ローマ書簡の霊性(6)
罪の律法から恩寵の御霊へ
横浜聖霊キリスト教会 2018年5月13日
■聖句
今や、律法とは別に神の義が顕された。
しかも律法と預言者に証しされて。
それは、イエス・キリストの信仰による神の義で、
信じる者すべてに及ぶ。
そこには何ら差別がない。
人は皆、罪を犯す者であり、
神の栄光を受けるに足りない。
ただ神の恩寵により、値(あたい)無くして
キリスト・イエスの贖いにより義とされる。
神はこのキリストを立てて、
その血を信じる者への贖いの座とされた。
これは神が義を顕すためであり、
人が犯したこれまでの罪へ寛恕を示すためである。
神がこのように忍耐されたのは
今の時に神の義を顕すため、
御自分の義を明らかにし、
イエスを信じる者を義とするためである。
      (ローマ3章21〜26節)
一人の人間の不従順により多くの人が罪人とされた。
そのように、一人の従順により多くの人が義とされる。
律法が入り込んで来たのは、
罪が増し加わるため。
罪が増すところにこそ、
恩寵はいっそう満ちあふれた。
これは罪が死にあって支配したように、
恩寵もまた義によって支配し、
わたしたちの主イエス・キリストにより
永遠の命にいたるためである。
     (ローマ5章19〜21節)
■宗教する人
 旧新約聖書で「人」とは、神と人との関わりを視野においた「人間」のことです。人間(ホモ)には、経済する人、政治する人、言語を語る人など、様々な性質が具わっています。しかし、人間を何らかの意味で「神」あるいは「神々」との関わりにおいて見る時に、人は「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)になります。だから、神を否定する人も、神を信じない人も、無神論者も無宗教者も、総じてすべての人は、神と宗教を肯定するにせよ否定するにせよ、神との関わりにおいて見れば「宗教する人」にほかなりません。
 聖書によれば、宗教する人=人間(アダム)は、神に対して罪を犯したために、神の備えた楽園を追われた存在です。だから、この意味での「宗教する人」の「宗教」とは、人間を救うためのいわゆる「宗教」のことではありません。そうではなく、神との関わりにおいて罪を犯した「人間」であることを証しする「宗教」のことです。イスラエルの民がカナンに侵入した時に、そこに住む七つの民を抹殺せよと命じられています(申命記7章1〜5節)。七民抹消こそ、宗教する人のとるべき当然の行為だったのです。だから、宗教する人には、カインの殺人に始まる暴虐行為をも辞さない罪性が具わっています。現代のイスラム教の過激派が、自爆によって罪のない子供たちをも平然と殺す行為を「アッラー」の名において行なうのもなんら不思議ではありません。彼らの行為は「宗教」とは言えないなどと主張して、事態を「非宗教化」して見せようとするのは、現実を直視しない自己欺瞞の詭弁にすぎません。「宗教する人間」とは、かくも醜く恐ろしい存在なのです。人類は、己が抱く宗教的な理想とは裏腹に、と言うよりは、現実には、宗教的な理想を追い求める<まさにそのゆえに>、己の敵に向ける偏見と、その結果もたらされる殺戮とを引き起こしてきました。自ら信奉する宗教の理想を実行も実現もできないままに、他の宗教を攻撃することで、自己正当化によって、相互に憎悪を増幅させるという過ちを犯してきたのです。
 こういう「宗教する人」を、真理を生きる「人間」へと導くために、神は、釈迦や孔子を、第二イザヤを、そしてソクラテスなど、聖者や賢者を人類に遣わしてくださいました。
この人たちの出現は、不思議にも、紀元前6〜5世紀に集中しています。さらに近年では、ガンジーのような賢者の知恵を通じて、宗教する人間の在り方を教え諭して、警告を与えてきました。<にもかかわらず>、人類の宗教的な暴虐は一向に収まりません。
