【注釈】
 詩編は、第1巻(1~41篇)/第2巻(42~72篇)/第3巻(73~89篇)が前編で、第4巻(90~106篇)/第5巻(107~150篇)が後編となる[フランシスコ会訳聖書:詩編解説]。この区分に従うと、104篇は第4巻に入る。第4巻は、90~100篇が「主は宇宙の王」をテーマにしており、101~103篇がダビデに帰せられ、104~106篇が「ハレル」詩集になる。104篇は主が創造した大自然を歌い、105篇は主が導いたイスラエルの民の歴史を語り、106篇は、忘恩と反逆のイスラエルの民への主の導きと救いをたたえる。
 第4巻の成立年代は比較的遅く、ギリシア時代(前3世紀)であろう。しかし、他の詩と同様に、最終的な成立と詩の内容の伝承とは区別しなければならない。104篇の最古の部分はダビデ王朝にさかのぼるという説もあるが確かでない。1~4節/10~18節/20~24節/27~30節がこの詩の原型で(「主」と三人称が多い)、これに5~9節/25~26節(「あなた」と2人称が出る)/31~32節/34~35節などが後期に加えられたという見方がある〔Hossfeld and Zenger.Psalms (3). 48.〕。
 この詩篇の作者は、創世記、ヨブ記、イザヤ書などを踏まえながら、これらのどれにもとらわれずに自由にのびのびと主なる神と自然を賛美している。その賛美の起源は古代エジプトのイクナートンの太陽賛歌やバビロニアの混沌の竜、カナンのレビヤタンなど、古代の神話にまでさかのぼるとされている。しかも、彼は、終始一貫ただ一人の神である主を賛美し彼に向かって歌うのである。
 全体の構成を見ると、1~4節では、空、水、雲、風、火などが現われる。これらは宇宙を構成する根元の要素であると考えられていた。詩人は、これらの根元の力を支配する荘厳で麗しい主に呼びかける。5~9節は創世記の最初の記事にしたがい、神のみ霊の力は、混沌の深淵から、天上にある水と大地の底深くにある水とに、水を二つに分けたと歌う。主は、こうして混沌から秩序をつくり出し、これによって「大地」が誕生した。大地の誕生に続いて、10~18節では、地上の生きものが描かれる。これらの生物は、その様々な形態が注目されているだけでなく、それらが創造主によって秩序づけられ、全体が一つの大いなる調和をなして結び合わされている。作者は、この聖なる秩序に感動して小さなものいたるまで畏敬の念を抱いている。この部分は二つに分けられ、10~12節では、大地の下の水から、主は美しい泉を湧き上がらせ、これによって地上に生命を育む。13~18節では、今度は上にある天の水を雨として降らせ、人間や鳥や獣たちを養う。
 19~23節では時間が現われる。主は自然の内に「時」を定め、夜と昼をつくり、地上の生きものたちが、それぞれに調和して生きるようにされた。野獣さえも神に向かって祈る。24~26節では、大地から海へ視点が移される。かっての混沌の水である海も今は主に支配されていて、そこでは、あの混沌の竜を思わせるレビヤタンでさえ遊び戯れている。もっとも、ここの描写は、終末的な様相を帯びているとも考えられる。27~30節では、あらゆる動物の生きる「時」と彼らの「死」が現われる。しかも、その「死」でさえ、主のみ霊による再生の命に克服されるのである。ここは、神が、ただ単に万物の創造と消滅の繰り返しに喜びを見出しているという意味ではない。このような万象の生起を通じて「主のみ業のご栄光」が顕現する。その栄光とは命の喜びそのものにほかならない。同時にそのみ業は、主のみ霊による地の新しい創造へつながる。31~35節では、主のご栄光が賛美されると同時に、「火と煙の中に」顕現したシナイの神が姿を見せる。そして、このシナイの神がお与えになった律法、これによって罪人がさばかれ断絶するよう祈られる。彼らは、神がお造りになった世界の調和を破る唯一のものだからである。
