「自然の体」と「霊の体」
今回、編集者から与えられた課題は、パウロが言う「わたしたちの滅びゆく外側の人」と「わたしたちの再び新しくされていく内側の人」の関係です(第二コリント4章16節)。この箇所の「人」は単数ですから、「外の人たち」と「内の人たち」のことではなく、主イエスの御霊にあるわたしたち一人一人の個人的な有り様のことです。パウロはこの二つの関係を「自然の体で蒔かれて、霊の体に復活する」(第一コリント15章44節)と言い表わしています。
■パウロの「肉」と「霊」
パウロは「わたしたちはもはや、肉に縛られ肉的な欲望で生活する存在ではない。もしも肉に従うなら、あなたがたがは死ぬことになる。もしも霊によって肉体の働きを殺すなら、あなたがたは生きることになる」(ローマ8章12〜13節)と言います。ここでは、「肉」(サルクス)と「肉体」(ソーマ)が関連し合っていますが、パウロが言う「肉」とは「身体/体」のことではなく、ともすれば神に逆らおうとする性(さが)を具える人間のことです。パウロは、ヘレニズムの教育を受けて育ったために、当時のストア哲学の影響を受けていますから、人間を肉体と霊魂に分けて見る二元論的な立場から、ともすれば肉体を否定的に、霊魂を肯定的に見る傾向があります。
しかし、ヘブライの伝統的な見方からすれば、人間は「霊魂」と「肉体」の二つから成り立つ存在ではなく、わたしたちの肉体も心も、その両方に働く霊も、人間存在全体が主(ヤハウェ)なる神の命によって生かされ支えられているのです。だから、神から切り離されることは、そのまま「命」から切り離されることであり、逆に<神と共にある>ことは、その霊も肉体も共に神の命に与ることになります。
こういうヘブライの生命観は、捕囚期以後の前3世紀末に、ユダヤがギリシア系王朝の支配下に入ると、その影響を受けて、人の霊魂を肉体から区別する傾向を帯び始めます。しかし霊と肉体を一つに観るヘブライの伝統は、その後も基本的に受け継がれて、イエスを始め、新約聖書にもこういう人間観が根底に流れています。ユダヤ人であるパウロの生命観にもこのヘブライの伝統が受け継がれていますから、「霊によって肉体を<殺す>」とあるのを「霊」と「肉体」とが対立関係にあって、一方を生かそうとすれば、他方が失われるという見方をすると、パウロの人間観を読み誤るおそれがあります。イエス・キリストの御霊は、わたしたちの身体に働いて、これを活かして用いるからです。なお、ローマ8章12〜16節の「霊」は、肉の働きを宿すわたしたちの肉体に働きかけて、肉体を霊体の形成へ向かわせる聖霊の働きのことです。神が御子を通じて遣わす聖霊ですから、わたしたちが「神の子」だと証ししてくださるのです。この「霊の働き」とその結果形成される「霊体」とを同一視することはできませんが、以下では両者が密接に関係していることを含んで「霊体」を見ていくことにします。
■霊の体
では、パウロが言う「自然の体で蒔かれて、霊の体に復活する」とはどういう意味でしょう。ここでは、「霊体」が「肉体」と対応しています。「霊体」のことを「霊的存在」「霊的実存」などと哲学的な言い方をしたり、あるいは「霊性」や「霊の姿」などやや広い意味で言うこともできます。しかし「霊の体」は、哲学的な概念では言い表わすことのできない具体的な内容を帯びています。
わたしたちにとって肉体は実に具体的です。わたしたちの振舞いや行動だけでなく、わたしたち自身の心や思いも「肉体を通じて」表現されるからです。わたしたちの語る言語をも含めるなら、わたしたちの人格的霊性は、肉体を通じて表現されます。わたしたちの肉体は、必ず特定の場所にあります。しかも、わたしたちの肉体が置かれているその場所が、同時にわたしたちの「今の時」なのです。わたしたちは、ある場所に居ながら、「想い」はその場所を離れて、ほかの場所やほかの時間をさまようことがありますが、それでは、聖霊がわたしたちの「体」に働くことはzdできません。なぜなら、「御霊にあるわたし」とは、わたしたちの「体」が置かれている「その時その場」、言い換えるとわたしたちの「今」と切り離すことができないからです。御霊は、わたしたちの体が在る「今」の具体的な「場」でしか働くことができないのです。「霊体」は、こういう具体的な「肉体」と対応しているのです。
