ローマ書簡の霊性(3)  
     古代ローマ市と手紙の受け手と送り手

 ■はじめに
  最初に当時のローマ帝国の首都ローマについて述べてから、ローマ市のキリスト教徒について触れることで、ローマ人への手紙への導入とします。
ローマ人への手紙は、第一テサロニケ人への手紙、ガラテヤ人への手紙、コロサイ人への手紙(合作)、フィリピ人への手紙、一連のコリント人への手紙などの後で書かれたものですから、パウロ書簡の最後のものです(もし、パウロがローマの牢獄から釈放されたとすれば、テトスへの手紙と第一と第二のテモテへの手紙はその後で書かれたとも考えられます)。だから、ローマ人への手紙には、これまでお話ししたパウロの出来事の全部が関係してきます。それだけに内容が深く充実していますから、今回は、ローマ人への手紙の受け手と送り手に留めて、本文のほうは、来年の夏期集会で扱うことにしましょう。
 ■古代のローマ市
 
古代のローマは前10世紀頃から、ティベリス河の東にあるパラティーヌスの丘から始まります。パラティーヌスの丘のすぐ北側には、立派なユピテルの神殿が建つカピトーリヌスの丘があり、二つの丘の南北と東側に五つの丘があり、併せて七つの丘の上に建てられたと伝えられています。S字型に曲がるティベリス河の東側一帯が古代のローマ市でした。現在は、ローマ市内を北から南に流れるティベリス河の西にローマ・カトリックの総本山であるヴァティカン市があって、ローマの市街はこの河で東西二つに分かれています。しかし、紀元1世紀のローマ市は、河の東側だけで、しかも、カピトーリヌスの丘が西の城壁で、北はクィーナーリスの丘まで、東はエスクィーヌスの丘まで、南はアウェンティーヌス丘までのごく限られた地域で、城壁に囲まれていました。
 
 現在では、ヴァティカンの聖ペトロ大聖堂からティベリ河の橋を渡ると、大聖堂から直線距離で南東へ5キロ半の所にフォロ・ロマーノ(ローマ広場)の遺跡があり、そこから南側は、古代ローマの遺跡が広がる公園になっています。その公園の東側にクリスチャンが殉教した巨大な円形のコロセウム(闘技場)があります。
  水垣渉氏の「ローマ書を最初に受け取った人びと」によれば、初代皇帝アウグストゥス(在位前27~後14)は、ローマ市を14地区に分けています。「地区」は京都の中京区とか下京区といった行政区域に似ていて、一つの地区だけはティベリス川の西側に、つまり現在のヴァティカン側です。地区はさらに「街区」に細分されていて、パウロより11年ほど後の73年には、全市に265の街区があったといわれています。3世紀後半のアウレリアヌス帝の頃でも、市の城壁の長さはおよそ18.8キロ、城壁の内面積は1386ヘクタールです。京都市の中京区と下京区を併せた地域は南北ほぼ3.7キロ、東西4.5キロで、ローマ市と大きな違いはありません。一般に古代の都市は、人が歩いて端から端まで行ける範囲に限られています。
  ローマ市の人口は最盛時に100万(2世紀後半)だったが、パウロの時代には80万前後でしょう(65万という説も)。2006年の中京区の人口は10万2000人ほどで、下京区は7万5000人、合計17万7000人ほどだから、二つの区よりやや小さい面積のところに4~4.5倍ほどの人びとが暮らしていたことになります。
  4世紀のローマ市には、4万6600棟の集合住宅と1800戸の一戸建て住宅(ドムス)があり、この比率はパウロの時代でもあまり変わらなかったでしょう。庶民は「インスラ」(「島」の意味)と呼ばれる集合住宅でしたが、それは数階建てで(6階、7階のものも)、4階まではセメントで建造され、煉瓦で外装されていました。上層は木材など軽い建材で造られたから、上層階ほど家賃は安かったでしょう。比較的上流の人は2階に、中程度の人は1階と3階に、下層階級は4~5階に住んでいました。家屋の倒壊や火災は珍しくなかったから、貧しい人びとだけがインスラに住んでいたのではありません。
 
