ローマ書簡の霊性(7)
イスラエルへの秘義
(2018年8月25日コイノニア会夏期集会)
■ローマ11章25〜36節
      (1)
兄弟たちよ、これから述べる秘義を
あなたがたと分かち合いたい
自分たちが賢いとうぬぼれないために。
      (2)
イスラエルの一部に頑迷が生じたのは
諸民族に救いの成就が来るまでのこと
こうして全イスラエルが救われる。
次のように書いてある。
「救う者がシオンから来て、
ヤコブから不信心を取り除く。
これが、彼らとわたしとの契約である
わたしが、彼らの罪を取り除く時の。」
      (3)
ひとつには福音によってあなたがたのせいで敵とされ
ひとつには選びによって先祖のお陰で愛される。
なぜなら神の賜物と招きは取り消されないもの。
      (4)
なぜならかつてあなたがたは神に不従順であり、
今は彼らの不従順によって憐れみを受けるように、
同じく、今は彼らもあなたがたの受ける憐れみのゆえに不従順でも
彼ら自身も憐れみを受けるようになるからである。
      (5)
こうして神はすべての者を不従順の中へ閉じ込めた
すべての者を憐れむためである。
      (6)
ああ、神の富と知恵と知識の奥深さよ。
だれが、神の定めを究め尽くし、
神の道を理解し尽くせようか。
「いったいだれが主の智慧を悟るのか?
だれが主の相談相手になるのか?
だれがまず主に与えて、
その報いを勝ち得るのか?」
      (7)
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かう。
栄光、永遠に神にあれ、アーメン。
■宗教する人とは?
 今回もパウロは並行法で語っていますが、ここは、ローマ人への手紙の中でも、最も難解だと言われる部分で、人間的な論理では、とうてい理解できません。今回は、ここを七つに区切って読むことにします。
 第1部(最初の3行)では、「宗教する人」の本質が洞察されています。「宗教する人」とは、<自分が神になろうとする人間>のことです。言い換えると、自分が神のように<賢くなる>ことで、神にとって代わろうとすることです。人間とは、常に「人間を超える存在」になろうとする不思議な生き物です。現在、人類は、科学技術を用いて、いつまでも生存することを求めて競い合い、太陽系を征服することを目指して競い合っています。ところが、人間は、己の賢さのゆえに、逆に「悪い力」の罠にかかりやすく、その結果、自分の命を失い、自己の霊性を破滅させる危険をはらむのです。人間にとって、ほんとうの知恵とは、箴言の次の御言葉に要約されます。
 
知恵は巷に呼ばわり
広場で声をあげる。(箴言1章20節)
わたしの懲らしめに応えさえすれば 
見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ
わたしの言葉をあなたたちに示そう。(箴言1章23節)
心を尽くして主に信頼し、
自分の理解には頼らず
一足ごとに主を覚えよ。
そうすれば 主が、あなたの歩みを導く。
自分を知恵ある者と見なすな。
主を畏れ、悪から遠ざかれ。(箴言3章5〜7節)
*(注)「導く」は英語の"direct"のように「まっすぐにする」こと。
 
 箴言のこれらの御言葉は、イエス様の聖霊の働きに与ったクリスチャンにとって、最も大事な心得です。聖霊があなたを通じて働こうとされている時に、その導きにお委ねすることをせずに、御霊のお働きをこれ幸いと、その力を逆用して、自分で判断し自力で達成しようと図る。これが霊的傲慢の根源です。自分で図らず、黙って導かれるままに自然に行ない、自然に思い、一切を御霊の導きにお委ねする。これだけですが、これが難しい。「宗教する人」とは、神に背いて神から離れた者でありながら、その「罪を悟り悔い改める」ことができる人です。神に創られながら、神に背き、その上、神に赦されて救いに与る。こういう、実に不思議な存在です。
■イスラエルの民
 第二部(4〜11行)は、イスラエルのことです。パウロが「イスラエル」と言うのは、自分が、ヤコブを父祖とするイスラエルの民だからです。だから、わたしたちから見れば、「ユダヤ人(ユダヤ教徒)」のことです。皆さんは、こう思っていませんか? イスラエルは、その律法主義の宗教のゆえに、イエス様の十字架の福音を信じることができず、救いから漏れてしまった。これに対して、わたしたちクリスチャンは、イスラエルの民ではないけれども、イエス様の十字架の福音を受け容れたから、救いの恵みに与ることができた。だから、ユダヤ人の宗教は誤りで、わたしたちのキリスト教のほうが正しい。こう思ってはいませんか?
