ローマ書簡の霊性(4)
福音と「宗教する人」
■はじめに
昨年(2016年)に続いて、今回は、ローマ人への手紙の内容に入ります。わたしの手元には、ドイツのケーゼマンのローマ人への手紙注解とヴィルケンズのローマ人への手紙注解(3巻もの)があります。さらに英文でクランフィールド(Cranfield)の注解(2巻もの)があり、この三つが、わたしの知る限り、現在日本で手に入る最も新しく詳細な注解です。そのほかにも、わたしの友人の市川先生のローマ人への手紙の注解(2巻もの)など、ローマ人への手紙の注解は日本語でいくらでもあります。中でも有名なのは、内村鑑三のものとバルトのものでしょう。だから、わたしはここで、本文の詳しい注解をやりません。その代わり、ローマ書簡の根源的な霊性について、わたしの思うところを率直にお話ししたいと思います。皆さんの中には、わたしの解釈に、付いてこれない方がいるかもしれません。皆さんが誰でも納得される語り方をしようと思えばできます。そのほうが無難で、わたしにとって安泰ですが、どういうわけか、それが許されない状況にあるような気がします。あえて火中の栗を拾うのは、わたしの解釈が、現在ではなく、わたしがこの世を去った将来において必要になる時が来るのではないか?そんな予感がするからです。だから、今はわたしの解釈に無理をして付いてこなくてもいいのです。ああ、そんな解釈もあるのか、ぐらいに思って聞き流してくださってけっこうです。前置きはこれくらいにして、さっそく本文に入ります。
■福音の本義
(1)神の福音は、聖書において神の預言者たちを通じて預言されてきた。
(2)それは神の御子のことで、肉によればダビデの子孫として生まれた方、
(3)聖なる霊によれば、死からの復活の御力により、御子の座に就かれた方、
(4)わたしたちの主イエス・キリストのことである。
(ローマ1章2〜4節/私訳以下同じ。)
前回、わたしは「パウロという出来事」について語りました。パウロは、福音の<出来事>をこの4行で言い尽くしています。福音の「解釈」のことではなく「出来事」のことです。ここではっきり分かるのは、パウロという出来事が、イエス様の出来事と不可分密接に結びついていることです。しかも、そのイエス様の出来事は、「旧約聖書て預言された」とあるとおり、イエス様以前のイスラエルの民と不可分です。だから、パウロは、福音をイエス様とその使徒たちだけでなく、イスラエルの預言者たちから受け継いでいます。福音の出来事のこういう連続性をここでしっかり把握しておいてください。
「肉によれば」の「肉」は、パウロでは罪性をおびた人間を表わす用語ですが、ここはそうでなく、わたしたちと同じ「人間としては」の意味です"on the human level"〔REB〕。人間は、必ずどこかの民族に属しますから、イエス様は、主ヤハウェがダビデ王朝に約束されたイスラエルの民への祝福を受け継ぐユダヤ人です。わたしが「ナザレのイエス様」と呼ぶのはこの意味です。死後の人間のことではありません。わたしたち同様、「今生きている」人間のことです。「この出来事」かどんなに大切かがこれからのテーマです。
「聖なる霊」というのはキリスト教会で言う「聖霊」よりも古い言い方ですから、イエス様の誕生も受洗の際の聖霊降臨も含めて神から注がれる御霊の働きのことです。イスラエルの神からの御霊の働きによってナザレのイエス様は「死から復活した」のです。御子の「座に就く」は「御子に定められた/任命された」ですから、御子となるべく予め定められていたこと、復活によって現実に御子の座に就かれたこと、この二つをダブらせています。英訳では、神の子と「告知された」"declared"〔NRSV〕 "proclaimed"〔REB〕と訳されていますから、御子であることが「啓示された」という意味にもなります。これで分かるように、イエス様は復活してから初めて「神の子」にされた、という意味ではありませんから注意してください〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(1)87頁〕。
引用の2行目と3行目を併せると、神の御霊という油注がれた救い主(キリスト)である「イエス・キリスト」になります。「わたしたちの」とは誰のことなのか? 実はこれが問題ですが、ナザレのイエス様が復活した神の御子であると<啓示された>人たちのことを指すのは確かです。以上が、パウロの語る福音の「出来事」です。
