ローマ書簡の霊性(1)
パウロという出来事
 
■はじめに
 今回の夏期集会も、全員が全員の顔を見ながら、全員の証言と祈りを聴くことができる範囲の人数です。感謝です。私は宣教師さんたちから福音を聞いて受け容れ、これを伝えようとして挫折した者です。挫折したのは、伝えられた福音という既成の「製品」をどんどん売りさばく自信をなくしたからです。私は敗戦によって、間違った信仰ほど悲惨で恐ろしいものはないと身をもって知った人間です。だから、外国からのキリスト教をそのまま売りまくることがどうしてもできなかった。自分がほんとうに確信が持てる霊性の製品を一から自分で創り出すよりほかに手がなかったのです。これが結局一生かかって、ようやくこういう形で交わりを結ぶことができるようになりました。
 だから、皆さん、私から福音的霊性を学んだら、これからは、どうかそれを自分なりのやり方で「伝える方法」を考案してください。現在所属しておられる教会の中でもけっこうです。この霊性は立派に通用しますから。ただし、今私が考えているのは、どうすれば、全く福音を知らない人たちにこのイエス様の霊性を伝えることができるか?という問題です。この問題を解く鍵の一つとして、今回の「パウロの出来事」を聴いていただければ幸いです。
■パウロという出来事
 「神から遣わされた一人の人が現われた。その名をヨハネという」(ヨハネ1章6節)。これは洗礼者ヨハネがこの世に現われたことを伝えるヨハネ福音書の言葉です。ここで「現われた」とあるのは、洗礼者ヨハネがこの世に「出現した」という「出来事」を指します。出現した出来事とは、この時に、神のお働きによってヨハネに何事かが「起こった」。それまでのヨハネとは違う「何か特別なこと」が起こったのです。
 同じことがイエス様の場合にも言えます。イエス様が洗礼者によって洗礼をお受けになると、聖霊が降ってイエス様が「父の愛する子」であると告げられます。これが「イエス様の出来事」の始まりです。このように言うと、イエス様の出来事は、洗礼による聖霊降臨の時から始まったかのように聞こえるけれども、その時起こった出来事は、それまでのイエス様の誕生から生い立ちまでと無関係ではありません。それどころか、イエス様の出来事は、ユダヤ人としてのイエス様の先祖まで、さらに、はるか昔の人類の起源までさかのぼる出来事とつながっています。ルカ3章23〜38節のイエス様の系図は、アダムまでさかのぼるのは、このことを証ししています。
 わたしたちはこれから、ローマ人への手紙を通じてパウロについて学ぼうとしていますが、彼についても同じことが言えます。「イエス様の出来事」は四福音書に証しされていますが、「パウロの出来事」は、使徒言行録と彼の書簡で証しされています。それはパウロの身に起こった出来事だけでなく、パウロという存在それ自体が、神による一つの「出来事」だという意味です。
 ではパウロという出来事は何時起こったのか? これは比較的はっきりしています。彼が大祭司の命令を受けて、キリスト教徒を迫害しようとダマスコへ向かう途中で、イエス様に出会って、その時からサウロはパウロになった(使徒言行録9章1〜19節)。ただし、パウロはそれまでのサウロをも受け継いでいます。ファリサイ派としてのサウロだけでなく、彼の誕生とそれ以前からのユダヤ人サウロも「パウロ」の中で新たに活かされているのです(ガラテヤ1章15〜16節/フィリピ3章3〜6節参照)。
 皆さんは洗礼を受けて、クリスチャンになった。欧米では洗礼と共にクリスチャン・ネームをもらいます。キリシタンの「ペトロ岐部」という名前は、「ペトロ岐部」という人が「出現した」事を記念するための名前です。わたしたちにクリスチャン・ネームはありませんが、「クリスチャン私市」でいいです。洗礼を受けて、私市元宏がクリスチャン私市に変わった。だからといって、それ以前の私市元宏と無関係ではありません。クリスチャンになる前の私も、それどころか、はるか遠い昔の私市の先祖からの出来事も、すべて「クリスチャン私市」に受け継がれています。しかも、それらのすべてに全く新しい意義が与えられてくるのです。
