(8)浄と不浄
 ここで「浄と不浄」の問題に入ります。「浄と不浄」「清さと汚れ」「聖と俗」、これらを次の幾つかの視点から見ることにします。
〔外と内〕浄・不浄は、人間の外から来るのか? それとも人間の内部にあるのか? 旧約聖書では、この問題が祭司資料編集者たちによって扱われます。彼らの神学は、神と悪魔とが闘い、善と悪とが対立し合うという異教的な二元論とは異なり、唯一の神による一元的な人間への支配を確立しようとするものでした。したがって、神に敵対する悪霊や悪魔などよりも、むしろ、神に敵対する「人間存在」が重視されることになります。例えば、独特の「鳥による浄め」も、ほんらいは鳥が<外から>人間にもたらす悪魔を追い払う祭儀ですが、レビ記の祭儀では、もはや、象徴的な意味を帯びているだけです(レビ記14章1~7節)。レビ記16章6~10節のアザゼルに捧げられる雄山羊の場合も、アザゼルは、悪霊を表わしますが、雄山羊は、この悪霊に犠牲として屠(ほふ)られて捧げられるのではなく、荒れ野へ追いやられるだけです。だから、これは、悪霊が「追い払われる」ことを象徴的に表わしています。このような「悪魔払い」の祭儀は、長い過程を経ることで、徐々に象徴化されたもので、イスラエルの浄めの祭儀において長い歴史を持っています。
 「聖なるもの」についても同様です。イスラエルの初期の時代には、神殿に備わる「聖なる器具」は、俗人が見ることによって、あるいは触れることによって、器具が帯びている「聖性」が、物から人に「移る」あるいは「働きかける」と見なされました。だから、「聖なるもの」に不用意に「触れる」ことは、その人に死をもたらすことになります(サムエル記下6章6~7節)。しかし、後には、神殿の聖所か至聖所以外の場であれば、人が、聖性を帯びた器具に不用意に触れても、その人に死を招くことはありません。ただし、エゼキエルは、物の帯びる聖性が人に「移行する」と見ています(エゼキエル書44章19節)。
〔特定の場所と遍在〕浄・不浄は、特定の場所に限られるのか? それとも、あらゆる場所に遍在するのか? この点で、祭司資料編集者たちによる資料(P資料)それ自体に、二つの異なる見解を読み取ることができます。
(1)
「聖性」の空間的領域が、聖所と至聖所に限定されている箇所(「P層」と呼ばれる)があり、ここでは、「聖性」は、祭司や誓願したナジル人など、限定された聖なる領域の人たちだけに属しています(民数記6章5~8節)。
(2)
これに対して、聖性が、イスラエルの全土に拡大されている箇所(H層)があります。P層では、「聖性」が聖所・至聖所の領域に限定されているのに対して、H層では、イスラエル全体に関連してきます。聖性による全域への聖化作用は、「聖化する」(動詞「カーダシュ=聖別する」の分詞形)という動的な働きとしてとらえられます(レビ記21章8節)。
  この二つの層の違いは、「汚れ」にも関係します。P層では、「汚れ」が、特定の場所や特定の場合に限定されますから、汚れは、主として「倫理的な違反」と見なされます(レビ記4章2節)。この場合、浄めの祭儀によって浄めることができます。これに対して、H層では、全イスラエルに及ぶ汚れが、民の神への契約違反として問われています。これは祭儀的な行為によって浄化することができません(レビ記18章24~30節)。
〔命と死〕「汚れ」の問題では、人体からの汗や尿などの様々な分泌物の中で、なぜ、特に皮膚病と性器からの漏出と死体とが不浄と認定されたのか? これが問題になります(レビ記1章~16章)。この認定は、それが「死」に関係するからです。性器からの漏出は、命の源である精子と血を意味し、皮膚病の場合、その「外観」が特に重視されるのは、それが、死体と共通する現われ方をするからです。皮膚病が、「死が近づいている」しるしだと見なされたのです。だから、ミリアムが皮膚病にかかったことは、「死」を意味していたことになります(民数記12章12節)。
  「汚れ」の反対が「聖」ですから、「聖なるもの」は「命」に関わることになります。皮膚病が治癒することは、命が死に打ち勝ったことを意味します。祭司が、聖所において、民の罪を贖罪によって「浄める」とは、聖なる命が死を克服することを象徴する行為なのです(レビ記16章21~22節)。これは、異教世界における善霊と悪霊との宇宙的な闘いではなく、人間それ自体のレベルで、神の命と死とが闘い、命が死に勝つことを象徴する祭儀です。
  生と死の問題は、創世記9章5~6節のノア契約においても見ることができます。「暴虐」(ハーマース)とは、流血/殺人を意味します(エゼキエル書7章22~23節参照)。ノア契約は、人類全体を視野に入れた規定であり、人類には、「倫理的な規範」として、「流血」と「血を飲む」こととが禁じられ、イスラエルの民には、「契約規定」として、流血が禁じられます。
