ローマ書簡の霊性(8)
エクレシアの霊性
(2018年8月26日コイノニア会夏期集会)
ローマ13章1〜5節
人はすべて、主権を持つ諸権能に従属している。
なぜなら神の下にない諸権能はなく
現存するものは、神の下に任命されているからである。
したがって、諸権能に逆らう者は、神の制定に逆らうから、
反抗者たちは自分の身に裁きを招くことになる。
実際、支配者たちは、善行にではなく、悪行のほうに脅威となる。
だからあなたがたが支配者を恐れないことを願うなら、
善を行いなさい。そうすれば、彼から賞賛を受けるだろう。
なぜなら彼は、あなたの善を支えるために神に仕える者であり、
悪を行う場合には恐れとなるからである。
彼は、いたずらに剣を帯びているのではない。
神に委託された執行者として、
犯罪を犯す者に怒りを報いるためである。
だから、彼に従う必要があるのは
怒りのためだけでなく、良心のためでもある。
*「諸権能」:天使の霊的な働きをも含む。
■日本国憲法の本質
20世紀の半ば、日本が米英との太平洋戦争に敗れると(1945年)、アメリカ占領軍の司令官マッカーサーは、日本の占領を無事に成功させ、これを手土産にアメリカの大統領選挙に臨むことを考えていました。彼は、アメリカのピューリタンたちを招いて、日本国憲法の草案を作らせます。実は、任務を与えられたピューリタンたちは、マッカーサーの意図よりも、むしろ、彼ら自身の神学的な意図を実現しようとする「ピューリタン理想主義者」たちでした。だから彼らは、未だアメリカでも実現されていないほどの理想国家を目指す憲法を自由に作ることができたのです。これが可能だったのは、連合国に完敗した敗戦直後の日本では、天皇制から財閥解体や農地改革など、すべてが変革可能な状態におかれていたからです。彼らは、ピューリタン的な理想に基づいて、かつて地上に存在したことのない「平和国家」を目指す憲法案を作成し、これをマッカーサーに上申したのです。それは政治的な憲法と言うよりも、神学的な意図に基づくものであり、しかも彼らの目指す平和憲法は、天皇を戦争責任から回避させるという思惑も兼ねていましたから、日本だけでなく、全世界に向けて「新しい日本」の有り様を提示するねらいもこめられていました。
アメリカは戦後の世界全体をどのような基本理念によって秩序づけようとしているのか?平和憲法の草案を作成したアメリカ人の真意は、日本の占領政策を通じて、この理念を世界に提示するための重要な実例だったのです。「自由と民主主義の国アメリカ」、このピューリタン的な理想こそ、戦後一貫してアメリカが世界政策の基本理念として唱え続けてきたことです。その事情は今でも変わりません。日本の占領政策と平和憲法は、アメリカにとって、このような理想国家の理念形成への出発点だった言えます。戦後のアメリカの世界政策は、この視点に沿って形成されてきました。日本では、この憲法が日本を無力化するための「押しつけ」だという見方をする人が多いようですが、これは、その時に起こった「出来事」の実際の歴史的な意義を日本人の民族主義的な狭い視野から見たやや感情的な見解です。
驚くべきことに、この憲法を日本人はそのまま受け容れたのです。日本の国の内外の犠牲があまりにも大きく、その犠牲があまりにもひどかったからです。戦争で死んでいった多くの若者たちは、自分たちの死が、将来戦争のない平和な日本をもたらすことを信じて逝った。このことを生き残った日本人が心に刻んでいたからです。だから、日本人は、人類の生存をかけた宗教的な悲願として、この憲法を守り通してきました。草案は、主としてアメリカ側によるものですが、これを実現しようと守り抜いてきたのは日本人です。アメリカにとって皮肉なことに、これには、日本が世界で唯一の被爆国になったことが大きく作用しています。戦争の犠牲者への追悼と、原爆の被災者の叫びと、歴史が授与した平和憲法、この三つが、戦後日本の国家理念の支柱となります。
しかし、ようやく訪れた平和国家日本にも、戦前・戦中の指導層の中には、敗北と多大な犠牲者への反省よりも、アメリカに対する恨みを抱き、日本の戦争の正当性を主張し続け、与えられた平和憲法を「屈辱」だと受けとめる人たちがいました。人類への指針となる平和国家日本よりも、人類に君臨する戦争のできる国家を目指そう。こう考える人たちがいぜんとして残っていたのです。ところが、不思議なことに、この憲法の下で、日本は空前の経済発展を遂げます。それだけでなく、世界における日本の評価をかつてなかったほどに高める結果になったのです。だから、アメリカとソ連との冷戦が終結した時に、アメリカの新聞はこう書きました。「アメリカとソ連との冷戦は終わった。勝ったのは日本である。」 しかし、2018年の現在、戦後のこういう事情が変わりつつあります。神のお働きによってようやく成就したかに見える御国の理想を体現する国家像も、それが「成就した」と思われるその時から、裏切りと権勢欲が生み出す破壊の種を宿す、ということが歴史で繰り返されてきました。