 パラティーヌスの丘には代々の皇帝の邸宅がぎっしりと並び、カピトーリヌスの丘にはユピテルの神殿やオプス(豊穣の女神)の神殿やフィデース(信義の女神)の神殿があり、それぞれの丘には、ウェヌス(ヴィーナス)の神殿、フォルトゥーナ(幸運の女神)の神殿、ソール(太陽)の神殿、フローラ(花の女神)の神殿、古代エジプトのイシス女神の神殿、ミネルヴァ(知恵の女神)の神殿などがあり、公共の大浴場五つ、劇場、競技場、庭園(市内に14、外に2)があり、これらローマの「観光名所」が、わたしたちの想い描く古代ローマ市です。けれども、これらの壮麗で広大な地域を除くと、現実のローマ市内は、丘と丘との狭間に集合住宅がひしめいていて、道路は狭く汚く異臭を放ち、いたるところに呪いの言葉や落書きがあり、喧嘩や酔っ払いや盗難が多かったから、皇族や貴族たちは、「狭くて汚い」ローマ市を離れて、周辺地域の庭園や農園の静かな邸宅で過ごしていました。
■ローマのユダヤ人
  前1世紀頃のユダヤ人は、エルサレムからシリアのアンティオキアにいたるパレスチナ地方を中心に、東は、ティグリスとユーフラテス川流域の新バビロニア時代の捕囚の地、西は、エフェソを中心に現在のトルコ南西部のアジア州、さらにその西では、現在のギリシア南部のコリント地域、南はアレクサンドリアを中心にエジプト、これら五つの地域が主(おも)でした。イエス様とパウロの頃のローマ帝国内のユダヤ人の総数は、およそ700万、そのうちパレスチナに200万、それ以外に住む「離散のユダヤ人」(ディアスポラ)は500万と推定されています〔大澤武男『ユダヤ人とローマ帝国』講談社現代新書(2001年)62頁〕。
  前63年に、ローマの将軍ポンペイウスによってエルサレムが占領され、パレスチナがローマの支配下に入ると、ローマ軍に逆らったユダヤ人が奴隷にされてローマへ送られます。現代のように生活のための便利な器具がない時代ですから、奴隷は自由人の生活を支えるのがその役目で、都市の総人口の半分以上、おそらく6割以上が奴隷であったと思われます。ヘロデ大王の頃(前4年)、ローマ市内にはほぼ8000人のユダヤ人が住んでいたと推定されていますから〔大澤前掲書〕、パウロの頃は、これよりもはるかに多かったでしょう。その内訳は多様で、まず戦争などで奴隷として送られた者たちがいます。「奴隷」とは言え、無知で身分の低い人たちとは限りません。むしろ知識人や様々な技能を持つ職人などもいましたから、彼らは、奴隷身分のままで、書記や職人など高度な役職についていました。それ以外に、商用でローマに住む自由人のユダヤ人もいたし、奴隷身分から自由を与えられた「解放奴隷」のユダヤ人もいました(彼らはコリントなどへ移住しました)。なお、70年のユダヤ戦争では、エルサレムが滅亡し、パレスチナで奴隷にされたユダヤ人は100万人とも60万人とも言われています。これは共観福音書が書かれた頃のことです。解放奴隷を含めて自由人のユダヤ人の中には、社会的に成功した者も多く、アジア州のエフェソの劇場には、上座にユダヤ人の座席の跡が刻まれており、サルディスには立派なユダヤ教の会堂の跡が遺っています。
■ローマ市のキリスト教徒
  ローマ人への手紙の宛先であるローマ市内のキリスト教徒の状況から始めます。ローマ市内にキリスト教がどのように伝わったのか、実は、これがはっきりしません。ペトロやパウロのような伝道者による宣教によって教会が組織的に形成された形跡がありません。おそらく、エルサレムでの聖霊降臨運動の霊的体験を受けたユダヤ人たちが、商用でローマを訪れたり、奴隷となってローマへ送られたことから、ローマのユダヤ人の間にユダヤ人キリスト教徒が生まれていったと考えられます〔Cranfield. Romans. (1)17〕。ユダヤ人キリスト教徒によってもたらされたキリスト教は、アンティオキアの場合と同様に、やがて異邦人キリスト教徒をも誕生させます。
  しかしながら、ローマでもアンティオキアと同様に、保守的なユダヤ人(ユダヤ教徒)とユダヤ人キリスト教徒との間に、おそらく異邦人キリスト教徒との食事と交わりの問題や彼らへの割礼をめぐって争いが起こったのではないかと推定されます。クラウディウス帝は、キリスト教がもとで生じたユダヤ人同士のこの争いのために、ローマ市内からユダヤ人を追放する勅令を出します(49年)。アジアのポントス出身のユダヤ人キリスト教徒アキラとその妻プリスキラも、このためにローマ市内を去ってコリントへ来て、そこでパウロと出会います(使徒言行録18章1~2節)。その後、この勅令は解かれて、ネロ皇帝の初期(54年)には、ユダヤ人もユダヤ人キリスト教徒も再びローマに入ることを許されます。ちょうどパウロがコリントの教会問題で悩んでいた頃です。  