(4)コリント教会の問題
 
  54年の春のことでしょうか、パウロは、クロエから派遣されて、コリントから、商用でエフェソへ来た人を通して、コリントの教会でもめ事が生じているという知らせを受けます。すでにコリントから戻っていたアポロからも事情を聞いたパウロは、今は失われた(?)と思われる最初のコリントへの手紙を書き送り、さらに、54年5月始め頃に、テモテをコリントへ派遣します。ところが、彼と行き違いに、コリントの教会から、ステファナ、フォルトナト、アカイコの3名が、教会からパウロに宛てた質問状を携えてエフェソへ来たのです。これを読んだパウロは、さっそく第一コリント人への手紙を書いて、おそらく3名に託したと思われます。パウロは、ガラテヤでの経験を踏まえて、コリントの信者たちに対する時には、御霊にある福音とモーセ律法との関係を「原理的に」扱うのを避けて、彼らが尋ねてきたことを中心に、キリスト教徒の生活態度について課題ごとに具体的な指示を与えています。だから、この書簡は、先のガラテヤ人への手紙とは異なって、「御霊にある倫理」を知るこの上ない手がかりになります。とは言え、倫理と神学的な教義は深く結びついていることも、この書簡は示してくれます。
 3名と行き違いに、テモテがコリントから戻ってきます。テモテは、一人の(?)ユダヤ人キリスト教徒が、コリントへ来て、ユダヤ教の律法遵守を勧めている様子をパウロに伝えたと思われます。これを知ったパウロは、急遽、エフェソからケンクレイアへ海路で直行し、コリントを訪れます(パウロのコリントへの「中間訪問」と呼ばれています)。結果は、彼が心配した通り、コリントの教会は、パウロとおそらくそのユダヤ人キリスト教徒との狭間にあって、「中立的な」立場を採ったようです。コリントの信者たちは、アンティオキアからの反パウロ的な律法遵守を退けようとは「しなかった」のです。おそらく、コリントの知的なグループは、アンティオキアよりもパウロよりも、先ず自分たちの自主性を重んじたからでしょう。だが、この彼らの態度は、パウロに、ガラテヤ教会で起こった危険を思い起こさせたのは間違いありません。
 パウロは、さらに、ユダヤ人キリスト教徒たちが、マケドニアの諸教会にも影響を及ぼしているのを心配して、コリントから、陸路で、ギリシアの内陸に近い湾の港町ラミアへ向かい、テッサリア平原を北上して、オリュンポス山の麓を経由し、沿岸へ出て、そこからテサロニケへ向かいます。コリントからテサロニケまでは580キロほどですから、1日30キロとして、ほぼ3週間の徒歩旅行でしょうか〔Murphy-O'Connor. Paul. 297.〕。ところが、マケドニアでは「予期せぬ!」歓迎を受けたのです(第二コリント8章1~5節)。パウロは、テモテをマケドニアに残して、エフェソへ戻り(54年6~8月?)、エフェソから、今は失われたとされる「涙の手紙」をコリントに書き送ります。それでも気がかりなパウロは、今度は、テトスをコリントへ派遣します(10月頃)。テトスは、パウロと共にエルサレム使徒会議に行っていますから(ガラテヤ2章1節)、福音と律法の問題を身をもって知っていたからでしょう。
 パウロは、54~55年の冬をテモテと共にマケドニアで過ごしますが、テトスが、コリントからマケドニアへ来て、コリントの教会について「朗報」をもたらしてくれます。パウロが涙ながらに書いた手紙が、コリント教会の人たちの心に届いたのでしょう。パウロは、「安心して?」エフェソへ戻り、第二コリント人への手紙(A)1章~9章を書き送ります。彼は、この手紙で、パウロに対して反抗的だった人たちを赦すよう教会の人たちに求めています(第二コリント2章5~11節)。パウロは、先にガラテヤ教会の一件で学んだことをここで活かして、パウロを批判するそれらの人たちを躓かせることなく、しかも、彼らを敵対する律法主義者たちから切り離そうとするのです。大事なのは、先にフィリピの教会にも書き送った通り、イエス・キリストの御霊にあって教会が「一致する」ことだからです。また、彼は、この手紙の8~9章で、エルサレムへの献金を依頼しています。47年/48年のパレスチナの飢饉に次いで、54/55年にも、彼(か)の地を飢饉が襲ったからです。