「霊の体」の「霊」とは、イエス・キリストを通じて父なる神がお遣わしになる聖霊のことで、これは「イエスの御霊」「キリストの御霊」とも呼ばれます。「聖霊」は、神学的・哲学的には人間存在を超える宇宙的な広がりを含む内容を具えています。しかしイエスの御霊が、わたしたちの日常生活のその時その場に即して働いてくださる時、わたしたちに「霊の体」が実現するのです。肉体がわたしたち一人一人の霊性を現わすのと同じように、霊体は、共いてくださるイエスの御霊を通じて具体的に表現され、わたしたちの肉体に働きかけて、その身体機能を生かし支えるだけでなく、わたしたちの語る言葉を通して人にイエス様の御臨在を伝えます。だから御霊は、わたしたちの振舞いや行為を「正しく」導くのです。これがパウロの言う「御霊に導かれて歩む」ことであり、この時わたしたちの体は、「導かれて歩む」とあるとおり、受動的でありながら能動的に働きます。この受動的能動にあって「信仰」か「行ない」かという区別は信行一如となり解消します。
■自然の体
生命が地上で同じような生命を生み出して死んでいく、するとその子孫も同じような生命を地上に生み出すという<生命のめぐり>、これを生命の「再生」と言います。「再生」は、自然界に最も一般的に見られる生命の営みで、これは神による天地創造以来定められています。この場合、生命は次々に新たな生命を生みだしますが、それは、親の命と本質的に異なるところがありませんから、生命の再生の営みは、自然の「めぐり/循環」(サイクル)に従って生じます。これが、神が定めた「自然の体」に働く生命の法則です。
ナザレのイエスに宿った聖霊は、十字架と復活を通じて、わたしたち罪人をも覆い赦す「恵みの御霊」としてわたしたちの「自然の体(肉体))」に働きます。だから、「霊体」が「肉体」を「殺す」、前者が後者を「否定する」と考えるのは大きな誤りです。事態はむしろその逆で、霊体は肉体を<生かし強め>ます。御霊はわたしたちを導いて、日常の細々(こまごま)したところまで、その健康を守り、その生活を支え、その行為を導いてくださる。だからキリストの霊体にあるクリスチャンは、人間の体とその営みを肯定して、これらを生かすように心がけます。わたしにあってキリストが生き、キリストにあってわたしが生かされることをパウロは「キリストがわたしにあって生きる」(ガラテヤ2章20節)と言い表わしています。
では、霊体は肉体をそのまま肯定して、肉体の言わば<助け手>になるのかと言えば、そうでありません。霊体にあれば、身体の健康が保たれ、ことごとく順調で大成功間違いなし。こういう信仰を抱(いだ)く人もいるようですが、これも大きな誤解です。うっかりすると、人は、霊体を自分の肉体とその行為のために「利用しよう」とするからです。事実はその正反対で、神がお与えになる「霊体」のほうが、わたしたちの肉体とその営みを「用いて」くださるのです。それは、神がその創造の御業を成し遂げ、その栄光を顕すためです。これが「わたしたちクリスチャンに宿るキリスト、栄光の希望」であり、「今の時にクリスチャンに啓示された神秘」です(コロサイ1章26〜27節)。
■霊体の特長
肉体の再生に対して、霊体のほうは、このような自然のサイクルによる神の業とは異なる特長を帯びています。この違いを「滅と不滅」「死と生」「罪と義」「今の時と来たるべき時」の四つの側面から見ていくことにしましょう。
(1)肉体の命が滅び行く命であるのに対して、霊体の命は不滅です。「不滅」とは、「未来永劫」「代々限りなく」と訳されているように、「何時までも絶えることがない」という意味です。「永遠の命」と言うと、自然界と宇宙を超絶した無時間的な「絶対の永遠性」を想像するかもしれません。しかし、旧新約聖書の言う「永遠」は、そのような時間を完全に超越した哲学的な概念ではありません。ちょうど大宇宙の時間の動きのように「いついつまでも続く」という意味です。
イエス・キリストにあって一人一人に与えられる「霊の体」は、万象が過ぎゆく中でも無くなることがなく、しかも、滅び行く体の有り様のまさにその中から「創造される」不滅の霊体であるという不思議です。霊体それ自体も不思議なら、その霊体が肉体から創造されるという過程それ自体もまた「不思議」なのです。
(2)「死と生」について。肉体の命は生まれたときから確実に「死」に向かって歩み始めます。この「死に向かう肉体」の中にありながら、死に向かうことを<しない>命が、イエス・キリストにあって授与されるというのが新約聖書の福音です。ただしこれは、肉体の命が終わった<その後に>初めて与えられる霊体の命だと考えないでください。肉体と霊体の関係は、「この世の命」と「あの世の命」ではありません。また、肉体は無くなってもそこに宿る霊魂は無くならない、ということでもありません。霊体の命とは、死ぬべき肉体を<通じて>正反対の命が創り出されていく事態だからです。人が己の肉体にあって主にある歩みを続けるなら、その肉体に<対応する>霊体の命が創り出されていくというのが新約聖書の使信です。わたしたちが、主の御霊にあって歩み続けるなら、わたしたちの生まれつきの人格に<対応して>霊的な人格が創り出され育成されていくのです。
