ローマ書簡の霊性(5)
神の義と逆転の恩寵
2017年8月
■神の義による贖い
(1)ところが今や、律法とは別に、神の義が顕わされた
(2)律法と預言者たちに証しされて。
(3)この神の義は、イエス・キリストの信を通じて信じるすべての者に及ぶ。
(4)そこには何の差別もない。
(5)万(よろず)の人、罪を犯したため、神の栄光を受けられず
(6)ただ、イエス・キリストにある贖いを通じてのみ神から贈与される。
(7)神はこの方をその血によって信仰による贖いの供え物と定(さだ)めた。
(8)神の恩赦による神の義の「しるし」とするため
(9)これまでの罪への神の寛恕とするためである。
(10)これが今の時への神の義の「しるし」であり
(11)神ご自身が義となり、イエスを信じる者を義とするためである。
                  (ローマ3章21〜26節)
 この部分でパウロは、先の1章17〜18節で告げられたイエス・キリストにある「神の義の出来事」をそれが意味する内容へ踏み込んで「解釈」しています。中心となるのは5〜7行目です。核心となる「その血による贖いの供え物」は、パウロ自身の発想ではありません。この核心部分は、イエスの十字架の出来事に基づいて啓示されたことであり、旧約聖書を通じてイエスの直弟子から原初のキリスト教会へ、そしてパウロへ伝えられたものです。「神の義」が「人間の義」の源であること(『宗規要覧』11章3〜4節)、しかも「神の義」と「人間の義」とが異なることは、すでにクムランでも第二イザヤ45章25節の解釈(タルグム)でも言われていたことですから〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(1)290頁〕、パウロ独自のものではありません(マタイ6章33節を参照)。けれども、今回の箇所でパウロは、「神の義」を「血による贖いの供え物」と結びつけることで、イエスの出来事に潜む核心的な秘義を彼独自の観点から説き明かそうとするのです。
 前回の1章3〜4節や同17〜18節の場合のように、今回も並行法的な思考でつながっています。全体を通じて「神の義」が4回繰り返され、最後に、「神が義となる」と「人を義とする」で結ばれていますが、単なる繰り返しではなく、「神の義」が意味する内容が、絶対的な恩寵(赦し)として啓示されてから、その神の義の赦しが、人を現実に「義とする」よう働きかけることで締めくくられています。「神の義」に限らず、並行法においては、このように、鍵となる言葉の表わす内実が徐々に動いていくのです。
 1行目には、「神の義」と並んで「律法」が表われます。パウロはすでに、人類を最も高度な意味で「宗教する人」として特徴づける「神からの律法」に触れました(3章1節)。しかも、その律法によって「宗教する人」の乗り越えがたい不義が発覚し(5行目)、その「人の不義」によって「神の義」が明らかにされるという、論理では解きがたい不思議な関係が生じてくることになります(3章5節)。1行目の「律法とは別に」は、「神の義」がこのように「律法」と並行していることを示唆しますが、同時に、後段において「律法」が扱われることをも予期させます(特に7章)。こうして、「律法」も「神の義」も、並行しながら、それらが意味する内実が徐々に「動いて」いくのです。
 2〜3行目は、すでに1章2節や同16〜17節で告げられていることです。4〜5行目の「万人の罪」は、前回お話しした3章20節までの結論を受けています。6〜7行目で今回の核心部分に入ります。ただし、6行目は5行目と並行していることに注意してください。「神の義」はイスラエルの民に、「神の怒り」は異教の不義の民に下されるのがユダヤの伝統な思考様式ですが、ここでは、「神の義」が、「罪を犯した万人」(3章9〜18節!)に、すなわちその「不義」のゆえに「神の怒り」の対象となるべき人たちに向けられているのです〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(1)249頁〕。これこそ、パウロ独自の「神の義」の視点です。
