パウロの第三回伝道旅行に入る前に、どうしても確認しておきたいことがあります。それはエルサレム使徒会議です。これは、異邦人キリスト教徒に割礼を施すべきかどうかを始め、モーセ律法をどのように異邦人キリスト教徒に適用すべきをめぐって開かれた最初の「キリスト教会の公会議」です(使徒15章6~29節)。会議の時期は、通常、パウロたちの第二回伝道旅行の<前>(47/8年)とされていますが(同15章36~41節参照)、パウロとシリアのアンティオキア教会との関係が途切れた状況から判断すると、むしろ、第二回伝道旅行の<後>(51~52年)だと見るほうが適切ではないかという説があります。パウロは、第二回旅行の後、自分の「ホーム教会」であるアンティオキアへ戻ったとあり(使徒18章22節)、その後で、バルナバとパウロは、異邦人キリスト教徒へのモーセ律法の適用問題を討議するためにエルサレムの使徒会議に出て、「使徒教令」(使徒言行録15章28~29節)を受け取って、アンティオキアへ戻ります(「使徒教令」の時期についても異論があります)。使徒15章のこのエルサレム使徒会議に続いて起こったのが、シリアのアンティオキア教会でのペトロとパウロの衝突事件です(ガラテヤ2章11~14節)。この衝突が、第二回伝道旅行の前になるのか(47~48年)、後になるのか(51~52年頃)、という疑問が生じるのです。通説では、早いほうになっていますが、むしろ、二回目の伝道旅行の後だと見るほうが、時間的にも余裕ができて、時期的に見て適切ではないかと思われます。後期説のほうが、第三回旅行の際に生じたパウロとユダヤ人キリスト教徒たちとの対立も納得しやすくなりますから、最近は、遅いほうをとる説も有力です〔Jerome Murphy-O'Connor.
Paul: A Critical Life. Oxford Clarendon Press(1996).31〕。この衝突が原因で、パウロは、以後アンティオキア教会から離れて、第三回伝道旅行に旅立つことになりますから(52年)(使徒言行録15章36節)。
パウロたちは、陸路タルソへ向かい、タルソの北の
キリキア門を北上して、山脈を越えて中心部のアンキュラ(ここがほんらいのガラテヤ地域)に達し、そこで伝道した後で、エフェソへ下ったのでしょう(北ガラテヤ説)〔聖書:聖書協会共同訳(2018年)巻末付属地図(12)参照〕。タルソから、デルベ、
リストラ(使徒14章13節)、
イコニオン(使徒14章1節)(現在のコンヤ)、ピシディアのアンティオキア(現在のヤルバッチ)と第一回の旅を逆にたどり、フリギアへ来て、そこから南下して初めて、エフェソを訪れたという南ガラテヤ説もあります〔聖書:新改訳2017年巻末付属地図(14)参照〕。第二回目と同様の理由で、筆者は、第三回目も、北説を採ることにします。ただし、「ガラテヤ地方を通り、それからフリギアの地方を通ってすべての弟子たちを力づけながら(エフェソへ)」(使徒18章23節)とあります。このために、第三回目は、南ガラテヤを通らずにタルソから北上するルートと、先に訪問した南の「すべての弟子たち」を訪れた後で、フリギアから北方のアンキュラへ向かい、そこからエフェソへ南下するという「二つの北ガラテヤ説?」が生じる可能性もあるからややこしいです。なお、この頃(52年)、アポロが、エフェソからコリントへ向かい、いわばパウロの「後を引き継ぐ」形で、コリントの諸教会で教えています(使徒18章27~28節)。
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