(9)弱い人たち
コリントの教会へ戻ります。わたしたちは、今回、ユダヤ人キリスト教徒たちのように、モーセ律法を重視する人たちが抱く「汚れ」思想、「いかなる偶像にもかかわってはならない」という狭く厳しい警戒心に出逢います。しかし、同時に、どのような偶像もイエス・キリストの御霊にある自由の前には、完全にその存在意義を失っていると見なすアポロ派(?)の強い「自由信仰」の理念とも出合います。コリントの教会内では、この全く異なる「浄・不浄」への信仰が相対立して、パウロを困らせていたのです。
ここでパウロは、人の「内面の意識」に注目することになります。「偶像への供え物(の肉)」(原語は1語で「エイドーロストン」の複数形)については、第一コリント8章と10章14~33節で扱われています。ところが、そこで述べられている彼の論旨は、一直線ではありません。まず、「世の中には偶像など存在しない」という強い自由への信念が語られます(8章1~6節)。ところが、続く8章7~13節では、「良心が弱い者」への配慮が必要だと告げられます。さらに、10章14節~22節では、キリストの血と体に与る聖餐を引き合いに出して、「偶像にまつわる悪霊を避ける」よう警告されます。しかし、続く10章23節以下では、公共の場などで未信者や異教徒も交えて食事をする時には、「良心であれこれ詮索しないで、何でも食べなさい」(27節)と言われるのです。ところが、その「良心」とは、自己の良心のことではなく、他人の良心をも含むのです。「偶像礼拝」(エイドーラトリア)を避けて、「偶像への供え物」(エイドーロストイ)を食べることで、「すべての点ですべての人の益を図る」(10章33節)のは難しいです。
ところで、「強い」「弱い」というこの言い方は、55年の末頃、コリント滞在中に書かれたローマ人への手紙に出てくる用語です(ローマ15章1~2節)。まだローマへ行ったことのないパウロですから、コリントの教会の人たちが、彼の念頭にあったのは間違いないでしょう。この「強い」と「弱い」をめぐっても諸説があります。強い異邦人キリスト教徒と弱いユダヤ人キリスト教徒、改宗したばかりの弱い異邦人キリスト教徒と成熟した強いキリスト教徒、知識層と無教養な人たち、社会的地位の高い者と低い者、肉を食べる富裕層と滅多に肉に与ることができない貧困層、家庭で肉を食べることと神殿の境内で公に食べる場合の違いなどなど、「自由」と「偶像の汚れ」の間には、個々の事情による具体的な状況が重なります。ちなみに、マルコ2章25~26節では、ダビデの場合に関連して、「聖なる物」を「俗人が食べる自由」についてイエスの口から語られています。
パウロのこういう曲折した論旨からは、「自由の仮面をかぶっても、所詮は旧約の律法の要求に屈するのか」というつぶやきも聞こえてきそうです〔Thiselton.
The First Epistle to the Corinthians.608〕。いったい、第一コリント8章7節と12節との間で、あるいは、10章27節と29節との間で、パウロが言う自分のあるいは他人の「シュネイデーシス」(8章10節)とはなんでしょうか。「過敏な警戒心/自己の良心/他者への良識/他者の意識/自己中心的な意識」などの解釈がありますが、要するに、人間の内面と意識の有り様を指していると理解して良いでしょう。この場合に大事なのは、強い人からの弱い人への愛による思い遣(や)りの心です。だから、パウロは、「強い人」たちが、「弱い人」に対して、どのような心構えで接しなければならないかを次のように言うのです。
強いあなたが、異教の神殿の境内で、偶像に供えられた肉を良心の咎めなく食べている時に、もしそこに、入信して間もない偶像に敏感な異邦人キリスト教徒か、あるいは、律法に敏感で偶像に警戒心の強いユダヤ人キリスト教徒など、過敏なまでに警戒心を抱く「弱い」人が居合わせた場合に、彼は、あなたが単なる「供え物」だとして食べている姿を見て、やましい気持ちを抱きながらも、つい「感化されて」、その肉が<偶像への犠牲として献げられた>ことを<意識しつつ>も食べるではないか。あなたは、イエス・キリストの聖餐に与っているから、自分には、偶像などはもはや無意味だと思うかもしれない。しかし、あなのその「知識」のために、キリストを信じて偶像から離れたはずのその信者が、心に偶像の存在を実感するなら、彼の良心が汚されて侵害されることになるだろう。イエス・キリストは、その兄弟のためにも死んでくださったのである。だから、あなた自身の知識に基づく「自由」は、他者(特に兄弟であるキリスト教徒)への愛によって制限されなければならない〔8章10~11節の意訳〕。
キリスト教徒でない人(異教徒)から食事に招かれたり、異教徒を交えての公共の場での食事の席では、いちいち自己の良心に相談することなく、出された物は何でも自由に食べなさい。しかし、もしも、食べている途中で、招いてくれた異教徒のホストが、おそらく善意から、「あなたが食べているのは偶像への供え物ですよ」と注意をうながす場合、もしくは、同じ席に招かれている弱いキリスト教徒が、あなたにそのように言う場合、あなたは、食事の途中でも、その肉を食べるのを止めるほうがいい。そうするのは、食事によって「あなたの良心」が汚されるからではない。注意した「他者の良心」が汚されることがないためです〔10章27~29節の意訳〕。
「偶像」に触れる者には、偶像の「汚れが移る」と言われますが、ここでパウロ語っている「弱い」キリスト教徒の「意識」あるいは「良心」が犯される「汚れ」とは、かつての古代のイスラエルの信仰のように、「物から移る汚れ」という性質のものではないようです。そうではなく、弱い異邦人キリスト教徒の場合は、かつて自分が信じていた偶像への供えの肉を食べることで、その偶像を内面的に「意識する」そのこと自体が、その人を汚すことになるからでしょう。使徒教令は、偶像への供えの肉それ自体が汚れをもたらすと教えるのですが、パウロが言うのは、そうではなく、偶像の実在をその人が「内面において意識する」ことによって、彼の「良心が」汚れに染まるのです。あえて言えば、たとえ無害な物でも、汚れだと<意識してしまう>ところに汚れが発生するという独特のパウロの「意識汚れ論」が潜んでいます。
一連のコリント書簡の後で、パウロは、ガラテヤでの律法問題と、コリントでの内面的な汚れ意識とをイエス・キリストの御霊の働きと関連づけることで、パウロ神学を体系化します。これを書き記したのがローマ人への手紙です。ローマ人への手紙で語られている律法観、人の内面に「罪をもたらす律法」(ローマ7章7~12節)というパウロ独自の律法観が生み出される根拠が、すでに、コリントの信者に宛てた御霊にある倫理の中からも読み取ることができます。特にローマ14章13~23節には、彼のコリントの教会へ宛てた偶像に関する複雑な論旨がみごとにまとめられています。「主イエスの御霊の働きにあって、わたしは確信する。物それ自体で不浄なものなど何一つない。だが、不浄だと<見なす想い>がその人に不浄をもたらす」(ローマ14章14節)のです。「意識」と「良心」は、ここでは一体です。「神が浄いとする物をあなたが汚れだとしてはならない」(使徒10章15節)というペトロへの告知は、御霊にある啓示としてパウロの場合にもあてはまります。弱い人へは、その人の内面の意識が、イエスの御霊の働きにあって変革されることで解決が与えられるのですが、パウロはそれが、イエス・キリストの十字架から注がれる赦しの愛によって初めて、可能になることを強い人にも弱い人にも悟らせようとするのです。
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