【付記】(1)コヘレトの言葉の「空」
 ここで、「コヘレトの言葉」における「空」に触れることで、仏教とユダヤ教との出合いついて触れてみたいと思います。この文書が提示するイスラエルの知恵思想は、それ以後のユダヤ教、例えばシラ書の作者に影響を与えているだけでなく、新約の知恵思想にもその影響を及ぼしているからです。コヘレトの言葉の思想には、仏教の伝来を読み取ることができます。インドのアショカ王が、仏教の僧侶を前3世紀のセレウコス王朝とエジプトのプトレマイオス王朝に派遣したことが記録されていて、このことから、遅くとも前205年には、コヘレトの言葉の作者も、エルサレムで仏教に触れる機会があったと推定されるからです〔George Burton, The Book of Ecclesiastes. ICC. Edinburgh T&T Clark(1912/1980).27.〕。
 コヘレトの言葉の「空」にあたるヘブライ語は「ヘヴェル」です。この語は、旧約聖書中で73回ほどでてきますが、そのうちのほぼ半分の38回をコヘレトの言葉が占めています〔TDOT(3)313〕。初出はイザヤ書30章7節「エジプトの助けは空しくはかない」でしょうか。このユダヤ系アラム(バビロニア)語には、「暖かい息」「微風」「湯気」の意味があり、転じてこの語は、人間や事物の「はかなさ」「頼りなさ」を意味するようになります。類語の「ルアハ」(息/霊)に比べると「見える姿が移ろう」という意味が強く、これが「虚栄」をも指すことになります〔TDOT(3)317〕。
 コヘレトの言葉には、「空」(ヘヴェル)に含まれるほとんどすべての意味が表われます。この語は、「空しく風を追う」とある「風/霊」と共に用いられ(1章14節)、人と動物の霊の空しさ(3章19節)、若さと青春の空しさ(11章10節)、影のような人生それ自体(6章12節)、太陽の下に生じるすべての事象(2章17節)、善(人)と悪(人)との価値観の空しさ(8章14節)など、「空」はこの世界全体を規定するものです。このような「空」は、人知の及ばない「理解不可能」な神の謎をも想わせます。したがって、この「空」は、人間の「言葉の空しさ」にも及びます(5章1節/6節)。
 このような「空」に対置されるのが「利得」であり、人の業による「業績/結果」であり、「報酬」(2章10節)であり、「善いこと/幸せ」(2章3節)です。そこには知恵そのものの「空しさ」さえ語られています(2章15~16節)。ここには、「すべてのこと」に向けられる価値観、と言うより「無価値」観があります〔TDOT(3)319〕。この「空」は、伝統的なすべての価値体系と「知恵」を破壊し、人生の目的それ自体さえ喪失しかねない危機を招くのです。コヘレトの言葉の作者のこの透徹した洞察が行き着くところは、「空である」という叙述形式そのものさえも消えて、ただ「空」のみという事態に達します〔TDOT(3)320〕。 イスラエルの思想で、ここまで徹底してこの世の営みをその根底において否定し相対化した文書はありません。このような透徹した「空」思想は、東洋的な無常思想へつながるのか、それとも、この世のすべての価値体系を全く新たに創造し直す「神の裁き」へ向かうのか、そのどちらにも方向付けられるでしょう。
 「神の裁き」とは、人間と人間の営みそのものを根底的に脅かす終末的な神の裁定です。イエスが伝えた「神の国」思想もまた、現存する宗教を含むこの世の営みのいっさいを根源的に脅かすほどに透徹した「価値観の逆転」をもたらしました。現世の価値観をこれほどまで脅かす思想の背後には、コヘレトの言葉とイスラエルの知恵思想伝承がある。こう想定することができるでしょう。この意味において、コヘレトの言葉は、イエスの神の国思想へ道を開く素地の一つになったのではないでしょうか。
                  エフェソ書簡の霊性へ