 テトスがコリントから戻ると、パウロは、第二コリント人への手紙(B)(10章~13章)を書き送ります。第二コリント人への手紙は、複数の手紙の複合だと見なされています。例えば、今は失われた見られている「コリント人への最初の手紙」は、これを第二コリント6章14節~7章1節だとする説があり、また、これも失われたとされる「涙の手紙」は、第一コリント10章~13章だとする説などがあります。しかし、筆者(私市)は、マフィー=オコウナの第一コリント人への手紙(A)(B)説を採ります。これが、最も簡単で分かりやすく、分類にも無理がないと考えるからです〔Murphy-O'Connor. Paul. 254-56.〕。テトスは、先に、コリントからマケドニアのパウロのもとへ「朗報」を届けると、すぐその脚で、再びコリントへ引き返したようです。おそらく、エルサレムへの献金募集が急を要したからでしょう。そのテトスがコリントから戻ってきますと、今度は、思いがけないことで、パウロが誤解に曝されていることを伝えたのです。パウロたちが、あまり熱心に献金を勧めるので、パウロは、集めたお金を「全部そのまま」本当にエルサレムへ持っていくつもりなのか?とういうあらぬ疑いを抱く者たちが教会の中に現われたからです。ここにも、パウロを批判する律法主義的なユダヤ人キリスト教徒の陰を疑うことができます。パウロたちが自活したことさえも、金儲けのための偽りの見せかけの行為ではないか?とまで言う者がいたようです。それだけでなく、彼らが献金で生活せずに自活して伝道するのも、ペトロのような大使徒たちのやることではないという理由で、パウロの使徒としての権威それ自体にも疑いがかけられているらしい。驚いたパウロは、急いで第二コリント人への手紙(B)10章~13章を書きますが、今度は涙ながらではなく、かなり「頭にきた」ようで、厳しい言葉を交えながら、しかも「キリストの十字架のもとにある無力な自分」を伝えようとしたり、「使徒としての苦難の数々」を訴えることで、彼らの批判に応えています。
  ガラテヤの律法をめぐる問題あり、コリントの御霊にある倫理問題あり、偽兄弟たちからのあらぬ批判ありで、「だれかが弱っていると言うのなら、このわたしは弱らないでいられるだろうか。だれかがつまずくのなら、わたしのほうは心を燃やさないでいられるだろうか。だれかが弱っていると言うのなら、わたしのほうは倒れてしまわないだろうか」(第二コリント11章29節)とパウロの嘆きが聞こえてきそうです。
  55年の夏、パウロは、エフェソから陸路でスミルナからアソスへ出て、そこから海路でトロアスから対岸のネアポリスへ港へ渡り、テサロニケへ向かいます。そこからコリントへ向かうのですが、この時のコースは、陸路でギリシアの西岸沿いと、陸路で東岸沿いからテッサリア平原経由と、別にケンクレイアまでの海路と、三つの説に分かれますからどちらとも決めかねます。先の第二コリント人への手紙(B)で「十字架にある自分の弱さ」を誇ったパウロの訴えが功を奏したのでしょうか(第二コリント12章9~10節)、コリントの教会は彼を受け入れて、どうやら誤解も解けたようで、パウロが抱いていた危惧は(第二コリント12章20節)、幸いにも杞憂(きゆう)に終わったのです。パウロは、とにかく、55年の冬をコリントで過ごすことになります。パウロがローマ人への手紙を書いたのはこの時期でしょう。
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