 6行目で「イエス・キリストの贖い」が出てきます。6行目は5行目と並行しますから、「万人の罪が人間を神の栄光から閉め出すにいたった<まさにそのところで>生起する神の義」のことです〔ヴィルケンス前掲書254頁〕。だから、この贖いは、言葉を選ばずに言えば、神が人間の罪を逆用することで成し遂げた「逆転する恩寵」だと言えましょう。繰り返しますが、パウロは、イエス・キリストの福音を受けている者として語っていますから、神の義の出来事に潜む真意を理解しない人たちから見れば、「人間の不義が神の義を明らかにするのなら、人間の不義に対して怒りを発する神は正しくない」(3章5節)と、いかにも小利口な人間の言いそうな論理的批判が出てくることになります。
 ここでもう一つ大事なことを加えます。イエス・キリストの出来事は、人類全体に及ぶ歴史的な意義を有しますから、これを理解するしないにかかわらず、人それぞれの主観を超えた客観的な出来事です。その意味で、イエスの贖いは、人類全体の不義への「身代わり」だと言えましょう。では、この「身代わり」は、法廷で言う「身代わり」と全く同じでしょうか?子供が罪を犯した場合、親がそれをかばって、自分がその罪を犯したと法廷で主張して「身代わりに」罰を受けたとすれば、その子が法廷で罪に問われることはいっさいありません。今回の「贖い」は、このような法廷の用語でしょうか?律法との関係で言えば、ここには法的な意味も含まれますが、次の7行目は、それに留まらないことを証ししています。
 「イエス・キリストにある贖い」が意味することを、7行目は「イエス・キリストの血による贖いの供え物」と言い換えています。しかもそれは、「神によって定められた」出来事なのです。「贖い」(アポリュトローシス)のための「贖いの供え物」(ヒラステーリオン)とは、ヘレニズムのほんらいの用法で平たく言えば、奴隷などを「身請け/解放する」のための「宥(なだ)めの慰謝料」ということでしょうか。しかしパウロは、「ヒラステーリオン」を旧約聖書のヘブライ語「カポーレット」の七十人訳から出た純粋にヘブライ的な意味で用いています。「カポーレット」とは、幕屋あるいは神殿の至聖所に置かれた契約の箱を覆う純金の蓋のことです(出エジプト記25章17節)。だから七十人訳では「贖罪の場、純金の蓋」です。これが「贖いの座」〔新共同訳〕と訳されているのは、大祭司が、年に一度の大贖罪日に、イスラエルの民の贖罪のために、雄山羊を屠(ほふ)り、その血を契約の箱の蓋の上とその前に注ぐことで、主なる神ご自身がその場に臨在して(レビ記16章2節)、イスラエルの犯したすべての罪汚れを浄めてくださる祭儀の場だからです(レビ記16章15〜16節)。だとすれば、「イエスの血による贖いの供え物」とは、イエスの血を「贖いの供え物」として至聖所の贖いの座/場に注ぐことです。しかし、6〜7行は、イエスの血が供え物であることと、イエス・キリストご自身が「贖いの座/場」そのものであることとを区別することをせず、両方を一体と見ながら、その祭儀が神の臨在によって「定められた」とあります。だから「イエス・キリストにある贖い」と「イエスの血という贖いの供え物」と、贖いが生じる「座/場」とを区別しようとする論理的な詮索はあまり意味がないでしょう。
 それよりも大事なのは、この「贖いの供え物の場」こそ、「神の義」が<具体的にその力を発揮する>ことの「しるし」(8行目)だということです。神の義の「エンデイクシス」(しるし/証示)とは、神の義が、論理的な証明としてではなく、具体的な出来事として「生起する」ことです〔ヴィルケンス前掲書262頁〕。これが「イエスの十字架の出来事」のほんとうの意義です。旧約聖書の「贖いの座」はまさしく「十字架の予型(タイプ)」なのです〔Cranfield. Romans. (1)215〕。「贖罪を生起させるのは神御自身であり、神は、御自身をば、十字架につけられたこの方と同一視し給う」〔ヴィルケンス前掲書260頁〕のです。だから「贈与」(6行目)とは、人間がどうしてもなしえないことを、まさにその人間の場において、神が成し遂げてくださることです。