■日本の平和憲法の特徴
ピューリタン的なキリスト教の理念に基づくこの平和憲法は、以下の三つの特徴を具えています。
(1)この憲法は、モーセ律法のように、神聖で犯してはならない<宗教的な性格>を帯びていることです。明治憲法は、神聖で変更不可能という意味で「不磨の大典」と呼ばれました。これは天皇が現人神(あらひとがみ)であるという前提に立つ法ですから、「法典」と言うよりも、モーセ律法のように、神聖な「律法」だったからです。平和憲法は、この現人神の「不磨の大典」という憲法理念を「絶対平和への誓い」として再生し直したものです。だから、平和憲法もまた、不磨の大典であり、単なる法律ではなく、宗教的な律法だと考えることができます。世界の国々では、憲法は、随時変えればよいと考えられています。ところが日本人は、この70年間、終始一貫、憲法を守り通してきのです。そこには、明治以来の日本固有の憲法理念があるからです。だから、戦後の日本は、イスラエルのモーセ律法と同じように、憲法の変更ではなく、これの解釈によって、現実問題を解決してきたのです。
(2)この憲法は、モーセ律法のように、これを与えられた民によって、絶えず覚えられ、かつこれを実現するために<努力する歩み>が求められていることです。これは、現在の平和憲法の宗教性からすれば、当然のことです。日本の平和憲法は、今や、名実共に、人類の平和憲法になっています。だから、日本人自体も、これを最終目標として、他国と同様に努力して歩まなければならないのです。平和憲法は、人類に与えられた、神からの律法だからです。
(3)このような憲法理念は、人間の力を超えた歴史を導く神の御手によって初めて、実現し成就されるという<終末的な性格>を帯びています。イエス様の福音をご存知の皆さんなら分かると思いますが、キリスト教が理想とする「神の国」は、現在この世にあって進行中ですが、今のこの世において、完全に実現することはありません。わたしたちクリスチャンは、神の国の到来を目指して、これの実現を待ち望みつつ、絶えず祈り、御国を「追求する」ように促されています。平和憲法もまた、終末的な性格を持つものですから、たとえ現在において完全に実現できなくても、国と人類の未来に向けて、これを終末的に追求しなければなりません。憲法に、すべての個人はその「幸福を<追求する>権利を有する」とある「追求」とは、まさにこの意味です。
2018年8月現在、安倍内閣は、平和憲法を変えようとしています。もしも憲法が変われば、現在の日本の平和憲法は、その意義を失ってしまうのでしょうか? 戦後70年の間、日本は、平和憲法の理想を曲がりなりも実現するという奇跡に近い不思議に恵まれてきました。これによって日本は、世界経済の頂点に立つほどの繁栄を受領することができました。今や、この恵みの奇跡の時代が終わろうとしています。けれども、「平和憲法と核廃絶」という二つの理念とその真理は、価値を失うどころか、今こそ、これの世界的な実現を宗教的な目標として「終末化」し、これの実現を追求することはが求められているのです。「平和憲法と核廃絶」、この二つは、日本だけでなく、全世界共通の理念としてこれからも変わることなく生き続けるでしょう。人類の自由と平和は、終末の御国の到来において初めて実現します。それまで、日本の平和憲法は、人類への導きの星として、人類に受け継がれていくでしょう。
■平和憲法の問題点
神の国の福音と同じように、ピューリタンの神学では、終末的な理想へ向かう追求と、この世の現実の実態との間には、大きな溝が広がっています。だから、理想と現実との間には、絶えず緊張関係が潜んでいます。この緊張のもたらす領域の中で、どのような選択をするのか? これが、宗教する人類が常に問われてくる課題になります。理想と現実との狭間に広がる広大な選択の領域、この領域の中にあって、選択を迫られるのは、国家とか、人類とか、会社とか、団体とかの組織や集団ではありません。ほんとうの選択は、組織にせよ、集団にせよ、これを形成する一人一人の個人に向けられるからです。「ナチスの残虐行為」などと呼ばれるものは、現実にはどこにも存在しません。現実に存在したのは、無数の個人個人、「アイヒマンの行なった」残酷な行為です。彼は言いました。「わたしは、ただ命じられたとおりに行なった。だから責任はナチスにある」と。しかし、ナチスという名前の人は、現実の裁判には姿を表わさないのです。理想と現実との狭間に広がる選択領域の中で、その時その場で、実際に選択し行為するのは、個人なのです。わたしたちは、ここで初めて、「個人の自由」という課題に突き当たることになります。
