パウロの伝道年表

6?

 

誕生。

33

 

回心。

34

 

アラビアへ 。

34〜37

 

ダマスコ。

37

 

1回エルサレム訪問。ペトロとの出会い。

37〜?





 







 

バルナバと共にシリアとキリキアへ第1回伝道旅行
シリアのアンティオキアからオロンテス河/陸路でセレウキアへ。海路でキプロス島のサラミスへ徒歩で同じ島のパフォス海路でベルゲ陸路ピシディアのアンティオキアへイコニオンリストラへデルベへ。デルベから再び元の行程を繰り返して、アンティオキアからアタリア港へ海路セレウキアへ?シリアのアンティオキアへ。

45〜46
 


 

シリアのアンティオキア滞在。

【注意】この年表は以下で、マフィー=オコウナの説に準じてエルサレム会議の後期説を採用していますから、年代が通例より1年ほど早くなっています。 

47


 

1月頃

エルサレム会議(早期説)
バルナバと共にエルサレム会議に出る。エルサレムへの第1回献金旅行〔エレミアス『聖餐のことば』217頁〕。この時テトスを同伴して割礼を受けさせる(ガラテヤ2章3節)。
アンティオキアからシラスを伴って第2回伝道旅行へ









5〜9月





アンティオキアから陸路タルソスへ。そこからデルベ、リストラ(ここでテモテを伴う)、イコニオン、ピシディアのアンティオキアを通り、ピシディアのアンティオキアから真っ直ぐ北上して、ほんらいのガラテヤ地域の中心地アンキュラまで行く。47年9月〜48年5月まで北ガラテヤに滞在し伝道(北ガラテヤ説)。/アンティオキアからフリギアへ出て、西へ向かう南ガラテヤ説もある〔フランシスコ会訳聖書地図〕。

47〜48

9月

 

啓示を受けてアンキュラから西へ向かい、ムシヤ州のハドリアノテライを経て、アソスから海路でトロアスへ向かう〔『ネスレ・ギリシア語原典』(2013年)裏表紙地図〕〔旧約新約聖書大辞典付録地図U〕〔Litsa Hadjifote. Saint Paul. Athens: Toubis.24-25〕。この時ルカも同伴していた?(使徒言行録11章16節の「わたしたち」を参照)〔Litsa Hdjifoti. Saint Paul.54.〕。

48

 

 

 

 

 

 

49


 




 

夢のお告げを受けてパウロとシラスとテモテはトロアスから海路でマケドニアへ渡る(使徒16章9〜10節)。サモトラケ島に立ち寄り、タソス島の北側を通りネアポリス(カヴァラ)港へ(使徒17章1節)。そこからフィリピへ。フィリピからアンフィポリスを経てテサロニケへ(48年9月〜50年4月まで)。テサロニケで騒動。3名はそこから内陸のベレアで伝道(使徒17章10節)。シラスとテモテはマケドニアに残る(使徒17章14〜15節)。

50



 

4月



 

パウロだけが沿岸のピュドナへ。そこから、海路でアテネへ向けて直行する(?)。/あるいはベレアから海路でギリシアの内陸に近いラミアへ。ラミアから陸路でテーベを経由してアテネへ向かう? ここでテモテとシラスを待つ?
アレオパゴスでの説教(同22節)。第一テサロニケ人への手紙(A)2章14節〜4章2節〔Murphy-O'Connor.105-107.〕。
パウロは陸路メガラを経てコリントへ(海路だとすればアテネからケンクレイアまで)。アキラとプリスキラ夫婦に出会う。

51

 

コリントで伝道。シラスとテモテが合流(使徒言行録18章5節)。第一テサロニケ人への手紙(B)1章1節〜2章12節+4章3節〜5章28節。その後しばらくして?(B)に対する誤解を解くために第二テサロニケ人への手紙を(オコウナ110〜14頁)。
ガリオンがアカイア州の地方総督として着任(7月1日?)。ガリオンのアカイア州での任期は51〜52年/52〜53年である〔Murphy-O'Connor.Paul.19-22.〕。パウロの1年6か月とガリオンの任期との正確な対応は確認できない〔Conzelmann. Acts.153.〕。

パウロが訴えられるが、訴えは却下される(使徒18章12節)。








 

9月






 

アキラ夫婦と共にケンクレアイからエルサレムへ向かうために船出(使徒18章18節)。エフェソへ到着。
エフェソからカイサリアに到着(使徒18章22節)。アキラ夫妻はエフェソに滞在。
この頃アポロがアレクサンドリアから(?)エフェソへ来る。彼はプリスキラとアキラからパウロの伝える聖霊の働きを教えられる。
パウロはバルナバと共にエルサレムへ向かう。
第2回エルサレム訪問(ガラテヤ2章1節)。

 

10

エルサレム会議(後期説)(ガラテヤ2章3〜10節)

52
 


 

シリアのアンティオキア教会を訪問。
ペトロとパウロの間で異邦人キリスト教徒との食卓事件(後期説)(ガラテヤ2章11節)。


 


 

パウロはアンティオキアの教会から独立する。
アンティオキアから第3回伝道旅行へ(使徒18章23節?)







