個々の夫婦の有り様を通して、キリストにあるエクレシアが多様性を帯びることをも意味するのです。
 「夫であるキリスト」と「妻であるエクレシア」に対しては、「父なる神」と「母なるエクレシア」という類比関係をも考え併せることができます。この父母関係におけるエクレシア観は、その母性ゆえに統一と普遍性を志向する傾向を帯びることになります。単数のエクレシアがキリストの愛を受けて、個々の信仰者を統一的に単一のエクレシアへ帰属せしめるエクレシア観は、どちらかと言えば、母性的なエクレシア観に近いと言えましょう。これに対して、無数の夫婦愛から成るエクレシア観の多様性は、結婚愛に基づくエクレシアという性格を帯びることになります。
 一方は上(キリスト)から下(エクレシア)へ、大(全体)から小(個々)への働きかけであり、他方は、下(個々)から上(全体)へ、極微から極大へ働きかけることによって、極大(人類全体に及ぶ神のエクレシア)を定義づけることになります。 「エクレシア」についての「夫婦」と「父母」の類比関係は、このようにエクレシアの構成要素の「多様性と統一性」にかかわるものです。
(V)イエスの教え
■離縁について
 イエスによる離縁と結婚については、マタイの19章で、ファリサイ派の人たちがイエスのところへ来て、「どんな理由があれば夫が妻を離縁することが律法で許されているのか」と訊きます。「どんな理由があれば」というのは、妻をむやみに離縁することはモーセの律法でもできなかったので、それなりの理由がなければならないからです。その理由の一つに妻の「姦通/姦淫」がありました。この場合、その妻は離縁されても仕方がなかった。と言うより、離縁されなければならなかったようです。しかしイエスの時代には、離縁の理由を広く解釈して、「料理が下手でも」その理由になるという解釈もありました。
 離縁に対するイエスの答えはイエス様語録(=ルカ16章18節)にあります。「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。また離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」これは夫(男性)に対する警告です。この離縁問題は、イエスの結婚についての教えと関連します。マタイ福音書では、「姦淫」について、すでにイエスが同様の見解を告げています(マタイ5章27〜30節)から、ファリサイ派は、イエスの離縁に対する見解を知った上で、あえて申命記のモーセ律法を持ち出してイエスの離縁禁止を詰問しているとも言えます。これに対するイエスの答えは明確で、離縁をきっぱりと禁止した上で、今度は、同じ「モーセ律法」(モーセ五書)の中で、申命記よりも先に置かれている創世記から引用して、離縁規定をば、神の定めた結婚の教えによって再解釈するのです。
■結婚について
 結婚についてイエスは、「創造主は初めから、人を男と女とにお造りになった。だから人は父母を離れて、ふたりは結ばれて一体となる」と言われます。その上で、「神様がひとつに結び合わせてくださったものを人が離してはいけない」と言われた。ファリサイ派の人たちは、モーセ律法に基づいて、男が妻を離縁することが、場合によっては当然の権利だという前提で、<どんな場合に>それが許されるのか? とイエスを試すつもりで質問したのです。これに対してイエスは、どんな場合に離婚が許されるかではない。そもそも、結婚して神様が合わせたものは、離婚することができない。こう言われたのです。ファリサイ派はモーセ律法(モーセ五書)の中の申命記に基づいて質問します。ところがイエスは、同じモーセ五書の創世記の御言葉、「創造主は初めから人を男と女に造られた」とあるのに基づいて、「神様が合わせたものを人が離してはいけない」とお答えになったのです。結婚を「神による創造の御業」だととらえるのです。
 イエスに言わせると、結婚は、神様の創造のみ手から生まれたものですから、神がふたりを夫婦一体として「新しく創り出された」ことになります。「夫婦」とは、今まで存在しなかったものが、神様のみ手によって「創造される」ことなのです。ふたりが結ばれた結果子供が生まれます。生まれた子供を「生まれなかったこと」にはできない。このように受けとめるとよく分かります。結婚とは、ふたりがたまたま「結婚しましょう」と言って一緒になる、だたそれだけのことではない。ふたりが「結ばれる」とは、神の新しい「出来事」だからです。「どんな場合に離婚したらいいのか」ではなく、神様がお造りになった夫婦関係に「離縁」とか「離婚」などということは「初めから」ありえない。こうお答えになったのです。
