詩編の招き
はじめに
1982年から1989年までの間、現在の季刊誌『コイノニア』の前身とも言える個人誌『光露』(56号〜85号)に、「一日一篇」と題して、詩編の中から私なりに選んだものに訳註をつけて出したことがある。それから30年近く経った今(2011年)、読み返して、改めてこれを世に問いたいと思うようになった。そこで、なるべくもとの形を活かしながら、自分なりに選んだものを書き加えたり改めたりして『コイノニア』に載せていくことにした。以下は、その折に載せた「前書き」である。もとが書き言葉なので、今回からのものも書き言葉で続けたいと思う。
いつの頃からか、私は、毎朝詩編を一つずつ読むのが習慣になった。朝早く起きて、慌ただしく身支度をして出かけるまでの間に、あるいは勤めている大学へ行くまでの車中で、聖書の中から何かまとまった一節なり一文なりを読みたいと思う時、詩編ほどぴったりこの要求にこたえてくれる書はない。しかも、一度読んだからといって、翌日は又別なものを読まなければならない義理はどこにもない。翌日も、その又翌日も、同じ詩を繰り返し読むことだってあっていい。あっていいどころか、私などは、そうやって一か月ぐらい一つの詩を読むことがある。
毎日同じ詩と付き合っていると、毎朝出会う親しい顔のように、神のみ言葉に朝の御挨拶を送らないと一日が始まらないことになる。妙なもので、暗記している篇でも、文字で読むと、その度に何か新しい語りかけが与えられる。もちろん何がしかの予備知識があってもいい。そのほうがより一層理解も深まるに違いない。しかし、そんな知識や注釈は、繰り返し読むうちに、心の片隅に追いやられて、聖書のお言葉だけが、ちょうど自分に宛てられた手紙のように、じかに伝わってくる。私は、これが聖書のもっとも正しい読み方だと思う。聖書は、こんな風に読むために書かれたものだと思う。そして、これが一番肝心なのだと信じている。
前もって注釈を読むのも結構である。又、読んだ後で、注釈を播(ひもと)くのも、より広い視野を得る役に立つだろう。しかし、それもこれも、お言葉をじかに体で聴くという、この一事にとって代わることはできない。これを、心に銘記すべきである。
もう少し私の体験を続けさせてほしい。電車の中で聖書を読んだ人なら誰でも気付くことだが、周りにいる人たちが、その日の新聞を広げて読みふけっているのが目に留まる。そんな時、私はふとこんな事を考える。今自分が読んでいる詩編は、どんなに後期のものでも2300年くらいも前のものである。地理的にもはるかに離れた古代ユダヤ王国やバビロニア王国で、こんなにも遠い昔に書かれた詩が、現在自分が生活している日本のその日の新聞に出てくるどの言葉よりも、自分の心に深く語りかけてくるのはどういう訳だろうと。そして、たまたま自分の隣に座っている人よりも、こんな昔の遠い国の詩人のほうが、自分に親しみを感じさせるのはどうしてだろうと。実際これは驚くべきことである。
それからもう一つ、これも前々から不思議に思っていた事がある。それは、お気付の人も多いと思うが、新約聖書の後に、よく詩編が付いていることである。実は、私が詩編を読むようになったのも、小さなポケット版の新約聖書の後に付いていた詩編のおかげなのだ。新約聖書の後に旧約聖書が付くというのもちょっと妙だが、それなら何も詩編に限らなくても、箴言でも雅歌でも伝道の書でもいい訳で、実際私はそう考えたことがある。
それやこれやで、私も、自分なりに詩編の成立過程やその構造を調べてみた。これからお伝えするのは、言わば、そのような私の覚え書きにすぎない。自分が調べたのを皆さんと分かち合いたい、そう思っただけである。これを読んで、自分も詩編を読んでみようという気になって下さる方が出てくれば、私の目的は達せられたことになる。本当は、こんなものを読まなくても、今すぐに詩編を読み始めていただきたいのだ。その後で、私の訳文と訳文に付けた注に目を通して、後に続く「鑑賞」を参照して下されば幸いである。
