(10)個人の霊性の倫理と自由

■知識の誇りを避ける
 ここで、コリントの教会に向けて語られる「御霊の倫理」を考えると、およそ以下のようになるでしょうか。「わたしたち全員は、偶像に対するそれなりの霊的な知識を所有しています。そのことは、わたしにも分かっています」(第一コリント8章1節)。パウロはこう始めます。「偶像に対するそれなりの霊的な知識を所有している。」言わば、これが、コリントの教会の知的なキリスト教徒たちのスローガンです。しかし、パウロは、「知識は人を高ぶらせるが、愛は建徳する」を加えるのです。教会の全員が、そこまでの知識を所有しているわけではないからです(第一コリント8章7節)。
 たとえ、神々の実在が信じられていようとも、偽りの神々が(「偶像」のほんらいの意味)存在しないのなら、それらに犠牲として供えられた肉であろうと、そうでナイ肉と同じに見なすべきではないか(8章4節)。これが、コリントの教会の「強い人たち」の「知識」であり、彼らは、この原理に基づいて振る舞おうとします。物を人間の宗教心から切り離して、内面の主観とは別個の中立した客観的な存在だと見なすこの見解は、現代の科学的で唯物的な視点に通じるもので、これこそ、ギリシア的な伝統に立つ知の本質です。
 身近な例えで言えば、恋人からヴァレンタインにもらったチョコレートも、物質的に見れば、店に山積みされている一つにすぎないとしか映らないでしょう。これでは、せっかく恋人がこめた想いも、その有り難みが消えてしまいますが、同じ見方が、偶像の神々への恐れをも取り除いてくれるのです。だから、コリントの教会の知的な人たちは、犠牲の肉を「客観的に」見ることで、これを無害だと見なすことができるのです。「知識は人を誇らせる」とパウロが批判するのはこの点です。知的な原理に基づいて、物を客体化した上で、その対象を知によって「支配しよう」とするこの「知的な暴力性」こそが問題なのです。「唯一神」の存在こそコリントの教会人たちの「自由の土台」なのはその通りです。だが、そういう霊知が人を解放するのだから、偶像など現実に存在しないと見なす、まさにその「知識」こそが、ここで問われることになります(8章2節)。「霊的な知識」は、コリントの教会の知的で強い人にも、パウロにも等しく与えられています。それは、神からの御霊の賜にほかなりませんが、パウロは、彼ら以上に、さらに霊的に奥深いのです。
■個人の霊的な自由
 たとえ正当な理由があっても、御霊にある恩恵を「原理化」してはならないのです。問題の本質は、その物(食用の肉)が、個人個人に対して帯びる<その場の宗教的歴史的な有り様>に潜むからです。パウロは、犠牲の肉に関わる当人の意識的な思考の有り様が、実は、その物自体と切り離すことができないことを見抜いています。そこでは、<宗教的で歴史的な状況>の中で生じる「物とその人との関係」が問われるのです。コリントでは、供儀(くぎ)の肉は、追悼会でも、結婚式でも、公の祭日でも配布されます。コリントの教会の強者たちは、弱者の意識、すなわち弱者の良心を「変革させ」ようとするのでしょうが、パウロはここで、<そうは言わない>のです。信仰者は、それぞれが、自分に与えられたその段階での内面的な信仰と、そこから生じる<良心的な認識>に従うように、と勧めるのです(7章17節)。その上で、「食べる者は食べない者を軽蔑せず。食べない者は食べる者を批判しない」よう要請するのです(ローマ14章1~6節)。だから、ここで言う「弱者」を、偶像礼拝に警戒心の強いユダヤ人キリスト教徒だとか、回心後、間もないがゆえに、偶像に感化されやすい異邦人キリスト教徒だとか、ある特定のグループに限定してはならないでしょう。どのような場合にも、強者の振舞いに躓きを覚える「弱者たち」が必ず居るからです。
 ここで問われるているのは、<すでに獲得されている>知識のことではありません。パウロは、霊知へいたろうとするその<到達過程>それ自体が、御霊にある愛によっているかどうか? これを問うのです。パウロのこういう「知恵」の有り様は、ほんらいのギリシア的で知ではなく、むしろ、イスラエルの伝統を受け継いでいるヘレニズム・ユダヤ教から来ていると見るべきでしょう。コリントの教会の知的で強い人たちは、唯一神への信条をギリシア的な知によって原理化し、この原理に基づいて、偶像への恐れを克服しようとします。「神々なくば、偶像なし」という「客観的」な事実によって、「宗教問題の最終解決」を図ろうとします。しかし、パウロは、教会の「弱い者」個人個人の内面性とその意識/認識を問うのです。強い知的な人が言う「正しい知識」では、問題はまだ解決しないからです。偶像は、弱い個人のうちにいぜんとして<生きている>からです(8章5節はこのことを明示します)。
  だから、特定の知識に基づく原理主義によって、個々の歴史的状況に目を止めず、それぞれの場における物と信者との霊的な関わりを無視して、「知の暴力」を行使してはならないのです。この場合、「肉」という物それ自体の中立性は、これに対する振舞い方の正当化にも、自由の行使権の保証にもならないのです。問題は、哲学的な原理でも、神学的な教義でもなく、それぞれの歴史的な状況での「御霊にある自由」の行使の是非です。行使<する自由>があるのなら、行使<しない自由>もあることをわきまえるべきです。行使するかしないか、その選択は、その人が、主イエスの御霊にある交わりにあって決まるのです。強い人を立てるのか、弱い人をおもんばかるのか?くどいようですが、肉それ自体のことではありません。これを「食べる」人の内面性と、これに基づく主体的な行為のほうが大事なのです。弱者にとって、供儀(くぎ)の肉が偶像を<生き返らせる>のなら、それは、彼の信仰を侵害することになるでしょう。彼は、「信仰によらない行為によって自らに罪を招く」(ローマ14章23節)ことになります。だから、パウロは、自己の自由を弱者への愛のために、「あえて行使しない」ことで、その判断の是非を「主に委ねる」のです(第一コリント8章6節)。
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