■福音の働き
(1)わたしは福音を恥じない。ユダヤ人を始めとしてギリシア人にも、
(2)信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからである。
(3)なぜなら神の義は福音において啓示され
(4)信仰から信仰へいたらせる。
(5)「義人は信仰によって生きる」とあるとおりに。
(6)なぜなら神の怒りは天から啓示され
(7)人間のすべての不信心と不義に臨む
(8)不義によって真理を阻(はば)もうとする者たちに。
(ローマ1章16〜18節)
パウロは、福音の出来事から、その出来事がどのように働くのかをここでまとめています。福音を「恥じない」とあるのは、自分が伝える福音が、人間ナザレのイエス様こそ神の御子キリストであるという啓示だからです。これは、人知ではとうてい理解できません。知識を誇る人からは「そんな馬鹿な」と笑われ、信心を誇る人からは「そんなとほうもないことを」とののしられても、パウロには、実際に起こった「出来事」なのです。「恥じない」のは、パウロが伝える「この」福音こそ、現実の人間存在に働きかけて、救いの出来事を実現させるほんとうの力、「神が働かれる力」(2行目)だからです。この出来事は、聖書の神を信じるユダヤ人を始め、聖書の神を全く知らないギリシア人にも、「すべての人」に及びます。だから、彼は福音を「恥じない」のです。
3行目の「神の義」とは、先にあげた御復活のイエス様のことです。イエス様の御名を呼び求めて祈ると、イエス様の御霊が、必ずその人に働きかけてくださる。「すべての<人>」ですから、「人間」でさえあれば、誰にでも絶対無条件で働いてくださる。「信じる者に救いをもたらす」とあるのは、イエス様の御名を呼び求めると、その人にイエス様が啓示される。すると「信じる者」に<なる>からです。「ああ、これはイエス様の導きで起こっている出来事だ」と分かるようになる。3〜4行目は「神の義は<信じる者に>啓示されて、信仰から信仰へいたらせる」と読むこともできます。友人の久野晉良先生はこの読みを採っていますが、構文的に見れば、このほうが自然です。イエス様の御霊の御臨在がその人に啓示されると、その人の日常に「神の義(イエス様)の出来事」が生じます。「ああ、これは主様の導きだ」と分かるのです。「信じる」とは「分かる」こと。クリスチャンの人生はこれの連続です。「信仰から信仰へいたらせる」イエス様の御霊のお働きです。いろいろな例やわたしの体験をいくらでもあげることができますが、今は骨組みだけにします。皆さんが、ご自分で体験する出来事によって肉付けしていってください。
3〜4行目と6〜7行目は、「神の義」と「神の怒り」、「信仰から信仰へ」と「不信心と不義」が並行しています。2行目の「信じる者すべて」も、7行目の「人間のすべての不信心と不義」に対応します。このように1章17節と18節は並行関係にあります〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(1)138〜141頁〕〔Cranfield. Romans. (1)107/109-110〕。
6〜7行目は3〜4行目と並行していて、どちらも「なぜなら」で始まります。「(人間の)あらゆる不信仰(不敬虔)と不義」とは、様々な理由を付けて、イエス様を神の御子として受け容れず「神の義」を拒(こば)むことです。だから、「救いをもたらす神の力」と「神の怒り」が並行します。どちらも「なぜなら」で始まりますが、この二つは、異なる二つの出来事を指すのではなく、同じ一つの出来事、福音の出来事に具わる二つの側面を指しています。「神の救いの力」と「神の怒りによる裁き」は、同じ人間に起こる表裏一体の出来事なのです〔ヴィルケンス前掲書139〜40頁〕。「十字架につけられ、復活して昇天し、再び来給うキリストを宣べ伝えるとは、人間が神の前に義とされる状態と人間の罪に向けられる神の怒りとが、どちらも同時に起こることである。福音においては、神の憐れみと神の怒りとは相互に分かち難い」〔Cranfield. Romans. (1)110〕のです。二つの出来事は、いったいどう論理的につながるのでしょう?6行目のほうは、「なぜなら/それゆえに」なのか、「しかしがら/それにもかかわらず」なのか?その両方なのか?誰にも分からない。不思議な謎のつながりが、この並行法に隠されています。この謎こそ、ローマ人への手紙全体を貫流する主題と言ってもいいです。神の義が人間の救いになる啓示と、人間の不義が神の怒りの啓示となることが、表裏一体になっている出来事、パウロはこの謎(秘義)をローマ人への手紙で語ろうとしているのです。