(3)「滅と不滅」「死と生」に次いで、さらに「罪と義」について述べます。肉体は罪の欲望・衝動にとらわれ、罪の行為に陥る傾向があります。これに対して霊体は「神の義」を体現します。「罪」と言い「義」と言うのは、善悪・正邪を表わす価値観のことです。消滅する人類の生命に価値観が入り込むことで、人類の生き方が、他の動物には見られない不滅性を帯びるという不思議がここで生じます。ここでも大事なのは、罪の体そのものを<通して>罪を犯すことのない神の義を体現する「霊体」が、肉体を具えたままの人間にあって<すでにこの地上で>啓示されることです。これは驚くべき不思議であり、哲学的な言い方をするなら「逆説」です。罪の欲望に誘導されて消滅する「古い人」が、復活したイエスの御霊の創造の働きを受けることで、わたしたちの「霊と想い」が新たにされていくその過程を通じて、わたしたちの肉体が「新しい霊体」を<纏(まと)う>のです(エフェソ4章21〜24節)。「人の罪の中から神の義」が創造されるというこの不思議な矛盾、これこそ、ナザレのイエス様が、その十字架の贖いの業を通して、人類に与えてくださった神の恵みであり賜です。
(4)最後に「肉体」はこの世の命、「霊体」はあの世の命ではなく、肉体が現存する時期において、霊体の創造がすでに始まっていて、それは時と共に、時代と共に終末へ向かうことで成就され完成されることです。滅びの体から不滅の体を創り出す、死に向かう体から永遠の命に向かう体を創り出す、罪の体から神の義の体を創り出す、この世にある体にありながらこの世を超えた体を創り出す、これがイエス・キリストの十字架を通じて人類に贈られた神の福音です。このような神の創造の働きは、復活したイエスの御霊にあって成就される創造ですから、これを「再生する」命に対して「復活する」命と呼びます。
だから、神によって地上において行なわれている生命の働きには、自然のサイクルによる「再生」"regeneration"と、イエスの十字架を通して降る御霊による「復活」"resurrection"と、ふたとおりの生命の有り様があることが分かります。肉体の再生と霊体の復活、一方は自然のサイクルに従って生じ、他方はイエス・キリストの十字架の秘義によって生起する出来事です。再生は地球上に生命が誕生して以来の方法であり、復活は、二千年前に歴史のナザレのイエスの十字架から生じた神秘であり不思議です。わたしたちがまだ地上に生存している間に、十字架と復活のイエス・キリストを信じることで「生まれ変わる」こと、そこから新たに霊の体の創造が始まり、しかも、その霊の体は、わたしたちの肉体が消滅した後も、永遠に失われることなく続くという驚くべき業が、二千年前のパレスチナで、ナザレのイエスを通じて啓示されたのです。輪廻転生と言い、霊魂の永生と言い、極楽へ往生すると言い、現世の肉体の「死後に」始まる「命」なら、様々な宗教において見ることができます。しかし、今生きているこの時から、新たな生命の創造が始まる宗教は、新約聖書が伝えるこの霊的生命だけです。人類史上、今にいたるまで比類のないナザレのイエスによる永遠の命こそ、キリスト教が今の世に伝えるべき最大最高の福音なのです。
ちなみに、日本の出雲大社や伊勢神宮の遷宮の伝統には、背後に「甦り」の信仰がありますから、これは復活よりも再生に近いと言えます。古代においては、穀物の種が朽ちることで全く新しい生命が芽生えてくることも奇跡に近い不思議だと受け止められていました。前者(再生)は、後者(復活)が生起する基となるものですから、再生信仰は復活信仰の母なのです。再生は自然のサイクルであり、復活は歴史的な大転換ですが、人類がこの地上に出現して以来の宗教・文化・文明を支える人間の霊性の長い進化の過程から見れば、再生も復活も創造する神のみ手の業だと言うことができましょう。
■自然の体から霊の体へ
国の姿形を表わす「国体」と同様に、「霊体」も目に見えない「からだ」です。しかし、霊体の創造は、わたしたちの肉体においてすでに始まっていて、しかも見えない霊体と見える肉体とは異なります。では、この二つはどのように関わり合うのでしょうか?
