(6)晩餐と偶像への供え物
■主の晩餐
 信者が教えるその人に惹かれて、これに見習うのは、古今東西どこでも同じですから、コリントの教会でも「わたしはパウロである」「わたしはアポロである」「わたしはケファである」(第一コリント3章4節)ということになります。こうして、コリントのエクレシアは、幾つかの異なるグループの混成宗団の様相を帯びてきます。フェベは独身の女性であり、アキラ夫婦その他は結婚しており、ステファナやクリスポのように家ぐるみで入信した人もいたから、全部合わせると40人ほどになるでしょうか〔Murphy-O’Connor, Paul. 278.〕。これだけの人数が集まることができる邸宅は、そう多くはないはずです。コリントの中流階級でも、比較的裕福な邸宅と言えば、入り口に近いトリクリニウムが8畳ほどです。そこを通ると、中庭があって、これを囲むように4~5部屋あり、その中でも、庭に面したアトリウムは、14畳ほどです〔Thiselton.The First Epistle to the Corinthians. 861.〕。そこは、20人か、立ったままで詰めても、入れるのはせいぜい30~40人が限度でしょう。愛餐なら10名くらいです(エフェソの博物館には当時の中流で上層の家が展示されています)。
 第一コリント11章20節の「主の晩餐」(キュリアコン・デイプノン)の「デイプノン」は、夕食のことではなく、通常、昼食を指しますから、正確には「主の正餐」とでも訳すべきでしょう。パウロは、この言葉で、強調を「キュリアコン」に置いています。「主の」とは、主がホストであることですから、「主の晩餐」(the Lord's Supper)と呼ばれます。第一コリント11章24節には「感謝して」(エウカリステーサス)とあり、これは、「聖餐=ユウーカリスト」の文献での最初期の用例です。コリントでは、信者が共に集まって食事する「愛餐」(アガペー)と、「聖餐」(ユーカリスト)とが、前後して同じ時に行なわれていましたから、ここでの「主の晩餐」とは、愛餐(Agape)+聖餐(Eucharist)のことです。ただし、「主の晩餐」は、後に「聖餐」(Eucharist/Holy Communion)だけを指すようになりました(カトリックでは「聖体」)。ちなみに、「主の晩餐」(the Lord's Supper)は、イエスと弟子たちとの「最後の晩餐」をも指しますから〔新共同訳〕、この用語(英語ではthe Lord's Supper) は、「最後の晩餐」と「聖餐」と「愛餐+聖餐」の三つの意味をかねているようです〔新共同訳〕。なお、カトリックでは、「最後の晩餐」「聖体」「主の晩餐」のように訳し分けています〔フランシスコ会訳聖書〕。おそらく、イエスの復活直後に、イエスを覚えてパンを裂く際に、イエスの顕現と臨在が与えられたことから聖餐が始まったのでしょう。こういう状況では、食事の際に、ディナーの作法に従って、アトリウムで横たわり、給仕される食事を食べる者もいれば、奴隷たちは、トリクリニウムや屋敷の入り口にたむろして、自分たちで分け合って食べることになります。だから、邸宅での「主の晩餐」ともなれば、知的なエリートとそうでない者、持てる者と持たざる者との格差は歴然としてきます(第一コリント11章18~21節)。エリート組と持てる者はアポロに与し、そうでない者はパウロに与した、と見るのはいささか行き過ぎでしょうが。
■偶像への供え物
 わたしたちは、ようやく「偶像への供え物」について考えるところまで来ました。神々への神殿は、いたるところにあり、アポロンの神殿のような大きな神殿には、必ず、それに隣接する広間があって、そこは、市民が集う重要な場とされていました。それらは、公の会議や私的な誕生祝いや結婚式などの家族の催しから、市の公共の行事まで、様々な寄り合いの場となっていました。19世紀以降に市民ホールができるまでは、中世のヨーロッパの聖堂には、本堂の脇に幾つかの礼拝堂が設けられていて、そこが、市民やギルド職人たちの寄り合いの場とされていたのと同じです。
 食物用の肉市場は、おそらく、レカイオン通りに面していたでしょう。コリントで売られる肉は、そのほとんどが、神殿に献げられてから市場へまわされたと考えていいでしょう。コリントの教会は、様々な階層の人たちで構成されていました。市の職員や裕福な商人たちと身分の低い階層の人、そして奴隷まで、会堂に属するユダヤ人キリスト教徒もいれば、改宗したばかりの異邦人キリスト教徒たちもいたでしょう。コリントは、アテナイやスパルタに比べると、男女の差別が少なく、このため、男女の交際でも、やや「自由な」面があったようです。パウロのコリントの教会への手紙は、このように多様な人たちが織りなすキリスト教の「家の集会」の人たちに宛てて書かれたものなのです。
 当時の神殿は、「レストラン」も経営していました。パウロが言う「偶像」とは、「異教の神殿に献げられた肉」を指す用語で、これは、ユダヤ教か、あるいは、最初期のキリスト教徒が造り出した用語だと考えられます。現在も遺るパピルスには、公用や私用で、市の偉いさんから食事に招かれた場合のことが、幾つも記録されていますが、その実状を見ると、場所も内容も実に様々です。だから、「神殿に献げた肉」は、必ずしも宗教的に厳密に定義することができないほど広い範囲を指しているのが分かります。シセルトンがあげる例で言えば、イギリスの聖公会から聖霊派の集会に移ったキリスト教徒が、地元の教区の聖公会が経営するレストランで食事をするのは、宗教的に背信でしょうか? 日本のキリスト教徒が、地元の寺院の経営するレストランで、街の人たちと食事をするのは偶像礼拝になるでしょうか? 正月にお雑煮を食べるのは、神棚に供えた献げ物を神道の神々の前で食べるのと同じ「偶像礼拝」になるでしょうか? コリントの社会的・経済的な「弱者」は、小麦か大麦のパンを塩と一緒に食べるのが一般的でしたから、「肉食」にありつける機会など滅多にありません。だから、安く「肉に与る」機会があれば、「やましい気持ち」を抱きながらも、神殿に隣接するレストランで肉を食べている「弱いキリスト教徒たち」の姿も目に浮かびます(第一コリント8章7節)。異教の神々に供えられたことを「想い出させる/連想させる肉」とパウロは言いますが(第一コリント10章28節)、こういう状況では「偶像」が、どの程度そこに「現実に存在している」のかを見分けるのは難しいようです〔Thiselton. The First Epistle to the Corinthians.620.〕。
             使徒パウロと共に(後編)へ