では次に、「並行法」とはどういうものか? パウロは、ここで「誰について」語ろうとしているのか? この二つを、「並行法」と「宗教する人」と題して説明したいと思います。
■並行法について
理論的に考えるなら、1+1=2と2=1+1とは同じだと思うかもしれません。しかし、前者は分かれているものが一つにまとまること、後者はまとまっているものがふたつに分かれることですから、
1足す1は2
2は1足す1
と並列すると、方やまとまること、方や分かれることで、正反対のことでありながら、「まとまることは分かれること」だという不思議なつながりに気がつきます。並行法とは、このように理論では説明できない謎を秘めた事態を語る手法です。この手法は、詩編や箴言だけでなく、聖書全体を通じて用いられています。並行法は仏典でも用いられていて、
色即是空(色すなわち空)
空即是色(空すなわち色)
色不異空(色は空にほかならず)
空不異色(空は色にほかならず)
(『般若心経』より)
のように、理論では説明できない不思議な消息を伝えています。パウロ書簡で、こういう説明し難い事態をよく伝えるのが、次の並行法です。 「神の義と人の不義」とが表裏一体となっていること、救いと裁きが一つであること、欧米や日本の聖書注解は、これを論理を尽くして縷々(るる)説明しますが、わたしには、これらの理論ではとうてい説明できない不思議な事態がここて語られているとしか思えません。
ラテンの教養を身につけたヒエロニムスは、旧約聖書をラテン語に訳すにあたり、ヘブライのこの並行法に手を焼いたと伝えられています。彼はこれをヘブライの「繰り返し」(repetitio)と見なして、並行法の理論的なつながりを放棄ぜざるをえませんでした。アジア生まれの霊的・宗教的な消息を西洋の論理で理解しようとしても無理だったのです。以後、欧米では、旧新約聖書が、ラテンの論理に引きつけて解釈されるようになります。
■「宗教する人」について
パウロがここで、「ユダヤ人を始めギリシア人にも、信じる者すべて」とか、「人間のすべての不信心と不義」と言う時、彼はどのような「人/人間」のことを考えているのでしょうか? コリントの町には、ギリシア人は言うまでもなく、ユダヤやローマやアジア州やエジプトから来た人など、ローマ帝国内のあらゆる種類の人たちが集まっていて、彼らは、経済活動に余念がありませんでした。けれどもパウロは、これらの人たちを「経済する人」として見ているのではありません。社会的身分で区別される「政治する人」としてでもありません。彼は、「神」あるいは「神々」との関わりにおいて「人間」(ラテン語「ホモ」)を見ているのです。唯一神を信じる人も信じない人も、神々を敬う人も無神論の人もいますが、パウロが言う「すべての人(アントロポス)」とは、<神との関わりにおける>人間全体の有り様のことです。「経済する人」や「政治する人」や「言語を語る人」など、人間(ホモ)には様々な性質が具わっています。何らかの意味で「カミ/神/神々」とかかわる人間の有り様をわたしは「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)という人類学/宗教学的な用語で呼んでいます。無神論者でも、宗教など要らないと言う科学者でも、「神など要らない信じない」というその言葉こそ、そう言う自分を信じようとしている存在であることを自ら証ししています。人はだれでも「何かを信じる」存在だからです。金の力を信奉する「偶像礼拝者」もいれば、権力にとりつかれて「神を侮(あなど)る者」もいます。しかし、人間は、自分が属する共同体を「信頼しなければ」、三度の食事はもとより片時も生きていけない存在です。「信頼」こそ宗教心の始まりですから、無神論者でも「宗教する人」であることに変わりありません。パウロは、イエス様に啓示された「神からの義」に照らされる時に見えてくるあらゆる人たちを「宗教する人」として観ているのです。