 8〜10行目では、「神の恩赦」と「神の寛恕」、「これまでの罪」と「今の時の神の義」が並行しながら対応します。ここまで来ると、1章17節に始まる「神の義」が、驚くべき深く広い意義を担う出来事であることが分かります。当たり前のことですが、「恩赦」とは、<すでに罪に定められている>人に「思いがけず」与えられるものです。無罪を主張する者や自力で脱出しようとする脱獄者には適用されません。だから、恩赦の出来事を聴かされて、「自分はもう罰せられない」のだと信じた一人一人が、牢屋から出てくることで初めて、恩赦の出来事が<実現する>ことになります。イエス・キリストにあるこの神の恩赦は、「主は、憐れみ深く恵みに富む神、慈しみとまことに満ち、幾千代に及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト記34章6節/ダニエル書9章8〜10節をも参照)とあるように、すでにイスラエルの民に予告されていました。この預言が実現したこと、これが「これまでの罪への神の寛恕(かんじょ)」(9行目)です。そして、この神の寛恕による罪への恩赦が、<現在すでに>起こっている出来事であること、それが、御子イエスの血による贖いを表わす「十字架のしるし」を信じ受け容れる者に、例外なく贈与される出来事であること、これが「今の時への神の義」が意味することです。パウロが言う「贖いの十字架」から降る「赦し」とは、「裁き」と「赦し」が同時に起こるこの出来事のことです。このことを現代の神学では、弁証法の哲学的な用語で「止揚する」(ドイツ語「アウフヘーベン」)と呼びます。
 この出来事は、神の義に与る者が、人間がこれまでできなかった脱獄不可能な「罪の牢獄」から、ようやく抜け出せることですから、神が人を現実に「義とする」ことです。同時に、人が義となることで、人を創造された神御自身が「義となる」と言うのです(11行目)。だから、宗教する人の不義を御子の血によって贖い赦し、赦しを受け容れる者を御子の姿に変容せしめることで、神が義となり人を義とするのです。これが、パウロの言う「イエス・キリストの福音」の霊的な働きです。
■福音の諸問題
 ここで、パウロが抱えている福音の諸問題を整理してみましょう。
(1)福音とは、イエス・キリストにある「出来事」です。これは、パウロ自身がダマスコ途上でのイエスとの出会で体験したことです。
(2)福音は、ユダヤ人(教徒)を含む「宗教する人」としての人類全体の「不義」に対応するもので、そこには、ユダヤ人と異邦人の区別がありません。パウロは、福音のこの働きを北パレスチナのアンティオキア教会で生じたペトロとの衝突事件を通じて明確に告白しました。
(3)福音は、モーセ律法にとらわれない「真理」として啓示されたものですが、モーセを通じてイスラエルに授与された「神の律法」と矛盾したり対立するものではありません。パウロは、このことをガラテヤの教会で生じた割礼問題を通じて明らかにしようとしました。
(4)福音は、ユダヤ人とヘレニズム世界の人たち、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒など、様々な人たちにそれぞれの仕方で対応する働きをします。パウロは、コリントの教会で生じた様々な問題を通じて、福音のこのような多様性とイエス・キリストにある一致という課題に応えなければなりませんでした。
(5)福音は、「人間の不義」に対応する「神の義」の啓示であり、イエス・キリストを通じて啓示された福音は、「人間の不義」を「裁く」(「義」と「不義」を判断し判定する/断罪する) と同時に、その裁きを通じて人間を「赦す」(不義なる者をそのままで赦し受け容れる慈愛の働きかけ)という不思議な表裏一体性を具えています。パウロは、これまでの体験を通じて、特にこの課題を面前に据えて、ローマ人への手紙を書いています。