■個人の自由
「基本的人権と個人の自由」、これも現在の平和憲法の柱となる大事な理念です。他者から切り離された「個人」(インディヴィデュアル)が、イエス様にある自己の人格的な自由を行使するのが、ピューリタン個人主義の自由の本質です。「個人の幸福追求の権利」とは、まさに個人の終末的な追求を指すものです。理想と現実との緊張関係の領域における「個人の選択の自由」、今回の後半にでてくるローマ13章8節以下の主題が、これです。
理想と現実の狭間に広がる「個人の選択の自由」の実例を、アメリカの銃規制の問題に置き換えてみましょう。アメリカの銃規制は、まさに個人主義的な自由の様相を呈しています。銃のないアメリカは、安全で平和な理想の社会です。ところが、アメリカには、西部開拓の時代から、銃は、個人の安全を守るための大事な武器だという思想が根強く残っています。この結果、アメリカ社会では、銃を持たない者は、銃を持つ殺人鬼に抵抗できないのが現実です。銃を持つ自由と銃を持たない自由、どちらも保証されているのが、アメリカだからです。銃を規制するのは個人の自由を規制することです。「自由」とは恐ろしい矛盾を孕むことなのが分かります。アメリカの高校生たちは、銃規制を求めてトランプに訴えています。ところが、トランプは、学校の教師にも銃を持たせてはどうか、と提案して人々を驚かせました。彼がこういう事を堂々と主張できるのは、銃を持つ個人の自由が認められていることだけではありません。アメリカでは、個人が、自分の思ったことを主張する発言の自由もまた公認されているからです。アメリカの銃規制の問題は、ピューリタン国家の終末的な理想と、現在の現実との間に存在する「個人の選択の自由」の領域が、どれほど広いかを見せてくれる実例です。
この選択領域の中では、国家権力と言えども、必ずしも悪とは限りません。先に見たように、パウロは、時の政治権力を持つローマ帝国の支配に全幅の信頼をおいていました。しかも、ローマ帝国の支配は、ローマの神々を信じる異教徒の皇帝の権威に基づくものでした。いったい、なぜでしょうか?
ここで大事なのは、パウロは、まだ会ったことがローマにいる信徒たちに宛てて語っていることです。だから、彼は、個々の具体的な場合を念頭に置いているのではなく、<一般論として>、エクレシアとこの世の権力との関わりを述べているのです。しかも、その一般論は、現在パウロが置かれている状況、自分がこれまで体験してきたローマ帝国の権威・権力の有り様とかかわっています。パウロは、帝国の権力が、<主イエスの御霊の導きにあって>自分の益になるように働いていることを感じとっていたのです。
■人との出会い
わたしたちクリスチャンは、病気の時には医者と出会い、学校では教師と出会い、物を買う場合には、売る相手と出会います。その場合に、相手が信用できるかどうか? これをわたしたちは、<自分で相手を見て>判断しますか?それとも、主様がこの人と引き合わせてくださった。こう思い、こう考えて、その人と接しますか?人との出会いは、一般論ではない。具体的な個々の出来事です。その時、その場での、その人との出会いです。そういう具体的な出来事の中で、主様が自分を導いていてくださる。こう信じて、相手と接するなら、相手に自分の心が伝わります。その場合、相手を信用するのは、あなたが自分で判断したからではない。主様を信じているからです。相手への信頼の根拠は、自分自身の相手に対する判断によるのではなく、神の導きを信じるイエス様への信託から生じているのです。パウロは、自分の具体的な出来事を通じて、ローマ帝国への信頼を保ってきました。その信頼は、皇帝の神々への信頼からく来るものではありません。パウロの主イエス様から来るものなのです。パウロは、自分のこれまでの信仰に立って、<一般論として>、こういう信頼の有り様をローマにいる信徒たちに語っているのです。