■タルソスのパウロ
 「パウロという出来事」は、彼が生まれ育った小アジアのタルソスから始まります。タルソスは、現在のトルコ南部に広がるアナトリア平原の南東部にある都市で、地中海に面しています。ここはパレスチナとアジア・ヨーロッパを結ぶ要(かなめ)の地で、豊かな水量と肥沃な大地に恵まれた都市です。アレクサンドロス大王の軍隊が通った石畳の路が今でも遺(のこ)っていて、街の中央の通称「パウロ公園」には、おそらくパウロが生まれた時に浴びたであろう聖水の井戸があります(パウロの誕生は確かなことが分かりません。紀元6年?という推定があります)。現在、街の半分は商店街ですが、半分は静かな住宅街になっています。
 タルソスには早くからパレスチナのユダヤ人が移住していて、貿易や商業でそれなりに成功し、エフェソと同じように社会的に認められた「自由人」のユダヤ人が多かったようです。豊かな土地とそれなりに充実した教育の場があり、当時の学問で大切な弁論術が教えられていました。当然、パウロもこのヘレニズム都市の雰囲気と教育を受けて容れて育ったことでしょう。東西の繋ぎの場にあたるタルソスのユダヤ人は、時流に鋭い洞察の目を向けることを忘れませんでした。ローマの執政官カエサルがブルートゥスとアントニウスたちの企みで暗殺され(前44年)、ギリシア北部のフィリピで、アントニウス軍とオクタヴィアヌス軍が対決した時に、タルソスのユダヤ人はオクタヴィアヌス軍に味方すべく決断します。結果、勝利を得たオクタヴィアヌスから、ローマの市民権が彼らに与えられますが、おそらくパウロの両親もその中の一人だったと思われます。これも、自分たちにかかわる出来事を鋭く見抜く洞察力の賜物です。
 こういうわけで、タルソスの若者は、ある程度の教育を受けると、より高い名声と成功を求めて、そこからヘレニズム世界の各地へ出て行く風習があったようです。パウロもその例に漏れず、彼はユダヤ人(すなわちユダヤ教徒)として、ユダヤ教のラビになるために、本場のエルサレムへ向かい、そこでファリサイ派の名門ガマリエル門下の弟子になりました。
■パウロの頃のユダヤ教
 主であるヤハウェの神は、「義/慈愛」(ツェデック)と「意志/ご計画」(ミシュパット)を具えています。神のこの「義」と「意志」にかなうことで初めて、神の祝福に与る「出来事」に与ることができます。神の「義」から発っして人に与えられるもろもろの具体的な教えは「正義」(ツェダカー)という女性名詞で表わされます。ここでは便宜上、神の本質的な「義」と、それがもろもろの宗教的律法や社会的法律として具体的な形を採る「正義」とを区別しましょう。同様に、神の「ご計画」(ミシュパット)から発するもろもろの定めや戒めは「ミシュパティーム」(戒め)という複数形で表わされます。女性名詞の「ツェダカー」(もろもろの正しい行為)と複数名詞の「ミシュパティーム」(もろもろの規定)は、数多くの教えや定めや掟となり、これらの定めを守る「歩み」(ハラハー)が、もろもろの「律法」としてユダヤの人々の安息日やその他の生活を事細かに規制していました。これが、パウロが学んでいた頃のユダヤ教の有り様だったのです。
 当時のユダヤ人はギリシア的な合理主義の影響を受けていましたから、人が神の祝福に与るためには、「正義」(正しい律法の行ない)と「戒め」(もろもろの規定)を守りさえすればいい。こういう「合理的な」思考が働き始めます。神の義は諸律法に、神への信仰は諸規定を遵守することで確保されると考えていたのです。このように、宗教的な信仰が合理化された人間の判断に委ねられると、人は神からの祝福を得るために、言い方は悪いけれども、神と交渉するための言わば「理論武装」を手に入れることになります。