 このゆえに神は、イエス・キリストを遣わして、御子の血による贖いによって、「宗教する人」に具わる「罪」を赦し、赦すことによって変容をもたらす道を啓いてくださったのです。神は、わたしたち人類の血まみれの宗教を寛容と忍耐を持ってその罪を贖い赦してくださったのです。しかし、神の忍耐も、もはや限界にきているのではないでしょうか。わたしたちは、自分たちの「宗教」をこれ以上自己義認の道具としてはならないのです。自分たちが、「宗教する人」として、すでに破綻していることを率直に認めて、御子の血の贖いを受け容れなければならない時に来ているのです。キリスト教徒が、「異教徒」と呼んで他宗教を批判攻撃することも、宗教する人に具わる「カインのしるし」にすぎません。キリスト教徒と言えども、肉にある「宗教する人」の罪性を免れることができないからです。これを克服するためには、十字架のイエスとその御名による罪の赦し以外に、人類に啓かれた道は存在しません。これを逆に言えば、十字架のイエス・キリストの福音を、「宗教する人」の自己正当化の「もう一つの手段」としてはならないことです。イエス様が、四福音書で、当時の宗教的指導者たちに向けて、なぜあれほど激しい批判の言葉を浴びせたのか、その真意を今にして理解できます(マタイ23章)。
■逆転する恩寵
 だから、「宗教」は、もはや人類を救う善意の「宗教」ではありません。なぜなら、宗教する人間の「宗教」それ自体こそ、神の前で救いを必要とする浅ましく惨めな人間性を表わす用語にほかならないからです。今わたしは、「宗教する人」を通常の宗教学の用語ではなく、人類学の用語として用いていることになります。
 しかしわたしは、善意の「宗教」ほんらいの意義を否定するものではありません。ただ、かく言うわたし自身も、愚劣で浅ましい「宗教する人」の典型であることを身をもって知ることになりました。ところが、「宗教する人」としての己の実態を悟り、主の前に恥じてお詫びする時に、愚劣な自分をも赦して、あえて、この「宗教する」わたしをも用いてくださる主イエスの驚くべき恩寵の働きに接することができたのです。だからこそ、わたしは、「宗教する人間」の有り様に潜む根源的な矛盾を「我が事」として告発するのです。
 罪を赦す恩寵としての神の義は、ナザレのイエス様の十字架を通じて人類に啓示されました。それは人間の不義を通じて神の義が啓示され、人間の罪を通じて神の赦しが啓示され、人間の無力を通じて神から人間に与えられる力が啓示され、人間の肉の体を通して、人間に神から授与される霊のからだが啓示されることです。イエスの十字架に出逢うことで生じる人間の自己否定こそ、最大の自己肯定へ逆転する赦しの恩寵の働きです。このような言い方は、論理にこだわる人の、あるいはキリスト教の伝統的な教義にこだわる人の誤解を招きます。しかし、人間がその不義の深さを知る時に一条の光が差し、その罪性を知る時に赦しが顕れ、弱さを知る時にその強さが顕れ、肉のからだにすぎないことを悟る時に霊のからだが顕れるのです。
■罪の律法から恩寵の御霊へ
 律法が入り込んで来たのは、
 罪が増し加わるため。
 罪が増すところにこそ、
 恩寵はいっそう満ちあふれた。
     (ローマ5章20節)
 パウロは、律法こそ罪を増大させる働きをするとして、これを「罪の律法/法則」(ローマ7章23節)と呼びました。パウロは、このような律法観をイエス様の御霊によって示されました。だから彼は、「律法は霊的なもの」(同14節)だと言うのです。パウロの頃のユダヤ教を軽視するのは大きな誤りです。当時のユダヤ教は、当時の世界の諸宗教の中で、最も高度に発達した優れた宗教だったからです。だから、パウロがここで言う「律法」を最高度の「宗教」と言い換えることができましょう。パウロは、「<宗教>が入り込んできた」に続けて、「罪が増し加わる」ことを二度繰り返して、この二行を間に挟み、そこから、「恩寵はいっそう満ちあふれる」へつないでいます。イエス様の御霊に罪を示され、己の罪を深く悟るその度合いに応じて、言い換えると罪が増し加わるほどに、そこから、十字架の恩寵が、御霊のお働きとなって湧き起こるという、驚くべき逆説、逆転がここで語られているのです。
 ナザレのイエス様から発する十字架の恩寵の働きこそ、あらゆる宗教をその下に置く力となるのです。ただし、こんな思考回路でいくら説明しても、論理にこだわる人がこの出来事自体に到達することはできないでしょう。こういう時にパウロなら、ヘブライの思考様式で次のように並行法で語るでしょう。
「人の不義が神の義を顕し、
人の罪が神の赦しを明らかにし、
人の弱さが神の強さを招き、
肉の体から霊の体が創造される。