わたしたちは、親は子供を愛する。教師は生徒を愛する。警察は犯罪を取り締まる。商売人は、信頼できる善い商品を売ってくれる。レストランでは、健康を害するものではなく、健康によい食べ物を出してくれる。こう想い、こう信じて、日常生活を送っています。「宗教する人」は、信頼し合うことで共同体を形成するからです。逆に、他国の人、異質な人、共同体に敵対する人に対しては、不信の目を向けます。現在の日本は、わたしたちにとって、とても善い国です。互いに信頼できるからです。現在、京都にも大阪にも、世界中から観光客が訪れているのは、今の日本が、信頼できる善い国だからです。だから、今の日本には、パウロの一般論があてはまります。
しかし、と皆さんは考えます。はたして、ほんとうにそんなに善いのか? 親は子供を見棄てるし、教師は生徒に暴力を振るうし、警察はヤクザとつるんで犯罪に荷担するし、注意しないと、レストランでは、体によくない薬品入りの食べ物が出される。一般論は理想論であって、現実には、そういう悪い例がいくらでも起こる。皆さんは、今こう考えています。神を信じ、イエス様を信じるところに生じる理想論と、正反対の現実の場合との狭間で、わたしたちはどうすればよいのか?これが問われてくるのです。
■21世紀へ向けて
これまでは、平和憲法のお陰で、わたしたちクリスチャンは、国家権力と、個人の信仰の自由との間に、それほど矛盾を覚えることがありませんでした。この意味で、わたしたちは、ローマ人への手紙でパウロが言うように、平和憲法の下にある国家権力は、曲がりなりにも、わたしたちの自由と人権を守ってくれるのだから、これに服従しなさいと言うことができました。しかし、わたしたちの孫やひ孫の21世紀はどうでしょうか? 昭和が動乱の時期だったとすれば、平成は穏やかで平和な時代でした。しかし、これからは「混迷の時代」が訪れるでしょう。もはや、アメリカはモデルにならないし、欧米のキリスト教国も、アジアの仏教国や儒教国も、アラブのイスラム国も、インドのヒンズー教国も、これからの日本人のモデルにはならない。こう言う時代が来ることが予想されます。
自民党を軸にするこれからの日本の政治権力が、どのような方向へ動くのか、だれも予想できません。現在、SNSを通じて、一方的な偏見に満ちた偽りのデマがはびこり、これを意図的に悪用することで、自分たちの権勢を維持しようする悪徳の政治家たちが権力を握ろうとさえしています。もしも、そうなれば、エクレシアの御国の福音が目指す方向と、この世の権力が意図する方向との間に、緊張関係が強まり、その緊張関係をめぐる個々のクリスチャンの選択の領域の幅が、それだけ広まることになります。エクレシアは、<一致団結して>、この世の悪と戦うべきでしょうか? それとも、エクレシアを形成するメンバーの個人の自由を最大限に発揮すべきでしょうか? わたしたちは、ようやく、この世におけるエクレシアと、これを形成するわたしたち日本人の個人の自由を語ることができる段階に来ました。ここで、パウロの言葉を聴き取りたいと思います。
■エクレシアと個人の自由
今回パウロは、ローマにいるクリスチャンたち、すなわち<イエス様のエクレシアの人たち>に向けて語っています。パウロは、今回、「エクレシアとこの世との関わり方」を採りあげて、ここで三つのことを指摘しています。
だれもだれに対しても借りを残してはならない。
ただし、互いに愛し合うことだけは別である。
他者を愛する者は、律法を全うする者である。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、
その他のどんな戒めでも、
「隣人を自分のように愛する」の一言に尽きるからである。
愛は隣人に悪を働かせない。だから、愛は律法を全うする。
(ローマ13章8〜10節)
第一に、エクレシアのメンバーは、同じメンバー同士だけでなく、この世の人に対する時でも、愛を持って接するべきだということです。言うまでもないことですが、「愛する」とは、お金や理念や機械技術や宇宙の原理などという人格を持たない観念や事柄に向き合う時のものではありません。愛は具体的な人間に対して抱くものだからです。現在の日本で、人々が最も関心を抱いていること、それは「人と人との接し方」であり、「人と交わり」を作ることです。人と人とが交わるためには、その人を理解しなければなりません。その人を理解するためには、その人を愛さなければなりません。その人を愛するためには、その人を赦さなければなりません。人を赦して愛する。これが、パウロがここで個人としてのクリスチャンに求めていることなのです。
何を食べてもよいと信じる人もいれば、
野菜だけを食べる弱い人もいる。
食べる人は、食べない人を軽蔑してはならない。
食べない人は、食べる人を裁いてはならない。
神はどちらも受け容れられたからである。