パウロはこの事態を「自然の体が蒔かれて、霊の体が復活する」(第一コリント15章44節)と説明しています。アダムとキリスト、自然の体と霊の体、この二組のタイポロジーはパウロによって完成されました。土から生じる「自然の体」に宿る命(創世記2章7節)、これと対比され対応するのが、イエスの御霊から生じる「霊の体」に宿る命です(第一コリント15章46節)。「自然の体」が種として土に蒔かれると「霊の体」が生じるのですが、土なくして種は霊体としては育たず、霊体を生じさせる種なくして土は実を結ばないのです。「自然の体」の<霊的な死>を通じて初めて「霊の体」が生じるのです。
「自然の体」(ソーマ・プシュキコン)と「霊の体」(ソーマ・プニューマティコン)の関係をパウロは「最初の(人)アダムは生きた個体と成り、最後(のアダム)は命を創造する霊にいたる」(第一コリント15章45節)と言います。「生きた個体」は創世記2章7節のヘブライ語「ネフェシュ・ハィヤー」の七十人訳「プシュケー・ゾーサ」(原文では対格)の訳ですが、「ネフェシュ」は、「喉/息」のアッカド語?から出て、喉から個人の心情を吐露する具体的な主体のことです。だから「生きた個体」は、姿形を持つ個体として喉から心情を発する「人」、例えば「泣き叫ぶ人」「自分の心を注ぎ出して祈る人」のように「具体的に生きる」人のことです。これをギリシア語の「プシュケー」に惹かれて「生きている魂/霊魂」だと理解するのは正しくありません。「個体」ですから「生きている存在/被造物」という一般概念も適切とは言えません〔TDOT(9)503-504〕。
わたしは、こういう人間存在を「ホモ・レリギオースゥス」(宗教する人)と呼び、現生人類「ホモ・サピエンス」の基本的な性格を表わす人類学的な用語として用いています。「個体と<成る>」は神によって自然<発生する>ことです。一方「創造する霊」は神が個人に働きかけて<授与する>ことです。パウロは、自然の体を「土から生じる」生命体と見て、これを終末のアダム(イエス・キリスト)による「命を造り出す」御霊の働きと対比するのです。自然に発生する生命と創造する御霊による生命という自動詞と他動詞のこの不思議な対比は、アダムとキリストの対比だけでなく、イエス・キリストの御霊が現在もなお働き続けて、キリスト教徒を含むすべての個人が、その命に与ることを指すのです(第一コリント15章22〜23節)〔フランシスコ会訳聖書15章(注)16参照〕。
■神の創造と人類の変容
パウロは、「一人の人を通して罪が人間世界に入り込んだ」(ローマ5章12節)と述べて、ホモ・サピエンスに原初から具わる「宗教する人」(ホモ・レリギオースゥス)に潜む「原罪」の事態をみごとに洞察しています。「罪」とは、「宗教する人」の共同体が信頼関係で結ばれる際に、これと表裏を成して不可避的にまとわりつく敵対するものへの宗教的憎悪に根ざしているからです。人間の宗教共同体に潜むこの罪性を鋭く暴くのが「モーセ律法」であることをパウロは見逃しませんでした(ローマ5章12〜14節)。
しかしパウロは、モーセ律法が人間の罪性を暴くと同時に、その罪性を覆うことによってこれを変容せしめる「神の恵み」もまた働くと指摘するのです。ここでは、「宗教」が人類を救うのではなく、「宗教する人」である人類が、神からの罪の赦しにあって救われるのです。しかも神は、その「恵み」をイエス・キリストという「一人」の贖いの業を通して実現しました。一人のアダム(土の人)によって拡がった人類全体の罪は、ユダヤ教が伝えるモーセ律法によって暴露され、この罪状は、十字架にかけられたナザレのイエスという一人の人による贖いの業によって、「神の裁きから発する恵み」という驚くべき逆説を導き出したのです。一人のアダム(人)から発した人類全体の罪性こそ、人類全体にも及ぶ神の赦しを呼び起こす結果をもたらし、しかもそれが一人の贖いの業となって実現するという何とも奇妙な「アンバランス」な事態、これがパウロの提示する出来事です(ローマ5章15〜16節)。