■宗教する人の破綻
では、パウロは、自分が観ている「宗教する人」をどのように観ているのでしょうか?パウロは、「神の義」によって救われる宗教する人と、「人間の不義」によって断罪される(裁かれる)宗教する人を並行関係に置きましたが、1章19節から3章20節までは、この順序を逆にして、先ず、「神の怒り」によって裁かれる「宗教する人」から始めます。
「神の義」の顕われであるイエス様の御臨在に照らし出されて初めて、パウロは、目の前に広がる「宗教する人類」の実相を洞察することができたからです。イエス様の福音に映し出される時に見えたのは、「人間の不信心と不義」が蔓延(まんえん)する様相でした。ギリシアやローマやエジプトの様々な神々を信じる人々の間に潜む悪意と、そこで行なわれている熾烈(しれつ)な争いと、「恥ずかしい欲望に身を任せる」ヘレニズムの人々の醜い姿などでした(1章24〜32節)。それだけでなく、聖書の神を信じていると誇るユダヤ人(ユダヤ教徒)さえも、その実態は聖書の教えとはほど遠く、聖書を誇りながら実際は聖書に背く偽善を行ない、このために聖書の神は、「彼らのせいで、諸国民の間で蔑(さげす)まれ汚されている」(2章24節)有様です。偉そうに聖書を説いて「人を裁く」これらのユダヤ人たちにパウロは言います。あなたたちは、他人を裁きながら自分も同じことをしているのだと(2章1節)。イエス様の光に照らされる時に、「宗教する人」としての人間の有り様が、彼らの行なう「宗教」の実態と共に、初めてパウロに見えたのです。
パウロが「すべての人に具わる不信心と不義」と言う時、一方では不信心な人がいて、もう一方ではそうでない人がいるという意味ではありません。そうではなく、すべての人は、神とのかかわりから見れば、その宗教の実態をも含めて、何らかの意味で「不信心と不義」のそしりを免れないのです。世界中に今も信じられているありとあらゆる「宗教」にもかかわらず、と言うより、まさにその「宗教」の違いを理由として、人々は憎み合い殺し合っているのが実態です。だから、1章18節の「すべての人の不義」は、3章10節の「義人は一人としていない」という聖書の引用に対応します。「宗教する人」が行なう「宗教」も、「神の怒り」の前に事実上破綻している。パウロはこのように言うのです。
ここで、「宗教する人」の「宗教」とは、今述べたように、争い憎み合う人同士に具わる「信念」のことだけではありません。現在、わたしたちの周囲には、様々な霊能宗教が渦巻いています。霊媒や占いや拝み屋による病気癒やしから、より高度な宗教性を具えた科学的神智主義、神道とも仏教ともキリスト教とも見分けの付かないほど混交した霊能体験を誇る教祖・教団まであります。日本のことだけではありません。アジアはもとより、アメリカにも、ヨーロッパにも、ハルマゲドンからハリー・ポッターやエウアンゲリオン(福音)にいたる様々な宗教的霊性を帯びたアニメが子供と若い人たちの人気を集めています。ありとあらゆる種類のこれらの「宗教する人」に対峙して、わたしたちはイエス・キリストの福音を語らなければならないのです。こういう複雑な霊的状態も、パウロが見ているヘレニズム世界と対応するところがあります。
パウロは、高度なモーセ律法を保有するユダヤ教とイエス・キリストの御霊の働きとを対比させてから、続いて、これと並行して、ヘレニズムの「神々」の世界に働いている「もろもろの霊」をも引き合いに出して、これら両方を重ね合わせて、「「自由を得させるキリストの御霊」と対比させるのです(ガラテヤ4章1〜7節と同8〜11節)。ヘレニズムの異教とユダヤ教の一神教とが混交した形態の「宗教」は、「天使礼拝」として、すでにエフェソとその周辺のアジア州に広まっていたことが、コロサイ2章16〜19節からも分かります。パウロは、これらすべての「宗教する人たち」の営みを自分が伝えようとするイエス・キリストの聖霊の働きと比較対照させるのです。
パウロの願いは、今は復活してキリスト(救い主)とされたあのナザレのイエスの霊性がわたしたち一人一人の内に働いて、イエス様の霊性を宿すことだからです(ガラテヤ4章19節)。
■現代のわたしたちのキリスト教は?