 ヘレニズム思想の影響を深く受けた当時のユダヤ社会では、この傾向が強くなります。すると、どういうわけか、かつてモーセやダビデの時代に現われた「神からの出来事」が起こらなくなります。神の律法を「守ろう」とすればするほど、神の出来事が遠ざかるというおかしなことになります。唯一の例外がマカバイ戦争で、この時には、ギリシア政権の弾圧に耐えかねたマカバイたちが、必死に神に祈りを捧げ、その信仰によって不思議な勝利の出来事が授与されます。しかし、イエス様の頃には、神への礼拝も信仰も、すべてが神殿礼拝を中心とする律法と戒めによって型どおりに効率よく執り行なわれていました。その代わり「神からのめぼしい出来事」はほとんど見られない。こういう状態が続いていたのです。なぜでしょうか。神の「義」とは、神からの「憐れみと慈しみ」に生きる信頼から発することを忘れて、信仰を規則と行事にすりかえて、人間的に合理化しようとしたからです。神様からの分け隔てのない慈愛、この絶対恩寵から発するのが「神の出来事の本質」であることを忘れたからです(ホセア11章8〜9節)。
■イエス様の出来事
 イエス様の出来事をここで詳しく扱うことは控えます(ホームページの聖書講話欄の共観福音書講話とヨハネ福音書講話を参照してください)。「出来事」としてのイエス様は、歴史的な「イエス」のことではありません。イエス様の出現という出来事は、はるか人類の始めからの出来事と関連するからです。一つだけ強調しておきたいことがあります。それは、イエス様の出来事は、徹頭徹尾イエス様を「ただ信じる/信頼する」、そのこと<だけ>を人類に求めていることです。これは次の4点で表わされています。
(1)ナザレの一人の人の<人格的霊性>を通じて神御自身が啓示された。これを人間的な論理や弁証術で納得することは到底不可能です。理屈抜きで、イエス様をただ信頼する。これ以外に道がないのです。
(2)しかもそのメシアであるイエス様が、<十字架の死>というおよそ神の啓示とはかけ離れた出来事でその生涯を終えたことです。ダビデ的なメシア像を唯一の根拠に最後まで信じようと努めてきた弟子たちが、事ここにいたって躓いたのも無理がありません。
(3)この十字架のイエス様が、<復活する>という、人類の歴史上に未だ起こったことのない出来事で終わることです。イエス様の御復活こそわたしたちの「救い」、わたしたちの「永遠の命」の起源となる出来事です。
(4)イエス様の出来事を通じて啓示された出来事の本質は、イエス様の父なる神の慈愛と赦しという<絶対恩寵の働きかけ>によることです(マタイ9章13節/ルカ6章27〜36節/ローマ1章16〜17節)。
 これら四つを含む出来事を伝える言葉を新約聖書は「み言葉」(使徒言行録6章4節)と呼んでいます。この四つは、人の理性や論理で合理化したり納得したりすることがとうてい不可能です。だからパウロは、イエス様の出来事を人類が「未だかつて想い描くことができない出来事」だと見抜いたのです(第一コリント2章9節)。この出来事を「知る/悟る」ことは人間の理性では不可能です。「わたしの父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることができない」(ヨハネ6章44節)のです。「信じる」ことはただ神からのみ生じるからです(同1章13節)。
■パウロとイエス様との出会い
 パウロとイエス様の出会いでは、大事なことが四つあります。
(1)サウロは、イエス様を信じる<ユダヤ人キリスト教徒を迫害>するためにダマスコへ向かっていました。彼は、まだユダヤ教の一派と見なされていた「ナザレ派」と呼ばれている者たちを捕らえて、エルサレムで、これらユダヤ人キリスト教徒を取り調べるうちに、彼らの中に、ユダヤ教のハラハー(諸規定)を重視しないだけでなく、ナザレ派に改宗した異邦人キリスト教徒にはモーセ律法で最も重視されていた「割礼」さえも必要がないと主張する者たちがいることを突き止めます(こういうユダヤ人キリスト教徒は、ヘレニズム的なユダヤ人ですから「ヘレーニスタイ」と呼ばれています)。ファリサイ派に忠実なサウロはとうてい彼らの律法軽視を認めることができませんでした。