 だから、たとえ夫が妻に離縁状を渡しても、そんなことで神様から与えられたふたりの関係が解消されることはないのです。離縁というものが、そもそもありえないからです。たとえ離縁状を渡しても、その女が他の男と結ばれるなら、その妻に姦淫の罪を犯させると同じなのです。イエスのこの結婚観は、結婚制度だけでなく、それ以上に重要な変革をもたらす結果になりました。
(1)それは、このような霊的な結びつきによる内面化によって、結婚が、ユダヤ教の伝統的な「子孫を残す」目的から、夫婦の出会いそれ自体を目的とする方向へ道を開くことになるからです。
(2)イエスのこの結婚観は、それまでの一夫多妻を容認していたユダヤ教の結婚観を一夫一婦制へと切り替える重要な働きをします。
(3)同時に、夫と妻が結婚において神の前に対等な立場に置かれる道をも開くことになります。創世記に「彼(男)にふさわしい助け手」(創世記2章18節)とあるのがこの意味です。
 ただし、このような結婚・離婚思想は、御霊の働きですから、これを外面的な律法や法規制として受け取るならば、かえって人間を束縛することになります。イエスの教えを律法的に制度化することはできません。人を束縛する律法制度から、人それぞれに働く御霊の自由な導き(独身をも含む)に委ねる福音へと切り替わらなければならないからです。 イエスの結婚観には、このように、神の「創造の御霊」の働きを見ることができます。そこから見えてくるのは、結婚の霊性にあって、女性は男性の人格的な「交わり」の相手であり、また男性の「助け手」として、神によって与えられている、という女性観です。
■律法と罪
 結婚問題でもイエスは、「心の中の姦淫」と同じように、結婚を内面的霊的にとらえています。もしもこの教えをそのまま実行しようとすれば、非常に厳しいことになります。弟子たちが、半ば冗談でしょうが、「それなら結婚しないほうがましだ」と言うのも頷(うなづ)けます。どんな場合でも離婚はいけない。これが法律になると、「福音」ではなく、逆に人を束縛する「掟」になります。そもそも、律法や法律は、人に悪いことをさせないようにするためのものですが、律法や法律があることは、そういう悪を犯す可能性が人間にはあるという現実を同時に指し示しています。姦淫するな。盗むな。殺すな。これらのモーセ律法は、人間はそういう罪を犯す傾向があるからこそ与えられるもので、それを厳しく禁じることで、そのような罪を起こさせないようにするためのものです。
 ただし、律法の役割はそれだけではありません。「心の中で色欲を抱いて女の人を見るな」と言われるなら、心の中で色欲を抱くことさえもやはり罪になります。こうなると、モーセ律法では罪にならなかったものでも、イエスが新たな教えを与えたために、新しい罪が「生じてくる」ことになるのです。このように、律法には罪を「作り出す」性質があります。
 私がかつて勤めていた女子大でも、一昔前であれば、男性の先生が女子学生に服装の趣味が悪いと言っても、言われた学生は嫌な思いをするかもしれないが、そのこと自体が罪に問われることはありませんでした。ところがセクハラ規定というものができますと、教師が学生にそんなこと言うと、その学生は、すぐに人権委員の先生の所へ行って、「あの先生はわたしに対してこういう失礼なことを言いました」と報告できます。すると、人権委員の先生から、その先生に忠告が来ます。セクハラ規定ができたために、今まで見過ごされていたことが罪として「新たに認識される」ようになったのです。セクハラ規定は、いわば新しい罪を「作り出した」と言えます。パウロが「律法がなければ、罪は罪として認められない」と言うのは、この意味です(ローマ5章13節)。
 では、セクハラ規定がなくなればいいのかと言えば、そういうわけにはいきません。セクハラ規定がなくても、セクハラという人間の罪は今までもずっと存在してきた。しかし、セクハラ規定ができることで、今まで<見過ごされていた>罪が明らかになったのです。人間の心に潜む罪が、その規定によって<暴かれる>。規定がなければ、覆い隠されていたのに、規定ができることによって隠れていた罪が姿をあらわすのです。イエスの教えは、内面化によって、今まではっきりとは見えなかった「心の罪」を明るみに出すのです。
■結婚と罪の赦し