 この箇所でパウロは、そういう「うぬぼれ」を厳しく批判しています。パウロは言います。「あなたたちは、以下の三つの点で大変な誤りを犯している」と。
(1)「イスラエル」とは、少しニュアンスは違いますが、現在わたしが言う「ユダヤ人」あるいは「ユダヤ教徒」のことです。ユダヤの宗教が律法を最も重視していたのは、そのとおりです。なぜなら、モーセ律法を中心とするイエス様の頃のユダヤ教は、その倫理的な高さにおいて、唯一神教を唱える神観において、神との交わりを求める信仰において、当時の世界の最高峰に位置していたからです。ユダヤ教徒こそ、人類が到達し得た最高度の「宗教する人」だったのです。
(2)神は、救いに漏れたかに見えるユダヤ教徒を決して見棄ててはおられません。「一部」とあるのは「一時的には」の意味でもあります。それだから、ユダヤ人は、再び神への正しい信仰を取り戻し、神の恵みに与る時が必ず来るのです。こうして、イスラエルの民全体が、その罪を取り除かれ、聖なる神の民とされる日が必ず訪れる。こうパウロは言うのです。
(3)したがって、パウロによれば、最終的には、異邦人もイスラエルの民も、全世界の救いが、イスラエルから顕れる「救い主」によって達成されるのです。これは、パウロよりはるか以前のイザヤ書59章19〜21節(七十人訳)で預言されていたことです。「救い主」とあるのはイエス・キリストのことですから、ヨハネ福音書の「救いはユダヤ人から出る」(4章22〜24節)も同じことを告げています。
 だから、イスラエルの民は、今も昔も、変わることなく、一貫して、人類における最も高度な「宗教する人」です。「宗教する人」に具わる善と悪の両面を彼らほどみごとに体現している民族はいません。ユダヤ人の宗教こそ、人類のもろもろの宗教が到達できなかったほどの最高度の霊性を保持しているからです。最高度に宗教する人でありながら、彼らの宗教的な偉大さは、人間としての宗教的能力や霊能からくるものでは<なかった>。そうではなく、荒れ野でモーセ律法を通じ神が彼らに与えた「啓示に基づく」ものだった。残念ながらイスラエルは、「このこと」を忘れたのです。宗教する人が立つのも倒れるのも、自分に具わる宗教性ではなく、彼を支える神御自身にかかっていることを彼らは忘れたのです。これが、「宗教する人」としてのイスラエルの罪です。
■「宗教する」ユダヤ人
 私訳の12行〜18行には、驚くべきことが語られています。これを二つに分けて見ていくことにします。
 第3部(12〜14行)の3行では、イスラエルに向けられた「福音」と「選び」とが対比され、神への「敵対」と神から「愛される」が対比され、「あなたがた異邦人のせいで」と「イスラエルの先祖のお陰」とが対比され、これらの対比が、イスラエルへの「神の賜物と召し」で結ばれます。
 「福音」とは、誕生から復活にいたるナザレのイエス様の出来事のことです。この出来事が証しするのは、「いまだ神を知らない不信心な者」さえも、無条件で、憐れみで赦して、救いに導き、これを義とするイエス・キリストの十字架の贖いの働きです(ローマ5章)。ところが、ユダヤ教徒は、「あなたがた」異邦の諸民族に向けて己の宗教を誇るあまり、このイエス様の出来事を受け容れませんでした。その結果、ユダヤ人の中の多数の者が、「神に敵する者」になったのです。最高度の宗教する人が、他の宗教する人に向けて自己の宗教性を誇り、他の宗教する人を見下した結果、「神に捨てられる」という転落を味わう羽目になったのです。
 では、ユダヤ人に先祖から与えられていた「神からの啓示」は、無効になったのでしょうか? そうではない、とパウロは言います。アブラハム以来、イスラエルに与えられた神からの契約は、「一時的には」宗教する人の自己欺瞞のゆえに無効になったように見えるかもしれません。しかも、彼らの不従順の罪がもたらした結果として、今度は、異邦の諸民族のほうに救いがもたらされるという出来事が生じたのです。ところが、わたしたち異邦人キリスト教徒が信じている新約聖書は、「イスラエルの残りの者」と言われる、ユダヤ人キリスト教徒たちによって書かれたものなのです。何とも皮肉で、何とも不思議な神のご計画です。しかし、もしも異邦人のわたしたちが、ユダヤ人は神に捨てられたといい気になるなら、とんでもない間違いです。神は、イエス・キリストを通じて彼らの罪を赦し、ユダヤ人を再びイスラエルの民として召命し、先祖に約束された救いの賜物を顕してくださるからです。1946年のイスラエルの建国以来、この出来事は今も進行しつつあります。