先に指摘したように、ローマの下町は過密状態で、仕切られた独立の住居は賃貸され、1階は店舗などにも使用されていました。「パウロは自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎した」(使徒言行録28章30節)とありますが、その借家は下町でも比較的広い住居で、これはおそらくキリスト教徒の家だったでしょう。ユダヤ人の中には社会的に身分のある人たちがいましたから、コリントの場合のように、比較的裕福なユダヤ人キリスト教徒か異邦人キリスト教徒の家が集まりの場として用いられていたでしょう。ユダヤ人キリスト教徒だけか、異邦人キリスト教徒だけか、両方の混合か、それぞれ家々の集会が、市内に多く散在していたと考えられます。  ユダヤ人が追放されている間に、ローマ市内では異邦人キリスト教徒が有力になったとか、逆に帰還したユダヤ人キリスト教徒のほうが有力だったとか、いろいろ説がありますが、どれも確かではありません。一つの家一つの集まりというこの形態から見ると、ローマ市内全体がまとまったキリスト教会として組織されていた形跡はありません〔Cranfield. Romans. (1)21〕。
 「家の教会」はこの当時、ローマ市内には七つほどあって、それぞれ半独立の集会と礼拝を持っており、パウロからの書簡は回されて朗読されました。エフェソの博物館に展示されている当時の比較的上流の家だと、中庭に面した広い部屋があり、そこは起立して20人ほどが収容限度ですから、ローマの場合でも一集会10~15人ほどだと思われます。ローマのクリスチャンたちは全員でも100名ほどで、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒を混ぜて、彼らの信仰は多様でした。

■ローマ人への手紙の受け手
  ローマ人への手紙16章1~15節には、この書簡の宛先の人たちと、この書簡を送る側の人たちの名前が異例の長さででてきます。パウロの挨拶の宛先は次の三つに分類できます。
 (1)ローマにいて、彼の伝道に重要な意義を持つ人たち(3~7節)。
(2)多かれ少なかれ、彼と個人的に関係のある人たち(8~13節)。
 (3)二つの家の教会(14~15節)。
 〔フェベ〕ギリシア語では「フォイベー」(女性固有名詞)。ギリシア神話「フォイボス」(男性名詞)から出た女性固有名詞です。このような神話的な名前は解放奴隷に比較的多く、彼らの主人からつけられた名前です。ここではラテン語読みで「フェベ」とあります。彼女はパウロからこの手紙を託されて、同伴者たちとローマに持参した女性です。ケンクレイアはコリントのすぐ南にあり、サロニケ湾に面した港町で、「教会の執事」とあるのは、執事職(ディアコニア)の成立を証明する最古の例であるという説もありますが、これは職責ではなく「奉仕の仕事をしていた」という意味でしょう。「援助者/奉仕者」とあるのは経済的に支えると同時に、よそから来た居留者たちの身元引受人として、面倒を見てやることです。したがって、彼女は地元の人で、かなり裕福な家の婦人であったことになります。彼女は書簡の受け手ではありませんが、冒頭に出てくるので、ここで扱います。
〔プリスカとアキラ〕ユダヤ人キリスト教徒の夫婦で、妻のプリスカが先にでているのは、彼女が信仰的により大きな働きをしていたことを表わします。彼らは、ローマでクリスチャンになり、追放されてコリントへ来てパウロと出会い(使徒18章節2~3)、パウロの第2回伝道旅行の時にパウロと共にエフェソへ渡り(徒18章18~19節)、パウロがエフェソを去った後もエフェソに残って指導していました。第3回の旅行でパウロがエフェソを訪れた時に、彼らはそこで彼を迎えています。ユダヤ人のローマ帰還が許されると、パウロに先だってローマへ帰り、エフェソと同様にローマでも家でキリスト者たちの集会を持っていたのでしょう(5節の「家の教会」はこのこと)。
 〔エパイネト〕ギリシア名の「エファイネトス」は、パウロがエフェソで伝道した際の最初の異邦人キリスト教徒(の一人?)でしょう。その集会が、後にプリスキラとアキラ夫婦に託されたために彼らの家のメンバーになったと思われます。
 〔マリア〕彼女は、手紙の受け手たちのために「労苦した」とあり、原初キリスト教会では、これは伝道への努力を表わす特定の用語です。ユダヤ人キリスト教徒か異邦人キリスト教徒か分かりません。