 イエスの御言葉は、わたしたちの罪を暴くだけではありません。暴くだけなら、わたしたちはひどい苦しみに陥るだけです。パウロが「ああ私は悩める者だ。私の内には善を行う力がない」(ローマ7章24節)と言って嘆くのはこのことです。イエスの御言葉は、決して人を罪に陥れて人を苦しめるためのものではありません。
 聖書の御言葉もイエスの御言葉も、言葉通り文字通りに、<律法として>受け止めると苦しみが生じます。しかし、イエスの御言葉はただの律法や法律ではありません。御言葉の裏に、十字架と復活と聖霊による罪の赦しの働きがあるからです。このことを忘れて、<自力で>イエスの御言葉通りに実行しようとすると、とても苦しい闘いになります。自分の罪を意識するにつれて、自分はもうダメだと思い込んで絶望することにもなりますから、救いどころか、逆効果になってしまいます。
 そもそも、聖書の御言葉が書かれたのは、主様が十字架にかかられて、復活され、御霊が教会に降ることによって、その御霊の働きに導かれて福音書が書かれたのです。だから、御言葉は、十字架・復活・御霊の働きを抜きにして読んではいけません。確かに御言葉は、わたしたちの心の罪を暴きはするけれども、御言葉が御霊と一体になると、その暴かれた罪を赦し、その罪を<克服する力>となって働くのです。これが人間の罪性を「逆転する恩寵」の働きです。わたしたちの罪と同時に、これに対処する赦しと癒しの働きが与えられるのです。御霊が働いて、自分の罪を克服してくださる。こういう現実の命と力が与えられることが大事です。御言葉と御霊がひとつになって、わたしたちを導いてくださるのです。
 今回のイエスの御言葉に基づくなら、結婚は、わたしたちが自分勝手な選択で結婚し、好きなように離婚する、という性質のものではありません。わたしたちの結婚は、イエスの御言葉によって創り出される「結婚それ自体」によって支えられるからです。主様の御言葉に導かれてする結婚にあっては、「結婚」それ自体から二人に「赦し」が働くのです。夫が自分は正しいと思いこむ。妻が自分こそ間違っていないと考える。これでは、結婚はうまくいきません。どちらも、自分が不完全であることを思い知らされて、お互いが赦し合う。これがイエスの御言葉によって創り出される結婚であり、そこに働く結婚愛です。そのような赦しはどこから来るのか? イエスの御霊のお働きからです。だから、イエスの御言葉と御霊の働く赦しの場、わたしたちの結婚が成り立つ場はそこにしかないのです。
(W)結婚愛の歴史
■旧約と新約の結婚愛
 キリストとエクレシアの関係は、ホセア書のヤハウェとイスラエル民の夫婦関係を背景にしていると見ることができます。しかし、ホセア書では、夫婦は契約によって結ばれていましたが、そこで啓示されるのは、脆く弱い人間の不誠実を赦して支えるヤハウェの我慢強い忍耐でした。雅歌はこの二人の関係を理想的な「性愛」として賛美しました。
■パウロの結婚観
 パウロの結婚観が最もよく現われているのは第一コリント7章1〜16節/同25〜40節です。ここでパウロは、結婚と独身のどちらにも平等に価値を見出しています。大事なのは、欲情に負けて淫行に陥らないことです(7章2節)。パウロ自身は生涯独身で通したと思われますが、結婚の経験があるという見方もあります〔Anchor Bible Dic.(4)570〕。ただし、パウロ自身は、結婚よりも独身のほうがクリスチャンにとって望ましいと考えていたようです。これは終末が差し迫っているという信仰から出ている便宜的な手段です(7章7節/28〜31節)。また、離婚についてはイエス同様に厳しいですが(7章10節)、結婚は、未信者の夫とその子供たちへの救いになると考えられています(同14節)。
 パウロは結婚を否定する禁欲主義者ではありませんが、結婚を奨励する結婚主義者でもありません。個人の倫理的な生活と祈りのためにどちらを選ぶかはそれぞれの御霊の導きによるのです(7節)。したがって、パウロには「結婚愛」を尊ぶという考え方はありません。この点では、当時のギリシア哲学や東洋の儒教的な思想と共通します。
■近代の結婚愛