わたしたちは、だれも自分のために生きる者はなく、
だれも自分のために死ぬ者もいない。
だから生きるのは主のために生き、
死ぬのは主のために死ぬ。
生きるにせよ、死ぬにせよ、
わたしたちは主のものだからである。
ローマ14章2〜8節より抜粋)
第二に、エクレシアのメンバーは、イエス様の御霊にあって、それぞれの選択において、自由でなければなりません。ある人が汚れると思って食べないものでも、他の人から見れば、浄いと思って食べることがある。この世とエクレシアの価値観との間に広がる選択の幅は、こんなにも広いのです。近い将来、自衛隊は、軍隊として国外に派遣されるでしょう。そういう軍事行動に反対するクリスチャンもいるでしょう。ところが、自ら志願して、その軍隊に入るクリスチャンもいるかもしれません。その時、その場で、主様の御霊が、個人個人のクリスチャンに対する働きかけは、それほど多様で、これを一律に規制することなど不可能だからです。君が代を歌う自由と拒否する自由、どちらもあっていいのです。権力に逆らい、これと戦う自由と、権力に服従して、その命令を守る自由、どちらもあっていいのです。民主主義の名の下に「人の自由を奪う自由」を行使しようとする人たち、彼らに対して、こちらも同様に、個人の自由を奪うやり方で対抗してはなりません。
あなたが自分で信仰を抱くなら、神の御前で抱くがよい。
決意して疑わない者は幸いである。
疑いながら食べる人は、罪に定められる。
信仰に基づいていないからである。
信仰に基づかないことは、すべて罪である。
(ローマ14章22〜23節)
第三に、大事なのは、個々のクリスチャンが、主様の導きに委ねて歩むことです。ナザレのイエス様が、人間としてこの世で働かれた目的は、十字架と復活を経た聖霊を通じて、一人一人の人間の生命を御父にささげることです。すなわち、神によって創られた被造物の生命を神をたたえるために捧げることです。これに対し、「偶像礼拝」とは、地上の生命をして、神をたたえるどころか、その逆の目的のために利用する力です。人格を具えた人間を非人格化して扱うことで、人を悪用する力のことです。これが偶像礼拝の本質なのです。キリストは、自己を無にし、自己を他者のために与えた御子です。自分の栄光を求めないで、無とされることで、偶像礼拝を脱却することができたのです。自己崇拝こそ偶像礼拝の究極の姿だからです。イエス・キリストは、自由な意志によって、こういう自己犠牲を成し遂げられました。イエス様は、その同じ聖霊をわたしたちに働かせておられます。それゆえ、わたしたちも「生きるのは主のために生き、死ぬのは主のために死ぬ。生きるにせよ、死ぬにせよ、わたしたちは主のもの」になるのです。
キリストにある「自由」には、ふたつの意味がこめられています。すなわち、この世的な偶像礼拝「からの」自由であり、もうひとつは、人間の人格が贖われることによる永遠の生命へと「向かう」自由です。だから、罪の赦しの自由とは、罪からの自由であるばかりでなく、自我の偶像から脱却して、霊的な永遠の命を創造的に歩む自由のことです〔『キリストと創造』C・ガントン著/須田拓訳(教文館)〕。
■コイノニア会の伝道
「主は、御霊として臨在する。主の御霊の臨在するところ、そこに自由がある」(第二コリント3章17〜18節)。「自由へとキリストはあなたがたを自由にしてくださった。だから、そこに立ちなさい。もう二度と奴隷の軛を受け入れてはならない」(ガラテヤ5章1節)。戦後の日本には自由がありました。しかし、その自由を真に充実させ、活かすことのできる霊的な使命が日本人には与えられませんでした。アメリカからの霊能キリスト教、ドイツ神学、マルクス主義、どれも戦後の日本人の自由を本当に活かしてはくれませんでした。戦後日本の霊的喪失は、それほど深かったのです。自由がほんものの霊性で満たされない場合、そこに理想の喪失から生じる「ニヒリズム」(虚無)が生じます。虚無感は刺激を求め、刺激は、金や性的満足や物欲に向かいます。しかし、ほんらい霊的な性質の喪失は、それでは補うことができません。天皇を現人神(あらひとがみ)と奉る、戦前の民族的国家神道が復活するのは、この間隙を埋めるためです。わたしたちが求めてきたのは、方向を見失った日本人の「自由」の内実を満たしてくれる霊性を見出すためでした。これの探求に、なんと60年を要した。今ようやく与えられている「主の御霊にある自由への啓示」、これが、これからの日本人の自由を真に活かし強める力を発揮するでしょうか。これが今問われています。コイノニア会の霊性が果たす使命がこれです。
ローマ書簡の霊性へ