 







 

陸路でタルソスへ。タルソスからキリキア門を通り、北上して北ガラテヤ地域のアンキュラに滞在(北ガラテヤ説)。/あるいはデルベ→リストラ→イコニオン→ビシディアのアンティオキアを経由して、ガラテヤ北部のフリギアに滞在(南ガラテヤ説)。
この頃アポロがエフェソからコリントへ来て、コリントのパウロの教会で受け入れられる。彼は独自の教理的なスタイルで語る(使徒18章27〜28節)。

 

パウロがアンキュラから南下してエフェソへ到着。

パウロが洗礼者ヨハネの洗礼を受けた弟子のために異言を伴う聖霊の授与を祈る(使徒19章1〜7節)。

 

 

この頃ユダヤ主義者たちがガラテヤへ来る(ガラテヤ1章7節)。この頃すでにシリアのアンティオキアからユダヤ人キリスト教徒がフィリピ(とコリント?)へ派遣されていた。

52〜53

エフェソを拠点にアジア州で伝道(使徒19章)。

53

エパフラスをリュコスの谷地方(コロサイなど)へ派遣。

 

 

ガラテヤから悪い知らせが届く。

ガラテヤ人への手紙


 


 

フィリピの教会から贈り物。フィリピ人への手紙(4章10節〜20節)


 


 

エフェソで騒動。パウロたち逮捕され、パウロは投獄される(使徒19章23節)。フィリピ人への手紙B(1章1節〜3章1節+4章2節〜9節。




 




 

エパフラスがエフェソへ戻る。その後投獄される(フィレモン23節)。ルカ文書の著者「愛する医者ルカ」もパウロを援助する(コロサイ人4章14節/フィレモン24節)。


 


 

牢獄からフィリピ人への手紙(3章2節〜4章1節)。パウロの警告を受けてフィリピの教会はパウロを支持する。

 

 

コロサイ人への手紙(パウロ説)/フィレモンへの手紙

 

 

アポロがコリントからエフェソへ戻る。パウロが釈放される?

 

パウロがコロサイ方面へ旅行か?

53〜54

エフェソに滞在。

54



 





 

コリントの女性の商人クロエが商用で人をエフェソへ派遣(第一コリント1章11節)。パウロはコリントの教会に問題を感じる(第一コリント3章1〜9節/5章1〜8節/11章2〜16/同17〜34節)。アポロからコリントの事情を聞いたのか(?)、パウロは、今は失われた最初の手紙」をコリントの教会に送る?〔エレミアス『聖餐のことば』215〜16頁〕












 












 

5月の始めパウロはテモテをコリントへ派遣(第一コリント16章10節/同4章17節)。テモテ5月半ば頃コリント着。
テモテと行き違いに、ステファナ、フォルトナト、アカイコがコリントの教会の質問の手紙(第一コリント7章1節)を携えてエフェソに来る(第一コリント16章17節)。
彼らから直接事情を知ったパウロは、第一コリント人への手紙を書く(6月2日以前)(第一コリント16章8節)。
6月半ば?テモテがコリントからエフェソへ戻る。シリアのアンティオキアからコリントに来た一人の?ユダヤ人キリスト教徒がコリントの教会に影響を与えているとの知らせをパウロが受ける。 




 

6月末〜7月初め

パウロは急遽エフェソから海路でケンクレア港を経由してコリントを訪問する(第二回と第三回の間の「中間訪問」で「苦痛の訪問」と呼ばれる)。コリントの教会によるパウロと敵対者とのどちらにも「中立的?な姿勢」にパウロは不安を覚える。









 

7月半ば
過ぎ





 

ユダヤ人キリスト教徒がマケドニアでも働きかけていることを案じて、パウロはコリントから陸路でラミア→テッサリア平原を通りオリュンポスへ出て、テサロニケ(マケドニア)へ(日に32キロとすればほぼ3週間)〔Murphy=O'Connor.296.〕。
〔注〕パウロの最初の計画はマケドニア→コリントであった(第一コリント16章5〜6節)。しかしコリント→マケドニア→コリント→ユダヤへ変更した(第二コリント1章15節)。再度変更してコリント→マケドニア→エフェソになった(第二コリント2章12〜13節)。



 

8月
初旬
 

マケドニア諸教会に歓迎される(第二コリント8章1〜8節)。
マケドニアのネアポリスから海路トロアスへ。そこから徒歩でエフェソへ戻る(350キロ)。テモテはマケドニアに残る。

 

秋 

エフェソに滞在のこの頃に、パウロは、コリントの敵対者によるパウロへの非難の知らせを受けたと思われる。そこで、パウロは、いわゆる涙の手紙」〔岩波訳〕を書く。これがいわゆる「失われた手紙」だと見る説がある。また、現存の手紙の一部だと見る異説もある。




 

10

募金をもかねて、テトスに手紙を持たせて、コリントへ派遣する(第二コリント12章8節)。パウロは、トロアスからマケドニアへ(第二コリント2章13節)。

55






 








 

マケドニア滞在 。

 

コリントから戻って来たテトスに会う(第二コリント7章6〜7節/同13〜15節)。先の「涙の手紙」が、コリントの教会に受け容れられたという朗報に接する。第二コリント1章〜9章を書き始めるか? 