 16世紀のイギリスの詩人エドマンド・スペンサーは、神によって「結ばれる」結婚に関わる偉大な神秘を知っていて、彼の小編『祝婚歌』を通して、家庭と社会と国家と宇宙を一つながりに結ぶ「神の霊的な秩序」を「厳か」なものだと考えました。スペンサーの詩魂を受け継いだジョン・ミルトンも、その『楽園喪失』4巻750〜57行で、このような夫婦一体の結びつきを「結婚愛」と呼び、「人間を獣と区別する唯一のしるし」として、理性に基づくこの結婚愛を「あらゆる人間関係の基盤」に据えています。この夫婦愛は、『楽園喪失』を訳した無教会の藤井武に受け継がれ、彼はその妻の死に際して『小羊の婚宴』と題する叙事詩を著わしています。作家の伊藤整は、このような西欧ヨーロッパの夫婦関係が、人間一般に通じる夫婦関係とは「本質的に」異なることを見抜いていました。彼は、日本人の結婚観とキリスト教のそれとの間には、「祈りを通じて達成される」神の御前での新たな創造という、根本的な違いがあることを洞察していたのです。
 「キリストがエクレシアを愛して御自身を献げるように」とある「愛」は、相互の人格を認め合い助け合う自己犠牲の愛です。このような愛(アガペー)は、信仰者同士の愛であれば十分理解できます。しかし、事「結婚」での夫婦愛となれば、これは、性愛への創造的な超克として働くことになりましょう。したがってここでは、性愛(エロース)を正しく<方向付ける>アガペーが、性愛に基づく恋愛を結婚愛が指し示す価値観へと方向付けるよう働くことになります。いわゆる「恋に落ちる」という性愛の働きが、神の御心に沿う結婚へ向かって「踏み切る」という決断と意志による「選びの愛」へ切り替わることになるのです。これを「時間/時」の視点から見るならば、ただ「現在」においてのみ成り立つ「恋」から、未来を志向する「結婚愛」へ切り替わるという事態がここで生じることになります。
 結婚愛におけるこの時間的な「未来志向」は、とても重要な意義を帯びています。長い人類の歴史において、唯一存続し続けてきた普遍的な儀礼として、「結婚式」と「葬式」のふたつがあります。シエイクスピアの作品においては、喜劇はすべてが結婚で終わり、悲劇はすべて死で終わりますが、この偉大な劇作家は、人類普遍の原則をその作品でこのようにドラマ化しているのです。パウロが、イエス・キリストにある「愛」を「信仰と希望」との密接なつながりにおいて見ているのも(第一コリント13章13節)、性愛を結婚愛へ昇華するこのようなイエス・キリストの働きから来るのでしょう。この視点から見るならば、ヨハネ黙示録において、最期にキリストとエクレシアが、花婿と花嫁として結ばれる救済史の終末的な結末は、今回のエフェソ人への手紙の結婚観と密接に対応していることが見えてきます。
■離婚の自由
 神によって結ばれたものは決して離れてはならないというイエスの教えは、結婚を内面化した教えであると言いました。けれども、宗教改革の時代になりますと、夫と妻の内面的な愛が失われた場合には、離婚もやむをえない。こういう思想が現れます。17世紀のイングランドで、ジョン・ミルトンという人は、内面的な結婚の目的が失われた場合には、再び新たな出直しをするために離婚もやむをえない、ということを唱えて、離婚論を著(あら)わしたのです。それまでは、教会の教えとして、いったん結婚したら離婚は、よほどのことがない限り認められませんでした。
 17世紀のイングランドのピューリタン革命の時に、こういう「離婚の自由」思想が生まれ、そこから、近代において離婚が認められるようになりました(コイノニア会ホームページの聖書講話欄の「イングランドの宗教改革と離婚の自由」参照)。ただし、この離婚の自由は、「どんどん離婚しなさい」と、離婚を勧めているのではありませんから注意してください。男女が本当に内面的な結婚愛の生活を追求するためには、どうしても「離婚する自由」が認められなければはならない。夫婦の愛を育てるという積極的な動機づけのためにも、離婚の自由は「やむをえない」という消極的な理由からです。離婚する自由がないと、その律法が人間を束縛し苦しめる結果になるからです。日本でも、「男女七歳にして席を同じくせず」と言われた時代がありました。かつての太平洋戦争中には、うっかり妹と一緒に街を歩くこともできませんでした。現在わたしたちは、イエスの結婚への教えの<ほんらいの意図>を、離婚の自由を踏まえた上で、もう一度新たに問い直す時が来ています。わたしたちはここで、<このことに>気づかなければなりません。
「結婚愛」の旧約から新約への過程、さらに、ヨーロッパ中世の恋愛観に始まり、イングランドのエリザベス朝を経て成立した「恋愛結婚」とピューリタン革命に伴う「離婚の自由」、さらにこれらを受けた明治の日本のキリスト教による結婚愛については、コイノニア会ホームページ→聖書講話欄→集会での講話→2014年夏期集会講話→性愛から結婚愛へ(前編)と(後編)を参照してください。
(X)結婚と離婚の自由
■人は「自由」か?