(2)「パウロの出来事」はナザレのイエス様との出会いに始まります(使徒言行録9章)。だからパウロの出来事は<イエス様の出来事と不可分一体>です。歴史的な人間イエスと歴史的な人間パウロを区別して、二人を別個の存在だとするのは、二人に起こった「出来事」を見誤るか理解できないからです。ユダヤ人サウロは、イエス様に出会って初めて「パウロ」になった(使徒言行録13章9節)。だからサウロは、イエス様と出会って、「自分が誰か」さえ分からなくなったのです。サウロ自身さえ分からないことを、現代の学者がどうして分かると思い込むのか? 不思議です。
(3)サウロが出会ったのは、彼が迫害する<ナザレのイエス>です(使徒言行録9章5節)。この出来事は、サウロが生前のイエス様と面識があったかどうかなど関係がありません。パウロはここで、イエス様の誕生から十字架と復活にいたる「イエス様の出来事」全体と向き合ったからです。
(4)これが、わたしが繰り返し言う「ナザレのイエス様に出会う」ことであり、その結果生じる「出来事」です。ナザレのイエス様と出会ったサウロは、それまでの自分の歩みと、それまで学んできた「ユダヤ教全体」とを<完全に放棄>せざるをえなくなった(フィリピ3章4〜8節)。その代わりに彼は、「目から鱗が落ちる」ように(使徒言行録9章18節)イエス様の出来事の全体像を見たのです。
 ではその出来事とは何か? 十字架のイエス様を通じて啓示された「分け隔てのない」父なる神の慈愛と赦しです。パウロは、イエス様との出会いで、自分を始め人間の罪性を逆手にとって、これを救いに転じるという「逆転の恩寵」に出逢ったのです。パウロは、ナザレのイエス様の出来事を通じて、この恩寵を初めて悟った。それから彼は、このナザレのイエス様と共にある「歩み」を始めました。これが彼の新しい「歩み」(ハラハー)です。「わたしが生きているのは、わたしではなくイエス様だ」こう言い切るまで徹頭徹尾、このイエス様に従った。この人はやることが徹底しています。
■ペトロとの衝突
 イエス様との出会いに次いで、パウロの出来事で大事なのは、北シリアのアンティオキア教会でのペトロとの衝突です。当時のアンティオキアは、ローマやエジプトのアレクサンドリアと並ぶヘレニズム世界の大都市でした。そこはエルサレムと異なり、様々の民族もユダヤ人もいて、ユダヤ人キリスト教徒も異邦人キリスト教徒もいました。エジプトのアレクサンドリアと並んでディアスポラ・ユダヤ人(離散のユダヤ人)の最大拠点であるシリアのアンティオキアがローマの支配に入ったことは、ローマとユダヤ人との関係に重要な意味を持つ出来事でした〔大澤武男『ユダヤ人とローマ帝国』講談社現代新書39頁〕。アンティオキアの諸集会がどれほどの規模かは分かりませんが、聖日にはキリスト教徒全員が集まって、共に聖餐を行ない食事を共にしていました。ペトロもパウロもバルナバもこれに加わって、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒の区別なく食事と交わりを行なっていたようです。このアンティオキアで初めて、「ナザレ派」のユダヤ教徒が「クリスティアノイ」(キリスト狂いたち)というあだ名をいただくことになります。彼らは、聖霊体験を重んじて、イエス様の再臨の近いことを語り合い、異言で祈ったり預言したりしていました。