 先の引用に続いて、ローマ3章27〜31節で、パウロは、先の3章26節の結論、イエス・キリストの福音こそ、人間に「神の義」を実現させる<ほんとうの力>(1章16節)として働くことを明らかにしようとします。それは、「人間の諸行」として働く法則/律法(英語の"law")から生じるのではなく、「信仰」の法則/律法によって初めて成就する出来事です。この問題は、パウロがガラテヤの教会問題で扱ったことです。そこからパウロは、ローマ4章で、すでにガラテヤ3章で扱ったこと、イスラエルの信仰の祖であるアブラハムこそ、わたしたちキリスト教徒のモデルであることをローマのキリスト教徒に解き明かすのです。
■アブラハムの信仰
(1)なぜなら、アブラハムやその子孫が世界を受け継ぐ約束は、
(2)律法を通じてではなく、
(3)信仰による義を通じてだからである。
(4)なぜなら、律法による者たちが相続者なら、
(5)信仰は虚(むな)しくされ、
(6)約束は反故(ほご)になってしまう。
(7)なぜなら、律法は怒りを引き起こすから、
(8)律法がなければ、違犯もありえない。
(9)それゆえ、約束は信仰による。
(10)それは恩寵に基づくもので
(11)アブラハムのすべての子孫に対して
(12)約束が確かになるためである
(13)律法による者だけにではなく
(14)アブラハムの信仰による者にも。
(15)「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおり
(16)彼はわたしたちすべての父祖である。
(17)彼はの御前で信じた
(18)神は死者たちに命を創り出し、
(19)存在しないものを存在へ呼び出すと。
       (ローマ4章13〜17節)
 現生人類(ホモ・サピエンス)がアフリカ大陸から世界へ広がるその要(かなめ)となる地域が、オリエントのパレスチナからティグリスとユーフラテス河の流域にいたる「肥沃な三角地帯」と呼ばれるところです。ティグリスとユーフラテスの河口に近い地域で、おそらく人類最初の農耕が始まります。農耕には、河を堤防で堰(せ)き止め、そこから大量の水を巨大な貯水池に引き入れ、貯水池から四方に張り巡らされた水路を通じて耕作地へ水を運びます。この大工事のためには、定住する多数の民と優れた土木技術が必要です。こうして、この地域にウルクやウルなど、シュメールの都市国家群が誕生しました。それは、巨大な神殿を中心に煉瓦造りの家々がその周囲に整然と広がる大都市で、古代ローマの都市を思わせるほどでした。神殿には、100メートル四方もある聖なる塔(ジッグラト)が建つ所もありました。現在(2017年8月)大阪で展示されているブリューゲルの「バベルの塔」(創世記11章1〜9節)は、これを当時のネーデルランドに移し替えて描いたものです。
 これらの都市は、神官たちによって支配される神殿国家で、そこに君臨するのは、神々によって「選ばれ」現人神(あらひとがみ)として崇められる王です。しかし、シュメールの都市国家は、アナトリア(現在のトルコ)から南下してきたセム系の諸部族に征服されて、アッカド王国として統一されます。その後、アッカドの王権が倒されて再びシュメールの都市が再興しますが、これもセム系の民族によって滅ぼされ、イシン・ラサル時代と呼ばれる混乱が続きます。この頃リピトイシュタル法典(前1930年)やエシュヌンナ法典が制定されます。こういう神殿政治権力の弱体化と混乱期に、権力に歯止めをかける働きをする法典ができたことは、とても重要な意味を持ちます。これらの法典は、ハンムラビ法典と成り、さらにモーセ律法へと受け継がれるからです。中国でこれに相当するのは、孔子の教えでしょうか。やがて、シュメールの政権もセム系のアモリ人によって再び統一されたのがバビロン第一王朝です(前1900年頃)。
