フィリピ人への手紙の霊性
コイノニア東京集会と横浜キリスト聖霊教会で
(2015年11月14と15日)
 今回フィリピ人への手紙をとりあげたのは、この書簡には、パウロが伝えた福音が最も純粋な形で保存されているからです。これから、この書簡から、七つの項目について簡単にお話ししますが、最後の三つは難しい問題を含んでいます。
■フィリピへの書簡とその背景
 パウロは、51年に、第二回伝道旅行の後で、エルサレムを訪問し、そこからシリアのアンティオキアの教会へ戻ります(マフィー・オコウナの『パウロの生涯』のエルサレム会議後期説によっています)。ところが、アンティオキアの教会で、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒とが食事を共にする件で、ペトロとパウロの間に論争が生じて、その結果、パウロは、テモテとシルワノとテトス(?)を連れて、アンティオキアの教会から独立し、第三回伝道旅行に出かけます(52年)。この伝道旅行は、それまでと違い、アンティオキア母教会からの資金援助なしでした。
 パウロは、ガラテヤ(北ガラテヤ説では現在のアンカラ)を訪れ、そこから南下してアジア州のエフェソへ着きます。パウロたち一行は、ここを拠点に、小アジアからギリシアにかけての伝道を考えていたようです。ところが、52年の9月頃、早くもかつての母教会アンティオキアから、ユダヤ人キリスト教徒たちがガラテヤを訪れて、異邦人キリスト教徒もモーセ律法に従って割礼を受けるよう勧めて、パウロの伝えた福音を無効にしようと働きかけたのです。これを知ったパウロは、ガラテヤ人への手紙を書き送ります(53年)。この年の夏に、フィリピの教会から、援助資金が届けられます。おそらくパウロがかつての母教会からの援助なしで伝道していることを聞いたからでしょう。パウロは感謝の想いをこめてお礼の書簡をフィリピに書き送ります。これがフィリピ人への手紙A(4章10節〜20節)です。
 ところが、53年の夏の頃、今度はエフェソでアルテミス女神の像を作って売っている職人たちが、パウロたちの伝える偶像否定の教えに危機を抱いて、パウロの同伴者を今に遺る劇場に引き出して、彼らを殺そうとします。騒ぎを聞きつけたローマの役人によって、なんとかその場は治まりますが、パウロはこの騒動の責任を問われてエフェソから遠く離れた丘の上にある牢獄に入れられます。彼はローマの市民権を持っていたので、即時の処刑は免れますが、何時処刑されてもおかしくない状態にあったと考えられます。パウロは処刑を覚悟して、最期の想いをこめた書簡をフィリピの教会に宛てて送ります。これがフィリピ人への手紙B(1章1節〜3章1節+4章2節〜9節)です。ところがその後、アンティオキアからのユダヤ人キリスト教徒たちがフィリピにも来ていることを聞き知ったのでしょう、パウロはフィリピの教会に書簡を送り、彼らを警戒するよう伝えます。これがフィリピ人への手紙C(3章2節〜4章1節)です。この結果、幸いフィリピの教会は、パウロの警告を受け入れて、パウロを支持する決意をしました。
■パウロの福音の極意
 こいうわけで、フィリピ人への手紙Bには、死を覚悟にしたパウロの証しが記されています。これからその中から拾い読みします。「私は確信します。あなたがたの中で善い業を始めた方は、キリスト・イエスの日まで、その業を成し遂げてくださると」(1章6節)。
 皆さんはイエス様を信じた。異言を受けた方もおられます。皆さんが受けたその神からの御業は、決して失敗しない。大丈夫です。皆さんの最期まで、神は必ずこれを貫徹し、成就してくださる。こうパウロは確信するのです。あなたが「成し遂げる」のではない。イエス様とイエス様の父なる神が成し遂げてくださるのです。だから大丈夫です。最期まで信仰を全うしてください。
■わたしの内なるキリスト
「わたしにとって生きることはキリスト。死ぬことも役立つのです」(1章24節)。
 パウロが死を目前にして悟ったこと、それは、自分がここで完全に消え失せて、何一つ残らなくても、それでも自分の内に働いている不思議な力がある。これを彼が悟ったことです。それは、力と言うよりも何か不思議な「もの」の存在です。そうです。これが「わたしの内なるキリスト」、御復活のナザレのイエス様です。自分が全部無くなって、何も存在しないところまで来たとき、そこに顕われるのがわたしの内に働くイエス・キリストです。だから「今生きているのはわたしでない。キリストがわたしの内で生きている」(ガラテヤ2章20節)のです。これが使徒パウロの福音の極意です。
■無限の喜び
「わたしと同じにあなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」(2章18節)。
 最後の最期に遺るもの、自分が消え失せてもなお消えないもの、それは、今最期を迎えようと覚悟するパウロの心に湧いてくる不思議な喜びです。書簡Bだけで、「喜び」がなんと12回ほどでてきます。この喜びは、永遠になくならない。そういうものが自分の内に働いていてくださる。パウロが「愛と悦びと平安」の三つをイエス様の聖霊のお働きの「実」と呼ぶのがこれです(ガラテヤ5章22節)。自分には、なにか永遠になくならないものがあるのだ。これを悟るのはすごいことです。