 ところが、エルサレムのユダヤ人キリスト教徒(ユダヤ教徒という説もあります)から律法遵守を重んじる人たちが派遣されてきて、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒が食事を共にする「交わり」(コイノニア)は、律法と諸規定に悖(もと)るから止めるよう圧力をかけてきたのです。その結果、ペトロは、異邦人キリスト教徒との食事の現状に不安を感じて、その食事から次第に身を引き始めます。イエス様の第一弟子であるペトロの行為は、他のユダヤ人キリスト教徒にも影響を及ぼし、パウロ同様に自由な考え方をしていたバルナバまでが、ペトロと共に食事に出なくなったのです(ガラテヤ2章12〜14節)。
 パウロはこれに不安と同時に憤りを覚えます。イエス様の御霊のお働きの結果、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒が、分け隔てなく、自由に食事と交わりができるというのは、それまでのユダヤ教では考えられなかったことです。この驚くべき「出来事」がイエス様の御霊にあって実現したのです。ところが今、せっかく与えられた「御霊の出来事」をこともあろうにペトロ自身が壊そうとしている。これをパウロは見過ごすことができませんでした。ペトロにもそれなりの言い分があり、彼なりの考え方や論理があったでしょう。しかし、人間の理性や論理や教義で、<神が現に起こしておられる>イエス様の御霊にある出来事を壊してはならないのです。神が起こす事は神の言(こと)だからです。
 おそらくペトロは、従来のユダヤ教の教義に基づいて、エルサレム教会との関係をおもんばかって身を引いたのでしょう。しかしそれは、「神が起こしておられる御霊の出来事」を破壊する恐れがあることをパウロは見抜いた。パウロは、かつて自分自身がそうであったユダヤ教の律法主義とこれの限界を知って、それから訣別したのです。彼はイエス様の「十字架の出来事」を正しく洞察していたからです。彼は、アンティオキア教会の交わりの出来事とイエス様の出来事との深いつながりをはっきりと洞察していたから、これを「福音の真理」(ガラテヤ2章14節)と呼んでいます。
 一方のペトロは、残念ながらこの時、自分の周囲に起こっていることが<イエス様を信じた結果与えられた出来事>であることを忘れた。彼は、目の前の聖霊の出来事よりも、エルサレムの人たちという「人の意見にとらわれた」(ガラテヤ1章10節)のです。自分が現在体験し目で見、耳で聞いている出来事よりも、自分の心情とか、自分の理解とか、自分の信条を優先させた。その結果、せっかくイエス様から与えられている「自分の身に起こっている出来事」を疑った。彼はここで大事なことを、主から与えられた<ほんとうの自分>を見失ったのです。
 ここで皆さんに考えていただきたい。ある出来事を目の前にして、これは自分の今までの考えや論理や信条とは違うと判断してその「出来事を否定する」のと、自分の従来の論理や教義にとらわれることなく、起こった出来事をそのあるがままに認めて、そこに新たな意義を見出そうとすることと、どちらが、現在のわたしたちの目から見て「科学的」でしょうか? わたしは、ペトロよりもパウロのほうが、ほんとうの意味で、物事を「知る人」(「サイエンティスト」の原義)のあるべき姿勢だと思います。ほんとうの自分を見失わないことと、ほんとうの意味で科学することとは一つです。
■ガラテヤ教会の出来事
 アンティオキア教会での衝突事件は、従来パウロの第2回伝道旅行の直前(48〜49年頃)だとされてきましたが、最近では、第3回伝道旅行の直前(52年頃)だという説が提示されていて、わたしもこれに従っています(詳しくはコイノニア会ホームページ→聖書講話→パウロ系文書→補遺欄を参照)。イエス様の第一弟子ペトロとの衝突の結果、パウロはアンティオキアの教会と訣別して、どこからの援助も受けずに、先に訪れたガラテヤ州南部の諸集会とガラテヤ州北部の中心地アンキュラを訪れ、そこからエフェソへ降り、そこに腰を据えてアジア州での伝道を始めます。