だからこれを人類の「進化」とか「進歩」と呼ぶのはためらわれますが、自然界での生命進化の過程においては、継続と同時に驚くべき変容が生じます。同様に人類の自然体もまた、霊体による働きかけを受けて変容するとは考えられないでしょうか。自然の体に働きかける神による霊の体の創造を人類の進化の過程と同一視することはできませんが、かつては、卵を産む卵生のネズミが胎内に子を宿すようになり、地上を歩き回った小型恐竜が翼を得て空を飛ぶほどの変容を遂げたことを思えば、何百万年?か後には必ず滅びるであろう現世のホモ・サピエンス(英知の人)に代わる新たなホモ・スピリトゥス(霊知の人)へ向かう創造が、すでに始まっていても不思議ではないように思います。
■永遠の生命
聖書が言う「永遠」について言えば、ヘブライ語の「永遠」(オラーム)は、ほんらい「記憶にないほど昔から」の意味です。捕囚期以後のダニエル書では複数の「オーラミーム(もろもろの時代)」が多く、主として「王がとこしえに生きる」ことです(ダニエル2章4節/3章9節など)。これなどは日本の「君が代は、千代に八千代に」と類似しています。イザヤ45章17節の「代々にわたる救い」"the salvation of ages"は、ヘブライ語「オラーム」の複数絶対形の唯一の用法で、この複数形は「一定の期間」が幾つも連なることを意味します。
マカバイ戦争の時代に殉教者が復活するという信仰がはっきりした形をとるようになります(ダニエル12章2節/第二マカバイ7章)。知恵の書では、「義は不滅である」(1章15節)とあって、義人は不死・不滅であることが証しされます。知恵の書の著者はギリシア思想を熟知しているはずなのに、人間を二元論的に見る霊魂としてではなく、主の祝福こそが人を「不滅」にすると見ていることが注目されます(知恵の書7章6〜14節)。
ギリシア語の「永遠の命」が初めて聖書に現われるのは七十人訳ダニエル12章2節です。この用法は新約聖書に受け継がれて、ヨハネ17章3節の「永遠の命」へつながりますが、ヨハネ福音書に先だって、パウロは、「自然の人」として身体的に現存しているホモ・サピエンスが、イエス・キリストの十字架の死を通じて<霊的な死>を体験することを通じて「新たに生まれ変わる」ことを強調しています。パウロはイエスの十字架の死がもたらしたこの働きを重視して(ガラテヤ2章19〜21節/ローマ6章1〜8節)、この事態を「死は勝利に飲み込まれた」(第一コリント15章54〜55節)と言い表します。これは「死は命に飲み込まれた」/「死は復活のキリストに飲み込まれた」と同じ事態を指します。
ただし、パウロを含めて最初期のキリスト教会は、イエス・キリストが、自分たちの存命中に再臨すると信じていました(第一テサロニケ4章13〜18節)。こういう「差し迫った」終末観にあっては、聖霊が授与する霊体を「朽ちる肉体に<現在において>まとう」ことよりも、すぐにも救いが成就して自分たちの霊体が<完成される>時を期待する傾向があります。だからパウロの場合は、将来における救いの成就を待ち望むよりも、終末の到来を現在に投影させているというほうが適切でしょう。
パウロのこの信仰を受け継いでいるのがヨハネ福音書です。「永遠の命」はヨハネ福音書に17回ほど(11章25節を含む)でてきます。ユダヤ教で言う「命」は、この世と死後との「二つの時代」と対応していましたが、ヨハネ福音書では、「永遠の命」とは「現在すでに」授与されている事態のことです(5章24節/11章24〜25節)。だから、パウロとは逆に、今の時に授与されている事態を将来の終末と重ねる傾向があります(ヨハネ5章24〜25節を28〜29節と比較)。ヨハネ福音書では、「イエスに宿る生命」が、「渇く水と渇かない水」(ヨハネ4章)、「朽ちる食べ物と永遠の食べ物」(6章)のように、人類の滅性 "mortality" と、イエスの霊的な生命の不滅性 "immortality" として対照されています。神は、ナザレのイエスの出現という歴史的な出来事を通じて救いをもたらしました。ヨハネ福音書は、その著作の目的を「イエスが神の子キリストであることを(読者が)信じて、イエスの名によって<命を得る>ためである」(ヨハネ20章31節)と述べています。イエスに宿る永遠の命は、イエスの生涯を通してこの世に啓示されました。それだけでなく、その受難と復活を通じて、イエスの弟子たちへ、そして全人類へと現在もなお働き続けているのです。
*この記事は、編集者の依頼を受けて雑誌『舟の右側』(2017年5月号)に掲載されたものです。