詩編の原名は、ヘブライ語で「ティヒリーム」と言い、これは「賛美」という語の複数形である。だから、詩編は、ほんらいは賛美の歌であり、そもそもの始まりは、これらの歌を集めた賛美歌集だったことになる。現代の賛美歌もそうであるが、これは、礼拝や集会には欠かすことのできない役割をしていた。
さらに、詩編を読んだ方なら誰でも気が付かれるよぅに、この詩集には、実に多くの、様々な祈りが含まれている。これらの歌は、賛美でもあり祈りでもあった。このことは、この賛美歌集が、同時に、祈祷書の役目もしていたことを示す。詩編は、実に、賛美の歌集でもあり祈りの書でもあった。ついでに、「詩編」という訳語は、ギリシア語の「プサルモイ」(歌・詩)からきている。「プサルモイ」は、紀元前2世紀に、現在のエジプトのアレクサンドリアで、旧約聖書のギリシア語釈(「七十人訳」と呼ばれている)が出た時に、詩編の巻に付けられた訳語である。英語の「サームズ」"Psalms"もこれからきている。現在の詩編で、ダビデの歌と記されているものは、実際にダビデが作ったものではなく、詩人としてのダビデの名にちなんで付けられた、というのが通説になっている。しかし、学問的な批判や論証でも、このような伝承の真相に深く分け入るのは難しい。伝承は、それなりの意味を込めて伝えられているのだから軽々しく否定できない。「ダビデ詩集」と言われる原資科があり、彼の時代にまでさかのぼる詩が幾つか含まれていると考えられる。
このダビデ詩集(紀元前1000年頃か)を最古のものとして、これに、コラの歌、マスキールの歌、あるいはミクタムの歌と題されている作が、それぞれ幾つかずつ続く。しかし、詩編の中で一番多いのは、バビロンの虜囚とそれ以後(紀元前6世紀後半から5世紀にかけて)の時代に属するもので、アサフの歌などがこれに含まれる。こうして徐々に編集されてきた詩編が、それまでに伝えられてきた資科を綜合して、モーゼ五書に倣ってこれを五巻に分けたのが現存する詩編の形である。前2世紀の終わり頃と考えられる。
この詩編の形成過程は、虜囚以後に、エルサレムに神殿が再建され、シナゴーグと呼ばれる会堂が広く建てられて、これを中心とするユダヤ教の礼拝形式が確立されていく過程と重なっている。先に、私は、詩編は祈祷書でもあったと書いた。祈祷書がどのように大切な意味を持つかは、例えば聖公会の信者の方ならかお分かりいただけると思う。それは、神を礼拝する心の表現としての賛美や祈りを規定するだけではない。礼拝の形式の根幹をも規定するのである。
イエスの時代には、(旧約)聖書は、律法と預言書と詩編とに分けて教えられ、安息日ごとに詩編が朗読され、ほぼ3年間で一巡するようになっていたようである。私たちは、主が、詩編をしばしば引用して語られたのを知っている。又、主が、十字架の上で、神に向かって叫ばれたお言葉が詩編からであったことを思い出す。父なる神に向かって心の奥底からほとばしり出たお言葉が、詩編であったという一事は、そのまま詩編が、主イエスにとってどんな意味を持っていたかをはっきり証(あかし)している。
このような伝統は、キリスト教会にも受け継がれ、中世の修道院などでは、早天に始まり日没から夜に至るまでの八つの時祷で、一定の篇を朗唱する定まりであった。1559年の英国国教会の祈祷書は、現在の聖公会の祈祷書の基となったものであるが、それには、朝と夕べの礼拝を通じて、一月に一通り詩編を朗読するように定められている。
祈りと賛美が、聖書朗読と聖餐と説教を中心とする礼拝に組み込まれているのは、これらが、聖書を読み聖餐を受ける心そのものだからである。古代のイスラエル民族は、詩編を心としてラビの教えを聴いた。この霊統は、キリストの教会を通じて、今に至るまで続いている。「詩編は聖書の心である」、これは確かルターの言葉だったと思う。
詩編の招きへ