 「神が合わせたものを人が離してはならない」を、単純に離婚の禁止と受け取るならば、これは法律的な束縛以外の何物でもなくなります。このような「律法的解釈」は、近代以降の結婚観に基づく「離婚の自由」によって打ち破られたと言えます。だからといって問題が解決しているわけではありません。イエスが「神が合わせたものを人が離してはならない」と言われるその根本原理には、<霊的な結婚愛の成就>という創造的な意味がこめられているからです。
 「離婚の自由」が、すなわち「神様が合わせた結婚」の教えの<無効>を意味するものではありません。「神様が合わせた結婚」には、人間が触れることのできない「聖なるもの」「厳かなもの」が潜んでいることを指し示すからです。「聖なるもの」とはどのような意味でしょうか? 健康の法則にたとえると、無理な過労は、わたしたちの体に病気をもたらします。人間の体には、ほんらい具わる「神からの健康の法則」が働いているからです。健康の法則は、人間がこれを「自由に」破ることができます。しかし、体に具わる神の法則それ自体を破ることは、人間にはできません。人間は自分の体を「自由に」できますから、そこには<病気になる自由>も含まれます。しかし、たとえどんなに「正しい」理由があっても、無理が病気をもたらす法則からは「自由になる」ことができないのです。 病気になる理由は人それぞれで、神様の目から見るなら、それぞれに違います。しかし、健康で幸いな道を歩むためには、神様の与えてくださる法則に従い、健康の法則を守る以外に道がないのです。同様に結婚は神から出たものですが、人間はそれを「自由に」破ることができます。人間には結婚の定めを破る自由がありますが、破った結果の報いを免れる自由はないのです。人にはそれぞれに事情がありますから、離婚が正当であるかどうかは、それぞれの場合によって違います。神様はすべてをご存じです。けれども、そのこと自体が、離婚に伴う苦しみや悩みや心の傷を覆い隠すことはできないのです。
■結婚の自由
 わたしたちはここで、結婚を「破る自由」と同時に、結婚愛を「求め続ける自由」のことを忘れてはいけません。結婚「からの」自由に対して、結婚愛を「守ろうとする」自由があることにも目を向けてほしいのです。何かを「しない自由」は、何かを「する自由」と表裏を成しているからです。
 人間は不完全ですから、結婚を犯す罪から免れることができません。だからこそ、イエスの御霊にある「赦し」が働いてくださるのです。わたしたちが結婚において、罪「赦される」とは、ダメ夫婦がひたすら懺悔の生活を送ることだと誤解するなら、もう一つの大事な側面を見落とすことになります。結婚とは、そもそもの「初めから」神様の定められた創造の御業です。だから、ほんらい神の前の祈りによって達成されるべきものなのです。イエスの御霊にあって罪赦される歩みとは、わたしたちの不完全な罪性にもかかわらず、「これに負けることなく」、イエスの御言葉にある「結婚愛」を最後まで成就するよう、祈りつつ歩み続けることが求められているのです。
 英会話を学ぶ人は、英文法を「間違えて破る」ことを気にしてはいけません。間違えても、うまくいかなくても、これを気にせずに英語を話し続ける、これが「赦されて歩む」ことです。「赦される」受動と「歩み続ける」能動、この受動的能動こそ御霊にある歩みの極意です。
 だから、「神が合わせてくださったものを人が離してはならない」とは、たとえ結婚の当事者であれ、その周囲の者であれ、どのような「人」であれ、結婚愛という不思議な導き、神から与えられた創造する命を祈り求めることを妨げてはならないという意味です。離婚の誘惑にもかかわらず、「罪赦されて」二人の霊的な結婚愛を追求する祈りの歩みを放棄してはいけないという意味です。これは、人が<自力で>すること、できるものではなく、「結婚」に赦され支えられて初めて成就されるものです。離婚の自由が現実のものとなった現在では、その自由に裏打ちされて、イエスの御言葉の意味がいっそう重視されてくるでしょう。すなわち、離婚の自由という原則を踏まえた上で、新たに内面的な結婚生活への意思と祈りが求められる時代が来ていると言えます。
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