 アブラムの父テラが、その息子たちや一族を率いてウルを出てハランへ向かったのはこの頃のことです(創世記11章31節)。アブラムはセム系の人物です。彼が、父と共にウルを出たのは前1950年頃のことです。彼の宗教はかつての遊牧民の「祖霊崇拝」ではありません。この時代、都市国家の支配階級の間では、国家~としてアダド(セム系の嵐の神)、シャマシュ(太陽神)、エア(淡水と知恵の神)などが崇められていましたが、民衆の間では、「イル/エル」(力/神の意味)、シン(月神)、イシュタル(愛と闘いの女神)など多数の神々が崇められていました。アブラハムの神「エール」は、祖霊でも国家~でもなく、当時一般的に広く信じられていた「人格~」です。ただしその人格神は、神殿都市国家における神格化された「王」のことではありません。「エル/エール」(ほんらい「力」を意味する)と呼ばれる「神」です。「エル・ロイ」(わたしを顧みる神:創世記16章13節)、「エル・シャダイ」(全能の神:創世記17章1節)、「ベート・エール」(神の家:創世記28章19節)などの「エル/エール」は、おそらく当時のセム系の民に広く信じられていた民衆の「神」でしょう。
 彼を導き出した神(エール)は、神殿都市国家の神観には見られない二つの要素を具えています。
(1)天地を創造した「万能の神」でありながら、神殿という特定の地域に限定される神ではなく、一つ所に留まらない者に啓示される神、言わば「土地を持たない」者の神であること。
(2)神とこれに従う者は、血縁関係や地縁関係で結ばれるのではなく、「契約」関係で結ばれること。これが、「アブラハムの神」の二大特徴です。神との契約関係に入ることで、彼は従来の「アブラム」から「アブラハム」へ変容します(創世記17章4〜5節)。この神による選びも契約も、自然を超えた存在としての神観も、ノア契約の~観を受け継いでいますが、アブラハムでは、それがいっそう徹底していて、人格~とは言え、人間の側から主体的に認識できる神ではなく、言わば向こうから人間に一方的に「啓示される」神です。この意味でアブラハムの神は、人間には認識できない「人知を超えた」存在として己を顕わすのです〔エリアーデ『世界宗教史』(1)194〜95頁〕。
 イサクを奉献する儀礼では、アブラハム自身の祈願も要請も一切含まれません(創世記22章1〜18節)。それはアブラハムの<理解を超えた>神からの要請に基づく供犠(くぎ)です。このように、焼き尽くす燔祭として、己を完全に引き渡すことを求める神をアブラハムは「父」と呼び、その父に己を委ねきることによって「信仰の父」と呼ばれるにいたったのです。「信仰に基づく」ことで「生存」を授与されるアブラハムとその子孫は、従来の「人知の人」(ホモ・サピエンス)である「宗教する人」から、「信仰の人」として新たな変容を遂げたと言えましょう。
 1〜3行目でパウロは、アブラハムの子イサクの誕生と子孫の繁栄への約束(創世記15章4〜6節)を踏まえています。ガラテヤ3章とローマ4章は密接に関係します。ガラテヤの教会において、ユダヤ主義的なキリスト教徒は、自分たちこそ「真正のアブラハムの子孫」だと称し、その上で、アブラハムは、異教の偶像礼拝の都市ウルから抜け出してヤハウェを信じた。そして彼はヤハウェと契約を結び(創世記17章4〜5節)、その証しとして「割礼」を行なった(同9〜11節)。だから彼は異教からの「改宗者の父」と見なされました。したがって、異邦人キリスト教徒も割礼を受けることによって、ユダヤ人と同じ「アブラハムの子孫」に加わることができると教えたのです〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(1)344〜46頁〕。
 ところがパウロは、割礼という「律法の業」を行なう<以前の>異邦人アブラムに着目するのです。イサクと子孫繁栄への神の約束は、彼がまだアブラムであった時のことです(創世記15章5〜6節)。神は、このアブラムに顕われて、イサクと子孫の約束を与えたのです。だから、これは、異邦人アブラムが、まだ何一つ律法の業を行なうことなく、したがって約束は、全く予期しない時に、神からの一方的な「選び」(召命)によって生じた出来事なのです。彼がまだアブラムであった時に「神の約束を信じて、それが彼の義と認められた」からです(ローマ4章9〜11節)。だから「律法を通じて」ではなく「信仰による」のです。
