(5)コリントのキリスト教とアポロ
■パウロ以前のコリントのキリスト教
使徒言行録は、エルサレムでの聖霊降臨による原初キリスト教会の誕生から、キリスト教が、ピリポの伝道を通じて、エジプトのおそらくアレクサンドリアへも伝わったことを示唆しています(使徒8章26~40節)。このことと、アレクサンドリア生まれのアポロが、キリスト教徒として、突如パウロの伝道活動の中に登場することとは深いつながりがあるようです〔Conzelmann.
Acts. 157-60〕。興味深いのは、アポロのこの登場が、使徒19章1~7節では、洗礼者ヨハネの洗礼と関連づけられていることです。アポロは、アレクサンドリアで、すでにキリスト教徒になっています。おそらく、彼には、アレクサンドリアの著名なユダヤの思想家フィロンの影響があるのでしょう。
このアポロは、パウロ以前に、すでにコリントへ来ていて、しかも、パウロとも何らかのつながりあったことを第一コリント16章12節が示唆しています。だからこそ、パウロは、「兄弟アポロ」に、コリント行きを勧めたのでしょう。だとすれば、パウロの伝道以前に、コリントには、すでに洗礼者ヨハネ宗団と関わりのあるキリスト教徒がいたことをうかがわせます(これには、エッセネ派に近いアレクサンドリアの「テラペウタイ」の関与を想定できるかもしれません)。わたしたちは、ここに、ユダヤ教から洗礼者宗団へ、さらにキリスト教会へと発展していく過程を見ることができます。使徒言行録では、この過程の延長において、パウロのコリント伝道が、ユダヤ人の会堂での説教に始まり、その結果、キリスト教と会堂とが分離し、以後は、パウロ指導の集会という過程で描かれています。使徒19章7節では、洗礼者ヨハネの名による洗礼と、イエスの名による洗礼との二重の洗礼が重なります。これが、異言を伴う聖霊のバプテスマと結びつく背後に、わたしたちは、ユダヤ教から洗礼者ヨハネ宗団を通じて、パウロ的な聖霊のキリスト教へ発展する過程を読み取ることができます。
アポロ(異読に「アポロニオス」とあります)に関する記事で、重要なのは使徒18章24~28節です。これによれば、彼は「主の道に通じて」いて、イエスの出来事を「正確に」解き明かす雄弁さを具えていたのに、「洗礼者ヨハネの洗礼しか知らなかった」とあります。洗礼者の洗礼しか知らないのにどうして「正確」なのかといぶかる向きもあるようです〔Murphy-O’Connor,
Paul: A Critical Life. 274.〕。アポロが、自分から進んで、アカイア州へ行くことを望んだとありますが(18章27節)、有力な別の(西方の)異本では、エフェソに滞在していたコリントの人たちにせがまれて、アポロは、彼らと共にコリント行くことに同意した。そこで、彼らは、コリントの教会に彼を受け容れるように手紙を書いたとあります〔Metzger,
A Textual Commentary on the Greek New Testament. 468.〕。コリントの人たちにせがまれて同意したはずが、どうして受け容れる手紙を書く必要があるのかと詮索したくなりますが、とにかく、アポロは、パウロたちには未知の先人のキリスト信者によって「主の道」へ導き入れられたのは確かです。これらを総合してみると、コリントには、パウロたちが到着する以前に、すでに洗礼者ヨハネ宗団とつながりのあるアレクサンドリア系のキリスト教が入り込んでいた可能性があります。
■アポロの伝道
アポロは、「雄弁」だったとありますが、これは「霊に満たされてなめらかに語る」だけでなく、「雄弁」とは、この当時「知恵」の別名ですから、理路整然と思弁的、哲学的に福音を解き明かしたのでしょう。しかも、彼は、「聖書に精通していた」(使徒18章24節)とあります。「聖書に精通していた」点ではパウロも引けをとりませんが、「霊に満たされて雄弁に語る」点になると、「人の知恵によらず神の知恵によって十字架を語ろう」(第一コリント1章21節/30節)としたパウロとはいささか異なるようです。聖書に精通していて神の知恵に基づいて弁論するアポロのやり方は、彼が、アレクサンドリアのユダヤの思想家フィロンの流れを汲む者の一人ではないかと推定できます。
このアポロがコリントにいたのは、パウロがエフェソへ戻った頃らしいので(使徒19章1節)、どうやら二人は行き違いになったようです。アポロの知的かつ宗教的背景からすれば、始めは、当然コリントのユダヤ人の会堂で語り、しかも「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」(使徒18章28節)とあるので、これでかなりの成功を収めたようです。この成功に乗じて彼は、コリントのキリスト教徒たちの集まりでも「知恵の言葉」を用いて語ったのでしょう。フィロンの系統を引くとすれば、アポロの知恵とは、福音の神学的多面性を総合して提示することにあったと思われます。こういう体系的な語り方は、パウロがコリントで心がけていた具体的で現実に根ざす御霊にある語り方とは対照的です。
パウロのほうは、「十字架のキリストのほかは何も語るまい」(第一コリント2章2節)と心に定めていたのですから、こと弁舌に関しては分が悪いでしょう。「十字架のキリスト」とは、復活したイエスの御霊の働きを指すパウロの用語ですから、彼が目指していたのは、弁舌よりも、むしろ信者たちの生活ぶりが「現実に変貌する」ことだったのです。アポロが知的な総合力を発揮したとすれば、パウロは、キリストの御霊の現実の働きでこれに応じるという具合です。
結果として、アポロの周りに集うのは、知的なエリートたちであろうし、対するパウロのほうには、教養においては及ばないものの、現実の愛の奉仕と霊的な力において隣人に働きかける人たちが多かったことでしょう。ところがここに、このどちらにも属さない第三のグループが存在したようです。「ケファ」(ペトロのヘブライ名)に属するグループです(第一コリント1章12節)。ペトロが、実際にコリントを訪れたかどうかについては学説が割れるようですが、確かなのは、このグループが、前述の二つのグループに比して、ユダヤ教の律法、例えば食物規定などを遵守する人たちだったことです。当然のことながら、これらの人たちには、ユダヤ人キリスト教徒が多かったでしょう。こうして、アポロ・グループは知的な人たちを引きつけ、ケファ・グループにはユダヤ人キリスト教徒が集まり、パウロ・グループには霊的な働きを重んじる「自由な」異邦人キリスト教徒が集うことになったのでしょう。コリントの教会の実態をこのように割り切って見るのはいささか行き過ぎでしょうが、わたしたちは、ここに、キリスト教の複雑な発展過程と、その延長で「起こるべくして起こった?」アンティオキアでのペトロとパウロの亀裂が、コリントでも尾を引いているのを見るのです。
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