 何とも不思議なイスラエル民族の歴史です。イスラエルの民は、人類が、「宗教する人」としてたどる歴史を啓示する「神からの特使」だと言えます。「宗教する人」の罪とその救いとその歴史を、わたしたちはイスラエルの民に見出すことができます。このように、イスラエルは、一時は、神に見捨てられたように見えるけれども、神の契約を受け継ぐことによって、神からその正しさを立証されるのです。外目には一時的に神に捨てられたかに見えながら、実は、神によってその正しさが立証される。こういう出来事を「神の証義 "vindication"」と言います。
■不従順と憐れみ
 第四部と第五部を併せた15〜20行では、「不従順」が4回、「憐れみ」が4回繰り返されています。では、第四部(15〜18行)に入ります。ここでは、アブラハムを先祖とするユダヤ人には、神への従順の時代に続いて、イエス・キリストの福音を拒んだゆえに、神への不従順の時代が訪れます。ところが、ユダヤ人の不従順を契機にして、今度は異邦人のほうに、神の憐れみによる従順の時代が訪れるのです。ローマ11章15節にあるとおり、ユダヤ人が捨てられることが、神と異邦人との和解につながり、異邦人が神に受け入れられて、死者から復活するのですから、ユダヤ人は、異邦人にとって、まさに「犠牲の小羊であるキリスト」になります。この意味で言えば、十字架のイエス様は、やはり「ユダヤ人」です。
 続く後半は、「同じく、今はユダヤ人も、あなたがたの受ける憐れみのゆえに不従順でも、彼ら自身も憐れみを受けるようになる」ですが、これには、<あなたがたの受ける憐れみのゆえに>のかかり方をめぐって、もう一つの読み方があります。「同じく、今は彼らが不従順でも、<あなたがたの受ける憐れみのゆえに>、彼ら自身も憐れみを受けるようになる」という読みです〔Cranfield. Romans. (2)585〕。これだと、歴史はさらに反転して、今度は、ユダヤ人には、長い不従順の時代に続く憐れみの時が訪れますが、なんと、それが、異邦人への憐れみを契機にして、ユダヤ人への憐れみの時が訪れると言うのです〔ヴィルケンス『ローマ人への手紙』(2)363頁〕。
 このように見ると、「宗教する人」の最高位にあったユダヤ人が、神の憐れみからはずされて罪人となり、代わって、罪人であった異邦の諸民族が、神の憐れみによって救われ、その同じ神の憐れみが、今度はユダヤ人をも救いに導くのです。だから、「罪人への神の憐れみによる義認こそ救済史の法則」〔ヴィルケンス前掲書369頁〕なのです。宗教する人類すべては、高度な宗教する人から低次の宗教する人にいたるまで、ドングリの背比べで、全く同様に「罪人」であり、同じように、神の憐れみを受けることで初めて、救われるのです。
■「宗教する人」の罪と救い
 第五部(19〜20行目)へ入ります。宗教する人としてのキリスト教徒は、救われて優位に立つ者であるが、仏教徒や神道やその他の宗教する人は、いまだに低次の存在である。だから、1%のクリスチャンしかいない日本人にイエス様を宣べ伝えて、異教徒を悔い改めに導かなければならない。今わたしたちは、このように考えてはいませんか? もしもそうなら、今聴いたパウロの言葉をもう一度噛みしめるべきです。「宗教する人」としての人類は、カトリックのキリスト教徒でも、プロテスタントのキリスト教徒でも、仏教徒でも、儒教徒でも、ヒンズー教徒でも、イスラム教徒でも、神道でも、全く同じに「神の憐れみを必要とする」罪人だからです。宗教する人は、何教の信者であれ、自分が偉いと思い上がるなら、まさにそのゆえに、神の憐れみからはずされて、罪人へと転落するのです。この点では、クリスチャンも例外ではありません。新約聖書、とりわけパウロ系書簡では、「選民」意識という誤りとうぬぼれに対して厳しい警告が発せられているのです。しかし、「今度こそは自分たちが神からの契約の後継者となるのだ」という傲慢から来る過ちに西欧のキリスト教は気づいていない。ハイデガーは、こう指摘しています。