 ところが、その頃、ガラテヤ(北部のアンキュラ?/ガラテヤ州南部?→ホームページのパウロ文書補遺を参照)から、悪い知らせが届きます。ペトロとの衝突を機に、エルサレムの教会か、あるいはアンティオキアの教会の保守的なユダヤ人キリスト教徒たちが、パウロを異端と見なして、彼の伝道を阻止しようとする働きかけを開始したからです(52年の春頃か)。彼らは、パウロが去った後のガラテヤの諸集会に人を遣わし、洗礼を受けてクリスチャンになった者は、ユダヤ教の定める割礼を受けなければならないと教え始めたのです。
 驚いたのはガラテヤの教会の異邦人キリスト教徒たちです。せっかく先祖の異教の神々を棄てて、ユダヤ教の唯一の神を信じて、イエス・キリストの名によって洗礼を受けたのに、それではまだ足りないから、モーセ律法に従って割礼を受けなさいと告げられたからです。「パウロ先生、いったいわたしたちはどうすればいいのですか?」ガラテヤのクリスチャンからこんな問い合わせがパウロのもとへ届いたのかもしれません。
 パウロはさっそく書き送ります(53年春?)。あなたたちは、十字架のイエス様に出会って救いを体験した。そればかりか、イエス様の御霊のお働きを受けて、異言を語ったり、その他の不思議な出来事を体験したはずです。割礼はもとより、ユダヤ教の細かい規定など何一つ知らなくても、あなたたちは、イエス様の十字架が目の前に顕われるほどの「出来事」を体験したではないか。十字架のイエス様を通じて啓示された罪の赦しと父なる神の慈愛、これが御霊の交わりという驚くべき出来事を生じさせているではないか。このことを忘れて、まだ何か不足しているかのように「もっとああせよ」「もっとこうせよ」と、様々な規定を持ち出して押しつけてくる。今になって、なんのために割礼を受ける必要があるのか。イエス様の十字架と御復活から降る聖霊の慈愛の出来事をあれほど体験したのに、それ以上何が不足なのか? 割礼などなくても、あなたたち異邦人キリスト教徒が、ユダヤ人キリスト教徒と共に聖餐に与り食事をするのに何一つ差し障りがないではないか。イエス・キリストの十字架が「あなたたちの目の前に」顕われた時、あなたたちは、自分たちの行ないや存在そのものが、救いのためには全く無力であって、ただあるがままそのままの「罪の姿」で、イエス様の血による贖いと赦しと愛に抱かれて、不思議な聖霊体験を味わったではないか。パウロはこう言って、ガラテヤのクリスチャンたちに、イエス様を通じて降る「絶対恩寵」の御霊の働きを改めて想い起こさせようとしたのです。
 ガラテヤを訪れたユダヤ人キリスト教徒たちは言います。パウロの伝えるイエス・キリストの福音は、それでいい。しかし、それだけではまだ十分でない。イエス・キリストの福音と<併せて>モーセ律法による割礼とユダヤ教の規定を守る必要があるのだと。これは、アンティオキアの教会でもパウロが恐れたことです。せっかく与えられている「イエス様の御霊の出来事」が、従来のユダヤ教の規定によって破壊されてしまうことになりかねません。言葉巧みで論理的で、もっともらしく聞こえるけれども、イエス様をひたすら信じて受けた聖霊の出来事が、それによって失われていく。こういうことがありえるのです。その結果、どうやらガラテヤの諸集会は、結果として、不幸にもパウロから引き離されたようです。
コリント教会の出来事
 パウロたち一行は、その間エフェソに留まってアジア州に伝道していました。今度はエフェソの異邦人の間から偶像礼拝を批判するパウロたちに反対運動が生じて、彼は一時牢獄につながれるという事態が起こります(53年夏?)。ところが、この翌年の春のことです。先にパウロが伝道したコリントの教会の様子がおかしいという知らせが、コリントからエフェソに商用で来た人を通じて届きます。そこから一連のコリント問題が始まるのですが、これはとても複雑です(詳しくはコイノニア会ホームページ→聖書講話→パウロ系文書→コリントの教会問題を参照)。