 4〜6行目での神の「約束」をめぐる「律法」と「信仰」の関係は、ガラテヤ3章15〜20節で説明されています。ただし、パウロがここで言う「律法」とは主としてモーセ律法のことです。モーセ律法は、アブラムがその信仰によって神の約束を受けた後になって授与されたものですから、神の選びによる約束の出来事は、律法の出来事とは直接かかわりがありません。
 続く7〜8行目で、「では、律法が授与されたのなんのためか?」に答えています。律法によって人間の罪性が暴かれるためであると。パウロは、ここでもガラテヤ3章21〜25節の論法を用いています。「律法」は人間の不義に対する「神の怒り」をもたらすものですから、9〜10行目でパウロは、「約束」とこれを受け容れる「信仰」こそ、「神の義」をもたらすと言うのです。これこそ、「人の業をなんら伴うことがない」恵みであり、イエスの十字架を通じて啓示された「神の愛」であり「神の恩寵」なのです(ローマ5章6〜9節)。
 11〜16行目では、2行ずつ並行しながら、アブラハムに授与された約束の意義が、世界を救う「救済史的」な視野から語られています。人類の歴史において、「選び」とは進化の過程による分岐を意味します。この意味で言えば、「選び」は、神による人類への新たな創造行為だと言えましょう。それまで存在していた生物に、全く新たな創造の力が働いて、不思議な変容が生起すること、これが人類を含む生命体における神の選びの働きなのです。アブラハムは、この神によって、律法の民と律法を持たない民、言い換えると、あらゆる種類の「宗教する人」全体の始祖と仰がれるようになると約束されたのです。それは、「死者に命を呼び出す」創造的な変容をもたらすほどの出来事です。
■「宗教する人」の新たな創造
(1)ちょうど、一人の罪過を通じて
(2)すべての人が有罪にされたように、
(3)同じく一人の義とする行為を通じて
(4)すべての人が義の命へいたることになった。
(5)ちょうど一人の人の不従順を通じて
(6)多くが罪人にされてしまうように、
(7)一人の従順によって
(8)多くが義人にされることになる。
(9)律法が入り込んで来たのは、
(10)罪過が増し加わるため。
(11)だが、罪過が増し加わったところには、
(12)恩寵がなおいっそう満ちあふれた。
(13)ちょうど、罪が死によって支配していたように、
(14)そのように恩寵も義によって支配しつつ
(15)わたしたちの主イエス・キリストを通じて永遠の命にいたる。
                 (ローマ5章18〜21節)
 5章18〜21節は、これに先立つ5章12〜17節と内容的に対応しており、同時に、後に続く6章1〜14節への導入となります。この部分は、1〜4行目、5〜8行目、9〜12行目と三組の並行する行が並び(それぞれも2行ずつ並行する4行が一組)、13〜14行目で2行連句になり、最終行で全体をしめくくる構成を採っています。
 今回の部分は、「アダムは来たるべき方への予型(タイプ)」(5章14節)とあるように、創世記のアダムとイエス・キリストが、予型と、これの成就としての対型という関係に置かれています。この部分は、パウロが、すでにコリントの教会に語ったことを踏まえています。第一コリント15章21〜22節にあるように、「罪を犯したアダムを通じてすべての人が死ぬように、キリストを通じてすべての人が生かされる」ことが、その前提になっているのです。「死が一人によって人類に及ぶのなら、死者の復活も一人によって人類に働く」からです。ただし、ここで言う「アダム」は、罪を犯したのですから、創世記3章のアダムのことです。これが「最初の人」(アダム)なら、復活したナザレのイエスは「最後の人(アダム)」です(第一コリント15章45節)。