■喜びの根拠
「(キリストは)ご自分を無にして、僕(しもべ)の姿となり、人間と同じ様態と成り、人間の姿で現われた」(2章7節)。
 この節のすぐ前に、キリストは神と同じであられたが、神のお姿を固持しようとはされなかったとあります。だから己を低くして「人間の姿」になられたのです。ここで「人間」が繰り返されているのは、この方が「ナザレのイエス」であり、このイエスは、わたしたちと全く同じ人間であったことを強調するためです。「ポンテオ・ピラトの時に十字架にかかった(御子)」と使徒信条にあるのもこの意味です。このことは、イエスが、わたしたち人間の弱さも罪深さも苦しみも欠陥も全てを知ることができることを意味します。だからパウロは「神は御子(イエス)を罪の肉の様(姿)で罪のために遣わされた」(ローマ8章3節)と言っています。「罪のために」とは、わたしたちの「罪を赦してこれをどん底から担い救い上げるため」です。だから、わたしたちは今どんなに惨めな状態でも、大丈夫、そういうわたしをイエス様は理解してこれを克服できるお方です。
 このイエス様が、復活されてイエス・キリストとなられた。この御復活のナザレのイエス様こそ、パウロの内に生きておられるキリストであり、喜びの源なのです。イエス様が、サマリアの女に「この水を飲む者はまた渇く、しかし、わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、そこから永遠の命が湧き上がる」と言われたのがこれです。
■聖霊と典礼
「わたしが、あなたがたの信仰の生贄(いけにえ)と典礼の上に、自分の血を注ぐことになっても、わたしは喜ぶのです。あなたがたみんなと一緒に喜び合うのです」(2章17節)。
 ここからは、三つの難しい問題に触れておきます。パウロはフィリピの教会のために「自分の血を注ぐ」結果になっても喜ぶと告げていますが、「あなたがたの信仰の生贄と典礼」とあるのが問題です。「信仰の」とは、信仰さえあれば、聖霊に満たされることで、わたしたちは、もう「いけにえ」も「典礼」も要らなくなるのか? それとも、逆に、聖霊に満たされることで、なおいっそう洗礼と聖餐などの典礼を尊ぶよう導かれるのか? この二つの解釈が可能です。ここには聖霊にある体験と祭儀的な典礼との結びつきをどうとらえるのかという重要かつ微妙な問いが含まれているのです〔Theological Dictionary of the New Testament. Vol.4.227-29〕。
■愛する知性
「わたしが祈るのはこのこと。あなたがたの愛がもっともっと増大して、これによる知性ですべてを霊的に洞察するように」(1章9節)。
 現代のわたしたちは通常「理性」の働きを「愛の働き」と結びつけることをしません。理性的に知的に計算すること、心情を離れて客観的に観察することを「愛の働き」だと見なすことはしません。ところがパウロは「愛を通じて働く知性」を祈り求めるのです。
 異言による聖霊体験と聖霊によるエクスタシーを通じて、わたしたちの理性/知性はどのようになるのか? ここにはこの問いかが含まれています。注意してほしいのは、「愛がもっともっと増大する」そのことを通じて、理性/知性が働き、洞察が鋭くなることです。自分が無にされてイエス様の御臨在が自分を通じて顕われる。すると愛の働きが増大して知性と洞察が増す。ナチスの収容所で、人の身代わりになって己を捧げたコルベ神父は、こういう知性を具えた人です。あの異常で過酷な状況の中にいれば、通常の人なら正常な理性を失うのが普通ですから。考えることと愛すること、愛のために自己を無にする知性、わたしたちがこういう霊知に到達すること、これがパウロの祈りです。
■万事を好ましく
「兄弟姉妹、最後に言いたいのは、どのような真理も、およそ気高く、およそ正しく、およそ清く、およそ好ましく、およそ名誉ある事柄、どんな美徳でもどんな称賛でも、これらを心がけなさい」(4章8節)。
 自分が無にされてただ御復活のイエス様を歩む。そんなことでこの世が渡れるのか? イエス様がお与えになる永遠の命を歩むと、世の中のことなど、どうでもよくなるのか?こういう疑問を抱く人がいるでしょう。ここでパウロは、すべてを捨ててイエス様に従い、己を無にして生きるなら、この世のことすべてを「好ましい」ように対処することができると言うのです。ここで言う「好ましい」ことも「美徳」も、クリスチャン同士のことだけでなく、この世の一般の人の間でのことを指します。神の御前に何が「良い/善い」のか?これはこの世の人がすでに知っているのです〔カール・バルト『フィリピ人への手紙』〕。イエス様の御臨在に生きる人は、どんな場合でも焦らない、あわてない、自己の欲に惑わされない。だから何事にも判断を誤ることなく、対処することができるのです。驚くべきことです。パウロはここでものすごいことを言っています。

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