 だから、わたしたちがイエス様の十字架の福音を伝えるとすれば、自分が憐れみを受けた罪人だからであり、この意味で、他の宗教の人たちも、自分と全く同じ憐れみを必要とする人間だからです。この「憐れみ」の御業は、人類の歴史において、神の恩寵だけが実現できる創造の出来事です。わたしたち宗教する人が、自力でやろうとして、やれることではありません。福音を伝えるとは、「赦されて、人が演じる主の御業」にすぎません。日本人だけでなく、様々な宗教を信じている韓国人にも、中国人にも、どうか、このことを肝に銘じて、イエス様の福音を悟るように助言してください。
■神の秘義
 第六に入ります。こういう「宗教する人」を救おうと、神は、その「秘義」を啓示されました。これは、ダニエル書2章24〜30節の「秘義」へさかのぼります。ダニエルは、バビロンの王が、誰にも明かすことをせず、人知れず心に抱えている「謎それ自体」を言い当てたのです。謎に包まれた神の秘義それ自体を知る者だけが、これを解くことができるからです。これこそ、知恵の御子イエス様が成し遂げた業ですから、真の知恵者とは、神様がなさる御業の不思議をあれこれ推測して、さも分かったように述べ立てる人のことではありません。そうではなく、神御自身が抱えておられる謎/神秘、それがどういうものかを洞察できる人のことです。これは、人間が理解しようとしてできることではありません。神様からその人に啓示されて初めて、悟ることができるからです。御子イエス様だけに啓示された智慧なのです。
 この秘義は、宗教する人をして、「その賢さによって神に取って代わろう」と仕向けるものではありません。「自己の賢さの限界を知って神に従う」ように仕向けるものです。イエス様の福音は、賢さを誇る宗教する人から、頭を垂れる宗教する人へ人間を変容させるのです。「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」です。神に取って代わろうとする自分の性(さが)を悔い改めて、神に従う宗教する人へ進化するために秘義が啓示されたのです。
 第七に入ります。では、イエス様に啓示された秘義とはなんでしょうか? パウロを始めパウロ系書簡は、その秘義が「神の御子イエス・キリストの十字架の贖い」に発することを伝えています。これは、わたしたち人類をも含む宇宙規模の広がりを帯びています。だから、わたしはこれを万有引力との類比で、人類と宇宙に働く「万有和解力」と呼ぶのです。
 
わたしたちには、唯一の神、父がおられ、
万物はここから発し、わたしたちはこの方へ向かう。
また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、
万物はこの方により、わたしたちもこの主によって存在する。
                (第一コリント8章6節)
あなたたちは、罪過と罪によって死んだ者として
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、
不従順な者たちの内に今も働く霊に従い歩んでいた。
わたしたちも皆、かつてこういう者たちの中にあって、
自分の肉の欲望のまま、体の欲求するままを行ない
他の者たち同様、生まれながらの怒りの子であった。
しかし、憐れみに富む神は、
わたしたちをこの上なく愛するその愛のゆえに、
罪過によって死んでいたわたしたちをも
キリストと共に活かして、
―あなたたちが救われたのは恵みによる―
キリスト・イエスによって共に活かし
共に天上の座に着かせてくださった。
これは神が、来るべき世世に顕すためである
キリスト・イエスにあるわたしたちへの限りなく豊かな恩寵を。
                 (エフェソ4章2〜7節)
 わたしたちは、ここに、宗教する人類を導く神の深い秘義を読み取ることができます。その秘義の深さは、神の臨在がわたしたちから超越的に隔たっているという意味で、「隠されている」のではありません。そうではなく、神は、その歴史のうちに働く行為において、その「憐れみと選び」の不思議において、わたしたちから隠されているのです。
                 ローマ書簡の霊性へ