神の義は不義を知る者に顕れ、
神の赦しは己の罪を悟る者に示され、
人の強さはその弱い時に現われ、
霊の体は肉の体にすぎないと悟る時に顕れる。
神の義は人が不義を自覚する時、
赦しは罪を悟る時、
強さは弱くなる時、
霊の体は肉の体にあって、
初めて実現するからである。」
パウロのこの信仰を受け継いだヨハネ福音書は、このような律法と恩寵の相互の働きを次のように言い表わしています。
  律法はモーセによって与えられ
  恩寵の真理はイエス・キリストを通じて起こる。
              (ヨハネ1章17節)
「イエス・キリストを通じて起こる恩寵」とは、ナザレのイエス様に宿った御霊から発して、「わたしたちに働きかける真理の恩寵」のことです(ヨハネ1章14節/15章26節)。イエス様の御霊のお働きこそ、わたしたちの罪に打ち勝って、満ちあふれる力となってわたしたちの罪を覆い尽くし、「恩寵に継ぐ恩寵」(ヨハネ1章16節)となって働くからです。だから、わたしたちが願い求めるのは、すべてを御霊にお委ねして「死から命へ移される」(ヨハネ5章24節)霊境にいたることです。たとえ己の根深い罪業に直面しても、イエス様の御霊にあって無力無心にされ、逆転の恩寵から発する赦しの力によって、主様の御臨在にある平安へ引き入れられます。ダンテの『神曲』には、「地獄では、無数の罪人たちが、降る雪のように、はらはらと落ちてくる」とあります。「赦されて、赦されて行く、雪の夜。」
 これは、「霊的な死によって永遠の命にいたる」というアッシジのフランシスコの祈りに通じるものです。太陽も月も照らさず、星の輝きも見えない暗黒の殺意と憎悪の自己存在に気づかされる時こそ、臆することなく、イエスの十字架に自らの存在を重ねてください。その奥から救いの光が差すのを覚えます。この愛の働きこそ、多様の中の一致を支える根です。人間同士、互いに分かり合えなくてもいいのです。ただ一緒に居れば、それでいいのです。後は主がちゃんと執り成してくださいます。「わたしの父は、今にいたるまで働いておられる。だからわたしも、その働きかけを受け容れるままに、働く」(ヨハネ5章17節)という事態です。まことの神の御力と御栄光は、人の無力と罪性の中から、その真価を発揮して顕現するのです。
■イエスの御霊の力
 聞くところによれば、日本人のキリスト教は、「今や絶滅寸前の状態にある」そうです。そうではありません。マルコ11章22〜26節では「山を動かす」祈りの力が罪の赦しと結びついています。からし種一粒の信仰が山をも動かすのは、人間の罪のまっただ中から「赦しの絶対恩寵」を創造する神の絶大な力を悟ることから」生じるのです。世界の創造以前から定められていたイエス・キリストにある十字架の血の贖いから来る「罪過の赦し」(エフェソ1章19節)。これがもたらす絶大な力を信じて歩み続けるなら(エフェソ1章4〜10節)、日本人のエクレシアは、あらゆる隔ての障害を取り除かれて、二つのものを一つにするイエスの御霊のお働きによって(同2章14〜17節)、一人の主、一つの御霊、一つのエクレシアを目指すことができます(同4章2〜6節)。
 これは神によって世の初めより定められたご計画であり、必ず達成されます。その力は、人間の罪と弱さそれ自体を通じて、これを逆転させる<絶対恩寵>の創造の働きから来るのです。大事なのは寛容と慈愛とイエス・キリストにある平和の心です(エフェソ3章17〜19節/同4章30〜32節)。「真理はイエスにあります」(エフェソ4章21節)。人間の罪を逆手にとった神による逆転の恩寵こそ、神による勝利をもたらす創造のお働きです。これこそパウロが、ローマ書簡全体で吐露している「御霊にある恩寵」の核芯です。
 イエス・キリストにある「罪の赦し」と、和解をもたらす「逆転する恩寵」の創造する絶大な力こそ、東アジア・キリスト教圏を成立させるものです。これを成立させる神の御力の源泉は、「和解をもたらす」イエス・キリストの聖霊のお働きによって必ず達成されます。「わたしたちに宿る聖霊は、このような逆転する恩寵の創造の力であり、それは赦しの慈愛と贖いを悟る霊知」(第二テモテ1章7節〜14節)として働き続けるからです。
               ローマ人への手紙へ