では、現代のキリスト教とその教会はどうでしょうか?神を知らない異邦人と神を知っているユダヤ人だけが不信心で不義であり、わたしたちキリスト教に属する人はそうでないのでしょうか?わたしたちはここで、どうしても自分たちのことを考えてみなければなりません。パウロが「神の怒り」と呼ぶのは、抽象的な理念ではなく、何らかの具体的なな出来事のこと、例えば飢饉、疫病、火山の噴火、大地震、圧政と迫害、戦争など、もろもろの災害や犯罪などの出来事をも指していると見るべきでしょう。それなら、20世紀の二つの世界大戦という「出来事」はどうでしょうか? これら二つの出来事は、人類への神からの怒りでなくて、なんでしょうか? 日本も参与しましたが、どちらもヨーロッパのキリスト教の先進諸国民の間で起こった戦争です。2017年現在、今話題になっているアメリカの白人至上主義は、キリスト教と無関係だとあなたは思いますか? アメリカでは、白人と黒人とが、戦争状態にあると言えるほど緊張していると聞きます。これらは「人間の不義」に向けられた神の怒りの啓示ではないのでしょうか。律法を知りながら罪を犯すなら、律法によって裁かれます(2章12節)。聖書を知りながら罪を犯せば、いっそう厳しい「神の怒り」が下ります。これに対して、内村鑑三は、『代表的日本人』という著作で、西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮などをあげました。聖書の神の律法を知らない者でも、人に自然に具わる良心によって、神の律法の命じることを行なうなら、神によって評価されるからです(2章14〜15節)。
キリスト教会は、「聖書の中に知識と真理が具体的に表わされていると信じて、闇にいる者たちへの光、愚かな者への導きだと自負して、人に教えることばかりを考える」(2章19〜20節)という過ちを犯してはいませんか。神道を悪霊だと言い、仏教を軽蔑し、異教のもろもろの宗教を裁きながら、自分たちも同じことをしていませんか(2章1節)。キリスト教を宣教する人たちにお尋ねしたい。「神道は悪霊」だ。そう言えば、神社にお参りする人がクリスチャンになると思いますか?祇園祭は悪魔の業だ。こう言えば、京都の人は悔い改めてクリスチャンになるとお思いか?そんなことを宣教をしたり、神社の壁に油を撒いて相手を侮辱しながら、日本人のクリスチャンは1%にすぎないなどと批判するキリスト教とは、いったいなんでしょうか?韓国のクリスチャンが、日本の仏教や神道を悪魔呼ばわりするなら、日本人と朝鮮人との間に平和が訪れますか?かどうか、考えてほしいのです。2016年5月27日に、オバマ大統領が広島を訪問した際に、日本側は、アメリカの最も恐れていたこと、原爆投下に対する謝罪をいっさい求めませんでした。広島はアメリカの大統領を暖かく迎えたのです。このために大統領は、広島の地から全世界に向かって核の禁止を呼びかけることができたのです。マザー・テレサは、ヒンズー教徒、イスラム教徒、仏教徒の区別なく、誰でも無条件に受け容れて介護しました。
もしもパウロが現代のキリスト教会の有様を目にしたら、「すべての人間の不信心と不義」の中に、世界のキリスト教をも含めないでしょうか? 誤解しないでいただきたいのですが、わたしは、このコイノニア会を含めて、東方正教会やカトリック教会やプロテスタント諸派を否定しているのではありません。イエス様の御霊は、あらゆる民のあらゆる「宗教する人」の霊性に潜む欠陥に対して、平等で公正な裁きとなることを指摘しているのです。その上で、裁きと表裏一体となって、イエス様からの贖いの赦しが働いて、不義にまみれた人間の「宗教」でも、あえてこれを支えて、これを変容させ、新たに復活させることで、人類の過去からのもろもろの宗教的霊性の良い面を活かしてくださる。このように説き、このように信じる教えをキリスト教会の外に居る人たちに語ってほしいのです。平等に裁くのは平等に赦されるためであり、こういう宣教に接して初めて、イエス様の十字架という「神の義」の真意が、キリスト教以外の人たちにも分かってもらえるのではないでしょうか? 現生人類の「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)が、罪にまみれている現実を理解せずに、独りよがりな「宗教」をふりかざし、自分勝手な優越感と思いこみから、「人間の不義によって神の義の真理を阻む」結果になってはならないのです。
■コメント
始めに申し上げたように、そろそろ、わたしの言うことに付いて来れない方がいるのではないでしょうか。皆さんの中にはいなくても、これを読む日本人のクリスチャンの中には、もうこれ以上付いて来れない人がいるだろうと思います。信仰は人それぞれですから、無理をして付いてこなくてもいいのです。現在は、まだ聞き流していただいてもかまいません。ただし、今後の日本の平和と、日本・韓国・中国のアジアの平和を求める時に、今わたしがお話ししていることが、とても重要だと気づかされる時、異なる宗教に対するわたしたちの姿勢が切実に問われる時、そういう時代が、これからの日本人のクリスチャンに訪れるかもしれません。わたしが生きている間には来ないでしょう。そんな時代が来なければ、それでいいのです。的外れな解釈だったと見なされればそれで済むことです。しかし、そんな時代が来てからでは、もう遅い。だから、わたしは今のうちに語っておきます。わたしの時代には来なくても、皆さんの時代、あるいは皆さんの子供の時代になって、来るかもしれません。そんな時のために、今お話ししておきます。
*2017年8月26日コイノニア夏期集会:京都:コミュニティ嵯峨野(ホテル・ビナリオ)にて。
ローマ人への手紙の霊性へ