 

第二コリント10〜13章を書く(ただし、前半と後半の執筆時期には異説がある)。テトスの希望を容れて、すでに実施されていた献金募集(第一コリント16章1〜4節)を進めるため、書簡を持たせて彼を再度コリントへ派遣する(第二コリント8章6節/同17節)。その際一人の同伴者を共に行かせる(第二コリント8章18節)。
パウロエフェソへ戻る(?)。先の47/48年のパレスチナの飢饉に続いて、54/55年にもエルサレム教会が窮乏することになった〔エレミアス前掲書217頁〕。










 










 

フェソから陸路でスミルナとペルガモンを経由してアソスへ。そこから海路でトロアスを経てネアポリスへ着く。そこからテサロニケへ。テサロニケからギリシアを西へ横断してイルリコンの南部ヘラクレイアとクニドスを通りアポロニアを経由して東海岸沿いに(?)南下し、コリント湾を渡りパトライからコリントへ来る〔新共同訳付録地図〕〔『旧約新約聖書大事典』付録地図U〕。/あるいはベレアからテッサリア平原を南下してテーベを経由してコリントへ〔バイツェル『聖書大百科』(2013年)312頁〕〔新共同訳〕。/テサロニケからケンクレイアまで海路(?)〔フランシスコ会訳聖書地図〕。これら三つの説がある。

56 

コリント滞在(三か月)。ローマ人への手紙





 





 

コリントから陸路テーベを経由してラミアへ。そこから東海岸沿いに近い陸路で北上し、ベレアからテサロニケへ〔『旧約新約聖書大事典』付録地図U〕。テサロニケからフィリピへ。フィリピからネアポリスを経て海路でトロアスからアソスへ。アソスからサモス島トロギュリオンを経てミレトスへ。




 




 

ミレトスからクニドス島のコスを経て、ロドス島のロドスへ。ロドスから、アジア州南端のパタラを経由してパレスチナのティルスへ。そこから海路でプトレマイオスとカイサリアへ。そこからは陸路でエルサレムへ。

57

 



 

第3回エルサレム訪問とパウロの逮捕。ただしエルサレムでの投獄を55年とする説あり〔エレミアス前掲書217頁〕。
カイサリアへ護送される。

57〜60

 

カイサリアで拘留されて滞在。

61?




 

9月




 

ローマへ向けて出発 。カイサリアから海路でシドンへ。そこからセレウキアを経由してタルソスへ渡り、そこからアジア州最南端のミュラへ。そこからロドス島のリンドスを経て、クレタ島の南海岸の「善い港」へ。そこからマルタ島の北海岸の港へ。そこからシチリアのシラクサへ。そこからイタリア本土のレギオンを経由して、プテオリへ。そこからは陸路でローマへ。

62

ローマへ到着。

62〜64

 

ローマで拘留されて滞在(この間に処刑による殉教説が多い)。63年に釈放される。

64

スペインへ向かう?

65 

 

スペインからローマへ?エーゲ海へ。

65〜66

 

テトスと共にクレタ島で宣教する(テトス1章5節)。テトスをクレタに残し、ニコポリス(現在のギリシア本土の西部エピルス州のアドリア海に面した港町)で冬を過ごす(テトス3章12節)。テトスへの手紙エフェソへ戻る。テモテをエフェソの監督に任命し、単身でマケドニアへ向かう(第一テモテ1章3節)。途中トロアスで再び捕らえられる?(第二テモテへの手紙4章13節参照)。ローマへ送られ裁判を受ける(第二テモテ4章16節)。第一テモテへの手紙途中でトロアスで再び捕らえられる?(第二テモテへ4章13節参照)。ローマへ送られ裁判を受ける(第二テモテへ4章16節)。第二テモテへの手紙

*これら三つの司牧書簡については、パウロの覚え書きなどの資料をもとにしたパウロの弟子によるとする説/あるいは全くの偽書と見なす説などがある。この場合の執筆は100年頃?〔以上はフランシスコ会訳聖書:第一・第二テモテへの手紙とテトスへの手紙への解説による〕。

67

 

ローマで殉教。

 

注】この年表は、主としてJerome Murphy-O'Connor. Paul: A Critical Life. Oxford (1996).に基づいていますが、それ以外のものも参考にしました。特にMurray J. Harris. The Second Epistle to the Corinthians. Eerdmans & Paternoster Press.(2005)pp.102--105.からも採り入れました(第二コリント人への手紙を分割せず、一つのまとまりと見ている)。また、筆者(私市)の解釈も採り入れています。 諸説がある中からの選択ですから、確定的なものではありませんが、ご参考にしていただければ幸いです。

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