 〔アンドロニコとユニア〕この二人は夫婦であったと思われます。中世においても、プロテスタントにおいても、女性が使徒であるのはおかしいとして、これを「ユニアス」と男性読みにしたが、原初教会においては、女性の使徒は認められていたから「ユニア」が正しいでしょう(第一コリント9章5節参照)。「目立って」とあるのは「優れた」の意味です。彼らはパウロよりも先に使徒となった人たちで(ガラテヤ1章17節)、特にヘレニストのユダヤ人キリスト教徒として、パウロと同様に異邦人伝道に携わったと思われます。
 〔アンプリアト〕「アンブリアトゥス」(男性)という名前は、ローマではしばしば奴隷の名前として見出されます(ドミティラのカタコンベの碑文に同名の人がある)。
 〔ウルバノとスタキス〕どちらも奴隷の名前としてよく用いられますから、彼らは解放奴隷でしょう。「ウルバノス」は、パウロの同労者です。「同労者」とはパウロの伝道と説教にも従事したことを指すパウロ独自の呼び方です。
 〔アペレ〕「アペレス」はギリシア名ですが、ラテン名としても用いられます。「真のキリスト信者」とは「特に試練の中にあって、その真価をキリストにあって実証した」という意味で、パウロ自身が困難に遭った時に、パウロを裏切らず支えたことを指します。
 〔アリストブロ家〕ヘロデ大王以来のヘロデ家の人に「アリストブルス」という名前が多いようです。ヘロデ家とローマの宮廷とは親交があったから、ローマ在住のヘロデの家の者でしょうか。挨拶がないことから、彼はキリスト者ではなく、彼の家で奴隷のキリスト者たちが働いていたのでしょう。パウロはそれらの人たちの名前を(したがって個人的には)知らなかったと思われます。
〔ヘロディオン〕ユダヤ人キリスト教徒で、ヘロデ家にかかわる奴隷か自由人でしょう。 家の主人ナルキソは、アリストブロと同じで、キリスト者ではなかったと思われます。

〔トリファイナとトリフォーサ〕双子の姉妹でしょうか?彼女たちもペアで伝道において労苦しました。状況から判断して、かなり裕福な家庭の出と思われます。
 〔ペルシス〕「ペルシアの女」の意味ですが、このギリシア名は彼女が解放奴隷であることを指します。彼女はパウロの伝道を助けたことがあるのかもしれません〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(3)EKK新約聖書註解198頁〕。
 〔ルーフォス〕「選ばれたもの」とあるのは、パウロではなく神によって選ばれたという意味です。パウロは自分が選んだ場合は、通常「愛する」と言います。マルコ15章21節には、イエスの十字架を途中から背負った「アレクサンドロとルフォスの父」が出てきます。この二人は、ローマのクリスチャンたちの間でその名が知られていたのでしょう。ただし、パウロはここでその母に対して親しみをこめていますから、パウロはルフォスの母から何らかの援助を受けたと思われます。14~15節では、パウロはふたつの特定の「家の集会」の中から、それぞれまとめて名前をあげています。いずれも奴隷か解放奴隷の名前が多いようです。フレゴンは、クセノフォンの著作では犬の名前ですが、ここでは奴隷の時につけられた名前でしょう。ヘルマスは『牧羊者』の意味ですが、有名な『ヘルマスの牧羊者』の著者とは別人でしょう。フィロロゴも奴隷の名前で、ユリアはその妻でしょう。ネレウスとその姉妹はフィロロゴ夫婦の娘たちでしょうか。
 ■ローマ人への手紙の送り手

 21~23節は、パウロと共にいる人たちからの挨拶です。
 〔テモテ〕テモテにつては、パウロの「同労者」としてよく知られています。使徒言行録16章1~3節/同17章14~15節/同18章5節/同19章22節/同20章4節/第一テサロニケ3章1~8節/第一コリント4章17節/同16章10節/第二コリント1章19節などを参照してください。
 〔ヤソン〕これはヘブライ名「イェシュア」からでたギリシア名でしょう。パウロがテサロニケを最初に訪れた時に泊まった家のユダヤ人キリスト教徒です(使徒17章5~7節/同9節)。ただし、使徒言行録20章4節のテサロニケのメンバーに彼の名はでてきません。