〔聖の時と俗の時〕イスラエルの民は、周辺諸国からの宗教的影響に曝(さら)されながらも、イスラエルの霊的な特性を決して見失うことがありませんでした。周辺の異教世界では、普段は世俗の時間の中で生活しながら、年ごとに周期的に訪れる「祭り」によって、民族や国家の「初め」を象徴する神話的な「太古の時」へ回帰することができました。いわば、古来の神話的な「太古の聖なる時間」への回帰が、普段の俗性の中に神々の聖性をもたらすのです。世俗の中にありながらも、周期的に訪れる「祭り」を通じて、これができるのは、神話の無時間性、言い換えると、神話の<非>歴史性によります。アマテラスもスサノウも、ゼウスもジュピターも、歴史的な実在の人物ではありません。日本の新年の祭りも、ギリシア神話のアポロン神への祭儀と同じく、太陽の運航、言い換えると「太陽神」への祭儀に基づいています。太陽の運行に由来する祭りは、宇宙の周期的な時間の流れに沿って年ごとに訪れます。だから、世俗の時間の中にありながら、その中へ神話的な「聖性」を帯びた時間を「周期的に」導入することができるのです。ギリシアでも日本でも、このようにして、宗教的な聖性が、世俗の時間の生活において保持されてきました。
  このような「聖と俗」の関係は、イスラエルの民によって、大きく変容することになります。イスラエルでは、周期的に循環する世俗の時間の中で、太古の「神話の時」が再演され再現されるのではありません。「神の言葉」が「語られる」とは、神の言葉が、人間の世界に現実となって「働きかける」ことです。その時に、必ず「ある出来事」が起こります。神の御言葉が働くことで、一連の出来事が、人間世界に「創り出されてくる」からです。この過程は「歴史」と呼ばれます。歴史は、周期的に循環するのではなく、神の言葉によって、ある目的へ方向付けられますから、歴史の時間は、直線的に終末を目指すのです。
 ちょうど、一人の人が「生まれ」て、やがて二人の人が、結婚の契約によって「結ばれる」ように、イスラエルの民は、神との「契約」という歴史的な出来事を通じて、神と結ばれます。新年は、年ごとの太陽の訪れですから、人類全体が一様に祝うことができます。しかし、クリスマスは、イエス・キリストの誕生という歴史的な出来事を祝うのですから、これを祝うのは特定の人に限られます。正月は、万人が祝いますが、誕生日や結婚記念は、その人個人の歴史的出来事だからです。
  実は、このことが、イスラエルの「聖性」に大きな変革をもたらすことになります。イスラエルの民の場合は、宇宙の流れに沿う世俗の時間の中で暮らしながら、その中に祭りの聖なる時間を周期的に導入するやり方ではなく、主の民が終末へ向けて進む歴史の中において、神の聖性が啓示されるからです。歴史の中に神の聖性が啓示される時、そこに生じるのが「救済史」です。非歴史的な神話から、歴史的な神との契約ヘ、これによって生じる救済史、この変容は、人類の宗教的な歩みに大きな変化をもたらすことになります。
  イスラエルでは、歴史とは、救済史にほかならず、救済史は、周期的な時の巡りを、ある目的へと「方向づける」ことによって、「その歴史的な歩みに聖化を生じさせる」のです。ここでは、聖性は、俗の世界に周期的に訪れるのではなく、神の言葉が俗の人間世界に働きかけることによって、人間の生活全体が救済史として「歴史化」され、そうすることで、常に「聖化」されるのです。
  新約聖書では、イエス・キリストは、受肉した神御自身として、人類の「歴史の中に」啓示されます(ヨハネ1章18節)。神の御子から降る御霊の聖性によって、現代人の世俗的な生活は、ある種の「透明性」を帯びるようになります〔ミルチア・エリアーデ『聖と俗』風間敏夫訳(法政大学出版局)108頁〕。イエス・キリストの御霊の働きによる純心で無垢な透明性こそ「キリストにある人」に具わる「清らかさ」であり、マタイ5章8節が言う「心の清い人」に具わる特性なのです。だから、新約聖書が啓示する「浄さ」とは、「聖なるもの」が歴史的な人物とその出来事を通じて「俗なる世界」に聖性を啓示することで、俗世が「清らかさ」を帯びることです。そこから、栄光への聖化が始まります(第一コリント10章31節)。
 ただし、新約聖書の「清さ」は、旧約での祭儀的な「浄/不浄」を完全に克服することで、旧約の祭儀的な規定を排除しますから、新約では、霊的で内面的な「清さ」のみが意味を持つことになります(マタイ23章26節)。「杯の内側をきれいにすれば、外側もきれいになる」(マタイ23章25~26節)のです。この改革は、イエスに始まりますが、パウロにおいて、さらに発展し拡大します。祭儀的な「動物の血による浄め」は、イエス・キリストの「血」に取って代わられ(ヘブライ10章18~22節)、祭儀的物理的な浄さから霊的な内面の浄さへの移行が生じるのです。このように、神に導かれる人間の歩みにおいて顕現する聖性は、歴史化されることで、終末へいたる聖化の過程を採ることになります(ヨハネ黙示録19章8節/同21章18節/21節)。
  イエスは「いかなる食べ物も清い」と見なしました(マルコ7章19節)。同様のことがペトロにも起こり(使徒言行録10章15節)、パウロもこれにならいます(ローマ14章14節/同20節)。「汚れた」動物も、「汚れた」異邦人も、もはや存在しないのです。新約のこういう「浄さ」は、ほんらい、天地創造の原初の浄さに源を持つものです(第一テモテ4章3~5節/テトス1章1~2節と同15節の結びつきを参照)〔TDNT(3)423ー429〕。
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