 ヘレニズムの人たちなら、人間は霊魂と肉体から成り立つから、肉体は死んでも、人の霊魂は永遠に生き続ける、あるいは輪廻転生すると考えるでしょう。あるいは、天には理想の人間像が存在していて、肉体を具えた地上の不完全な人間はこれの模造だと言う哲学者もいるでしょう。伝統的なユダヤ人なら、律法を守らない不義の異邦人は死ぬが、律法を守る敬虔なユダヤ人は義人として復活すると信じるでしょう。
 ところが1〜4行目でパウロは、これらのどれとも異なっていて、全人類は罪人であり、身体的にも霊的にも死に支配されているという現実があり、これに対応して、一人の人間を通じて「人を義とする」力が働くこと、言い換えると、義とされる人間が現実に生まれると言うのです。では、それはどのようにして生じるのか? 5〜8行目では、一人の不従順と一人の従順が対照されています。人の知恵に頼って神の戒めを軽んじ、これを破ったアダムの不従順と、十字架の死にいたるまで、神に己を委ねきったイエス・キリストの従順がここで示されています(フィリピ2章7〜8節)。「己を空しくする」ところに生起する御復活のイエス様の御霊の不思議なお働きがここに臨在するのです。
 9〜12行目では「律法」が出てきます。しかし、ここの「律法」は、ユダヤ教徒の言うような「人に復活の命を保証する」律法のことではなく、律法によって、律法が来る以前には意識に上らなかった人間の罪性が(5章13節)、いっそう明確に暴かれる結果になります。ここで言う「律法」とは「宗教」の別名です。「宗教する人」は、もし彼がほんとうの意味で鋭い宗教性の持ち主であるのなら、己の宗教こそ、己の人間性に潜む不義を容赦なく暴くことを知っています。あらゆる種類の「宗教」は、そのレベルが高ければ高いほど、人間の罪性の恐ろしさをごまかしのきかない仕方で暴露するのです。だから、律法宗教は、自分たちこそ高度な宗教を信じていると誇るすべての人を厳しく裁き、断罪するのです。
 さらに驚くべきは、そのような容赦のない裁きと断罪が生じる、まさに<その同じ場において>、その裁きと断罪に並行して、十字架のイエスの血による贖いがその力を発揮し、人をその罪性から自由にするという不思議な事態が現実に生起することです。個人の有り様がどうのこうのというレベルの話ではない。宗教する人の「宗教」が、キリスト教か、キリスト教の何派か、何宗団か、仏教か、神道か、儒教か、ヒンズー教か、その他アジアのもろもろの諸宗教か、無神論者か、犯罪者か、「これまで」のそんな制限は、いっさいおかまいなしに、そういう宗教する人類のすべてに対して、平等に働く「信じる者へのイエス・キリストの救いの力」なのです! これが「今の時に」わたしたち宗教する人類に贈与されている。もはや、個人個人の罪の有り様などに制限されない、全人類を支配する死の力(罪性)を克服できるものすごい恩寵の働きです。イエス・キリストの十字架の贖いのこういう宇宙的な力こそ、神の怒りをもたらす重く深い罪性をも克服するのです。これが、わたしたちの世界の希望となる「主」の力です。「わたしたちの主イエス・キリスト」を通じて、人を造り替えていくことのできる神による創造の働きです。こうして「最初の人アダムは命のある生き物であるのなら、最後のアダムは<命を創造する霊>となった」(第一コリント15章45節)という出来事が生起するのです。
 だから、クリスチャンは、キリスト教以外の宗教の人たちへの偏見を捨てて、むしろ、同じ「宗教する人間」同士となり、足らざるところを主イエスの贖いの赦しに支えられて信頼と交わりを創り出して行くことができます。このような信仰を現実に実行するのが難しいのはよく分かります。しかし、日本のエクレシアの人たちは、「わたしたちの主イエス・キリスト」の導きによって、こういう姿勢で他宗教の人たちに接して、異なる宗教間での霊的な交わりを実現してほしいのです。東アジアのエクレシアに与えられているのは、このような「キリスト教」ではないでしょうか。
■キリストと共に
 それなら、「恵みが増し加わるように、罪の中に踏みとどまるべきなのか?」で始まる6章1〜14節は、5章の結末を受け継いでいます。
  「洗礼を受けてキリスト・イエスと一つにされた者は、
  だれでも、その死と一つになる洗礼を受けたことになる。」