 〔ソシパトロ〕ソシパトロは使徒言行録20章4節の「ベレア出身のソパトロ」と同一人物で、「ソーシパトロス」が正式のギリシア名です。ヤソンもソシパトロもマケドニア出身のユダヤ人キリスト教徒で、パウロの協力者としてエルサレムへの募金の仕事にも当たった者たちでしょう。
〔ルキオ〕問題はルキオのほうです。「ルキオス」のラテン名は「ルキウス」で、これを「ルーキオス」とギリシア語読みにしています。「ルキオ」は、ここ以外に、アンティオキアの教会にいたとされる「キレネ人のルキオ」(使徒言行録13章1節)だけです。パウロはここでルキオ、ヤソン、ソシパトロの3人をまとめて「わたしの同胞(のユダヤ人キリスト教徒)」としてあげていて、この3人はパウロと共にコリントからエルサレムへ募金を届ける同伴者たちです(使徒言行録20章4節参照)。アンティオキア教会にいたルキオスは「キレネ人ルキオ」ですから、彼とここのルキオとを同一視することはできません。これに対して、「ルキオス」と「ルカス」は同一人の名前だと判断することができますから、伝承的に、ここのルキオを「愛する医者ルカ」(コロサイ4章14節/フィレモン24節/第二テモテへ4章11節)と同一視する説があります〔エウセビオス『教会史』Ⅲ4〕。現在はこれを否定する説もありますが、現在でもパウロの「同労者」ルキオを「愛する医者ルカ」と同一視する説が少なくありません。医者ルカはマケドニア出身で、ルカ福音書と使徒言行録の作者です〔Francoi Bovon. Luke (1) 8-10〕〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(3)212頁参照〕。医者ルカは小アジアの人ですから、ここでのパウロの一行としてふさわしいでしょう。問題は「医者ルカ」がユダヤ人キリスト教徒ではないと考えられていることですが(コロサイ4章11節の「割礼の者」にルカは含まれていません)、「医者ルカ」がユダヤ人キリスト教徒か異邦人キリスト教徒か、確かなことは判断できません〔Cramfield. Romans. (2) 805〕。パウロはここで「わたしと同胞の(ユダヤ人)」としてルキオとヤソンとソシパトロをあげています。ただし、「わたしと同胞の」は、ルキオを除いて終わりの二人だけを指すという説もあります。
〔テルティオ〕この手紙を筆記した人がテルティオスです。彼は、ガイオの家の書記であったのかもしれません。通常「主にあって」は「挨拶する」にかかりますから、テルティオはローマのクリスチャンたちと何か関わりがあったのかもしれません。
〔ガイオ〕この名前は「パウロの同行者のマケドニアのガイオ」(使徒19章29節)、「デルベのガイオ」(使徒19章4節)などにも見られます。しかしこれらは別人で、ここでは、コリント出身でパウロから洗礼を受けたガイオ(第一コリント1章14節)のことでしょう。この名前はローマではごく普通です。古代ローマでは名前は三つがつながっていたから、このガイオは使徒言行録18章7節の「ガイオ・ティティオ・ユスト」ではないかとも言われています〔Cramfield. Romans. (2) 807〕。「教会全体が世話になっている」は、コリントでの「家の集会」が彼の家で行なわれていたのか、それともコリントを訪れる教会の人たちは、パウロ自身をも含めて、皆彼の世話になっていたのでしょう〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(3)212頁〕。コリントでの「家の集会」が彼の家で行なわれていたのかもしれません。パウロがこの書簡を書いているのもおそらく彼の家でしょう。21節ではパウロと共に移動する人たちの名があげられ、23節ではコリントに定住する人たちの名があげられています。
〔エラスト〕ここの「エラストス」は、パウロに仕えている「テモテとエラスト」(使徒言行録19章22節)、あるいはコリントにとどまったエラスト(第二テモテ4章20節)のことか疑問です。これらのエラストは、市の管理人としてコリントに定住している者ではないからです。コリントの遺跡からは、「市の管理人エラスト」という碑文が発見されています〔Cranfield. Romans.(2)807〕。エラストもガイオも、コリント市の富裕層で市の要職にあったと考えられます。「クーアルトス」についてはここだけで、エラストの兄弟でしょう。
                            
戻る