(11)霊愛と宣教
■十字架の霊愛
  コリントの知識人は、自分たちこそ弱者を「教化する」と主張するかもしれません。犠牲の肉を知識によって克服し、個人を教化する彼らの「知」の有り様を全面的に否定するのではありませんが、それでは、御霊の真理から見れば、まだ「神秘に隠された神の霊知」(2章7節)に到達しているとは言えない。こうパウロは指摘します(第一コリント8章2節)。彼らの知の有り様では、弱者の内面性が、その信仰共々に侵害され損なわれるからです(8章11節)。
  強い彼らのこういう<原理化する知の働き>に対して、パウロのほうは、「神からの愛」を対置します。その上で、彼は、己の「知識」をあえて「放棄する」ことをも辞さないのです(8章13節)。「神の愛」こそが真の基準であり、これが、「知識」を正しく導くことを悟る必要があるからです。これこそが、第一コリント13章で語られる愛の意義です。この愛は、人がキリストの御霊に導かれて、父と御子の交わりに入れられる時に初めて知る愛であり、パウロはこれを「最高の道」(13章1節)と呼んでいます。この愛は「自己放棄する愛」です(12章31節)。個人個人が、神に<知られることで知らされる>神から来て神へ向かう愛です(8章3節)。パウロは、ここで、エクレシア全体の交わりを「建徳する」(オイコドモー)ことを第一に置いています。人が、その「霊的な知識」において、真に正当かどうかの分かれ目がこの点にあります。コリントの知的な人たちの単なる個人主義的な知識追求と、パウロが目指すエクレシア全体への神秘な知恵との違いがここにあります。
 パウロが目指すのは、万物の創造~としての唯一神教のことだけではなく、「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神」から啓示される御霊の知恵に向かうことです(8章11〜12節)。これこそ、パウロが、第一コリント人への手紙で強調してやまない「十字架のイエス・キリスト」の恩恵であり、そこから流出する弱者への愛です。主イエスの十字架から発する御霊の愛こそ、人間的な知恵に潜む罪を赦して、これを「神の知恵」へ導くことができるからです。それは、先在のロゴスであるキリスト・イエスを通じて人類に啓示された「恵みと真理」(ヨハネ1章18節)の知恵です。イエス・キリストの十字架を通して啓示された父なる神の御心こそが、パウロの宣教理念の根幹なのです。
 これは、事物を客体化することで人間を恐れから解放しようとするヘレニズムの思考様式と同じではありません。ナザレのイエスの父の神が啓示する導きは、客観的で中立な物への知識よりも、むしろ、人への愛を優先させる「恩恵」を啓示するからです(ヨハネ1章14節/コロサイ1章14節)。これが、ほんらいのイスラエルの神から来る知恵にほかなりません(箴言8章22〜23節/知恵の書7章22〜30節)。強いコリントの信者たちは、唯一神教を原理化した信条をパウロと共有しようとするかもしれません。唯一神教への理念それ自体は誤りではありませんが、人類一般の「宗教する人間」のためを思うなら、そして、今現にこの世で宣教しているエクレシアと、これと共に働いておられるイエスの御霊の導きに従うなら、この世では偶像が「まだ生きている」ことを無視し、この宗教的な事実を否定することで唯一神観を<原理化し>、弱い立場の信仰者たちに対して、その原理を<無理強い>することは許されないのです。
 パウロは、ここで、神殿に献げられた肉それ自体の浄化・不浄を問うのではありません。唯一の神の御前では、物それ自体は、浄/不浄、聖/俗に関して中立性を保つのです。しかし、この中立性を(とりわけ強者の)原理や教義で割り切ってはなりません。イエスの父なる神の「恩恵」が、原理化しようとする人間の知を超える不思議な働きをすることは、イエスが語ったぶどう園の労働者のたとえ話にみごとに描き出されています(マタイ20章1節以下)。
■パウロの宣教理念
 事は、コリントの弱いキリスト教徒への対応にとどまりません。聖書の唯一神教を振りかざすことで、これを絶対の原理として、キリスト教以外の諸宗教を頭から否定し、もろもろの「宗教する人」を単なる「異教徒」と見なす従来の宣教理念では、一般の人たちを主イエス・キリストの「贖いの愛」へ導くことはできないでしょう。弱いキリスト教徒も未知の異邦人も<彼らの意識と良心それ自体において>イエスの御霊の愛によって「贖い出され」なければならないからです。これが、ナザレのイエスの御霊の愛による「十字架の宣教」です。「強い者」と「弱い者」が混在する多種多様なキリスト教徒で成り立つエクレシアでは、「多様の中の一致」を見出し造り出し、これによってエクレシアを「その全体において」育て導くのがイエスの御霊にあるパウロの宣教理念です。第一コリント人への手紙で、パウロは、信者個人個人が「神の御霊が住まう家」であることを強調し(3章10〜17節)、「一つ体と多くの部分」(12章12〜31節)を通してキリストのからだ(エクレシア)の形成を説くのはこの理由からです。もろもろの「宗教する人」は、イエスの御霊にある愛にあって初めて、内面的に新しく創造されるからです(第二コリント5章17節)。
 以上述べてきたことをパウロ流にまとめるなら、「自分のすることが人を救うかどうか」(10章33節)? 言い換えると「その人をイエス・キリストへ導くかどうか」です。ガラテヤで律法主義と闘うパウロの十字架の神学は、コリントにおいては、個人の信仰の自由を「十字架の神学のもとに」保証するのです。ヘレニズム世界では、神話の祭りによる周期的な回顧によって、世俗の聖性が保たれて来ました。ところが、パウロの福音は、その世俗の周期的な時間をば、前進する歴史的な時の流れとしてとらえ直すのです。そこでは、聖性は「個人の歴史的な時」の中で、一人一人の歴史的状況に応じて啓示されます。しかも、そのような歴史的状況に適応する個人の応答は、「わたしはパウロに」、「ペトロに」、「アポロに」のように、宗派や宗団でまとまる原理的な基準に置かれるのではなく、それぞれが、主イエスへの御霊の導きに従って、「その時その場で」対応する歩みを通じてしか顕現しないのです。「御霊」であれ、なんであれ、「原理」を振りかざして異教を屈服させる挑戦的で戦闘的な宣教手段ではなく、主イエスの御霊にある十字架の愛の倫理に従って、個人個人が隣人愛の実践を通して、多種多様な宗派宗教の人たちを感化する、こういう平和と寛容を重んじる宣教手段こそ、これからのアジアのキリスト教宣教にふさわしいのではないでしょうか。(2015年6月作)
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