これが、その答えです。死んだ者は罪から解放されているからです(6章7節)。パウロは一度もローマを訪れたことがないのだから、彼がローマの信徒にこのように言うことができたのは、「キリストのバプテスマに与る者は、すでにその死に与る」という教えが、原始教会で共通に行われていなければならない。この見方からすれば、「キリストのバプテスマによってその死に与る」という信仰は、パウロ独特のものではないことになりましょう〔Cranfield. Romans. (1)300〕。しかし、これに似た表現はパウロ以外どこにもないのも事実です。
 ここでの「バプテスマ 」は、単なる儀礼的な比喩ではなく、パウロにとってみれば、すでに自分に起こった「出来事」です。キリストにあって「死んだ人間が、現に生きている」(6章4節)。パウロは、今自分が体験しているこの出来事を「人が自力では絶対にできない事」、すなわり「神の言(こと)」として理解するのです。ヘレニズムの密儀教で言う「神」もまた、死んでよみがえると信じられていました。しかし、ヘレニズムの密儀が特定の選ばれた者たちへの「秘義」であったのに対して、パウロのバプテスマは、原則的に、すべての人に開かれています(使徒言行録17章30〜31節を参照)。密儀では、ちょうど座禅のように、その秘義を「悟る」ことが核心ですが、悟りは人間の修行を通じて体得しなければならず、そうでなければ、特定の者たちに限られる「秘義」は成立しません。ところが、ここでパウロの伝える「キリストの死に与るバプテスマ 」は、御言葉を「聞いて受け入れる」者なら、だれにでも現実に生じる出来事なのです。「出来事」を悟るとは、その出来事によって「悟らされる」ことであり、それ以後も「悟らされ続ける」ことです。この違いは、無時間的な宇宙論に基づく神話の神々と、歴史に啓示されたイエス・キリストの出来事による「聖霊」の働きとの違いから来るものです。
 ここでは、水と聖霊が一つにされて同時に生起することになります。もしも、水のバプテスマを受けることが、その後で、これに続く出来事として聖霊体験へつながると考えるなら、それこそ、「洗礼」に新たに「秘義的な」意義を付け加えることになりましょう。洗礼は聖霊体験へいたるための条件ではありません。受洗は、人間の知覚を超越した「神の言葉」が働くことを意味しますが、それがわたしたちの「現実となる」場合、わたしたちに内在的に働く霊の「事場(ことば)」として、これを受け止めなければならないのです。わたしたちは、神のお言葉の超在と内在の両方において「バプテスマ 」を受けとめるのです。この消息は、聖餐においても同じです。
  キリストは、ただ一度だけ
  罪に対して死んだが、
  神に対しては生きている。
  あなたがもこのことを認知しなさい
  自分はキリスト・イエスにあって
  罪に対しては死んでいるが、
  神に対しては生きていると。
        (6章10〜11節)
 これが福音の出来事の核心です。罪に対しては「死体となっている」というのは、これがわたしたちの内にすでに生じている出来事であることを確認するように求めているのです。決して、罪を自力で「排除せよ」とわたしたちに命じているのではありません。「罪に対して死ぬ」の裏には「神に対して生きる」が働くのです。十字架の贖いの出来事を通じて初めて、「生きる」ことが現在するようになるのです。ここでは、強調点が「わたしたち」個々の「自分の歩み」置かれているですから、「この世での今の」わたしたちの有り様に関わってきます。この強調点の違いは、宗教する人の変容の過程を考える場合にとても大切です。これに続いて、さらに「律法と罪からの解放」の問題が、今度は結婚の比喩として語られます。では、キリストにある「わたし」とは、いったいどのような主体なのか? この問題が、7章の罪と律法との関わりに続いて、8章で扱われることになります。
*2017年8月27日コイノニア夏期集会:京都:コミュニティ嵯峨野(ホテル・ビナリオ)にて。
              ローマ人への手紙の霊性へ