 コリントは、ギリシアのペロポネソス半島の北部にあり、種々雑多な人たちが集まる活気に満ちた経済都市でした。だから、コリント教会の指導者たちは、ヘレニズム的な合理性を重んじる実利的な知識人が多かったようです。彼らは、パウロの説く偶像批判に基づいて、唯一~の御子イエス・キリストのもとにあって、「神々はもはや存在しないのだから偶像も意味を持たない」と割り切ったのです。だから、市の中央の高台にあるアポロ神殿に献げた肉でも、市の西の山にあるアプロディーテー女神の神殿から贈られた食べ物でも、霊的には無害だから自由に食べてもいい。こう確信していたようです(第一コリント8章4節/10章23節)。それだけでなく、昨日今日入信したばかりで、偶像礼拝から離れた人にも、偶像に献げた食べ物を食べるよう「教育した」らしいのです(第一コリント8章10〜11節)。
 パウロの説く「福音の真理」は、イエス・キリストの御霊に導かれる自由な信仰です。ところがこの「自由」は、自分なりの原理原則を振りかざして、ほかの人たちの霊性などおかまいなしに自己主張する「自由」ではないのです。自分の知識と理性にプライドが絡むと、キリスト教徒はこういう罪に陥りやすいです(第一コリント8章1節)。自分の御霊の自由は重んじるが、人の御霊の自由は無視するこういう原理主義は、ほんとうに困ったものです。
 イエス様の御霊は、三位一体の神からイエス様を通じて働きます。だから、「御霊に導かれる」ことと「イエス様に従う」ことは一つです。「あなたはわたしに従ってきなさい。」イエス様は人ぞれぞれにこうお命じになる。だからイエス様中心のエクレシアでは、人それぞれが、その時その場で、その人の置かれた状況に応じて導かれます。それぞれが置かれたその時その場の状況に応じて、「その人に起こる」出来事です(第一コリント7章7節/同17節)。だからこれは本人にしか分からない。と言うより、本人でも分からないことがある。まして人には分かりません。ある人は立ち去るが別の人は留まるのです(ヨハネ21章21〜22節)。ある人は食べても、ある人は食べないのです。食べようとしたら「食べてはいけない」と示されるかもしれません。食べるまいと思っていたのに、つい食べてしまったら、それが結果的に良かった。こういうこともあるかもしれません。大事なのは知識でない。理論でも理性でもない。神様の慈愛の「出来事」を原理原則で割り切ることができないのです。大事なのは、その人が、イエス様に導かれるままにいっさいをお委ねして、主様の御霊にある大きな愛と赦しの力を体験することです。そこから湧く思いやりの心です。
 割礼や食べ物、洗礼や聖餐のやり方にこだわっていては、イエス様の導きを見失うおそれがあります。 霊の賜物や霊能現象はいろいろありますから、これらにこだわっていては、イエス様を愛して、まっすぐ従う道を逸(そ)れるおそれがあります。イエス様に従う者こそ、イエス様の御霊を宿す者です。イエス様の御霊を宿す者は、御霊にあって変容(メタモルフォー)されます。あなたが「新しく創造される」、これがあなたに起こる最も大事な<イエス様にある出来事>なのです(第二コリント5章17節/ガラテヤ6章15節)。そこに働くのが「永遠の命」です(ローマ2章7節/同5章21節/同6章22〜23節)。イエス様の御臨在が発する「まことの愛」です(第一コリント13章1〜13節)。「割礼があってもなくても問題ではない。大事なのは御霊にあって働く愛なのです」(ガラテヤ5章6節)。「だれでもキリストにある者は新しく創造された者です」(第二コリント5章17節)。ガラテヤ5章17節はガラテヤ人への手紙の真髄です。第二コリント5章17節はコリント書簡全体の真髄です。
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