[1]最初の行は、この詩の最後の行と呼応して全体の枠となっていて、この詩が礼拝で歌われる形式をとっている。
[3]【水上に】天には水があると考えられていたので、主は、その高い宮の梁(はり) を水の上に渡しているという比喩。「水の上」は「水の中」とも読むことができる。 ちなみにヘブライ語で「天」は「シャマイーム」、「水」は「マイーム」である。
[4]【み使い】「風」はまた「霊」でもあるから(ヘブライ語はどちらも「ルーアハ」) ここでの「み使い」も「ケルビーム」を意味する。18編11節参照。
 【従者】これは、「火」のみ使いであるから「セラフィーム」のことであろう。古代では、神は火の中に宿ると考えられた。
[5]【基の上に】原始の混沌を意味する深淵が世界を覆っていた時に(創世記1章2節)、神は固く叩いた吊り鐘のような「天」をその中へ沈めることによって、混沌の水を「天」の上と下とに分けた。神はさらに「天」の下の水を「集める」ことによって「地」を円盤のように混沌の水の上に浮び上がらせた(創世記1章6~9節)。この「地」が再び混沌に飲み込まれないように神はこの地を固い「基」の上に据えられた。したがって、地と天空(ドウム)から成る宇宙は、その周囲と下から混沌に脅かされていることになる。宇宙がこのように秩序づけられているのは神の不思議な力(エール・神)による。天地の上と下に混沌の水(蛇の姿で描かれる)が潜むという表象は、スサで発掘された前12世紀頃の粘土板の文書にも描かれている〔Hossfeld and Zenger.Psalms (3). 51〕。
[7]【叱咤】マタイ8章26節参照。
 【轟く】原語は「雷鳴」。
[8]この節の前半の主語を「水」と考える説と「山々」「谷」とする説とがある。動詞からはどちらの解釈も可能なので決め手はない。「山々」と「谷」を主語とすれば「山々は頭を出し谷は窪み」となる[ワイザー][RSV]。しかし、ここは前後の節から判断して「水」を主語とする方が自然であり内容的にも合う〔REB〕[関根訳]〔新共同訳〕。
 【山々を越え】山の上に湖があるのは、かって水がそこを「越えた」からだと考えられていた。
[9]【境を設け】「混沌」が再びこの地を覆わないように「限定する」の意味。
[13]この節の前半の主語が三人称で、後半の主語が「<あなた>の御業」と二人称であることに注意。このように、この詩編では、「主」「その」という三人称と「あなた(の)」という二人称とが入り交じっている。訳によっては、人称を統一しているものもあるが、このような混交は、あるがままのテキストとしてこの詩編を解釈する上で重要な意味を持つと考えられるのでそのままにした。
[14]【作物】原語は「青いもの」。一般に草や木を指す。ここでは15節から考えて、 果樹、穀物、青物などを意味すると思われる。
[16]【レバノン杉】レバノンは杉の産地で神殿の建築にはこの杉が用いられた。なお人間の手によらない自然の大木を「主の木」と呼んだ。エゼキエル書31章3~9節参照。「主の木」と「レバノン杉」とは構文上同格である。
[17]【その梢】原典本文の原語は「糸杉の梢」。〔REB〕〔新共同訳〕に従って欄外の読みをとった。
[19]【月】天体の月を指すのは言うまでもないが、原語は同時に太陰暦の「月」をも意味する。「年を区切り」は意訳で、原語は、聖なる祭りの時期とその集会を指す。これらの祭りは年の「節」として、イスラエルの暦を規定していた。「季節」という訳もあるが四季のことではない。
[21]【餌食】原語は「引き裂かれた獲物」。したがって、ここで語られる自然は、エデンの園に見られるような楽園のことではない。
[22]【昇る】原典本文は「昇る」。欄外の読みには「昇らせる」という他動詞がある。
[26]【レビヤタン】原義は「とぐろをまく」。世界の創造にあたり主によって鎮圧された混沌の竜。世の終わりに再び現われて最後の滅びに至る。これの起源はカナンの神話にあると考えられる。74編13~14節/イザヤ書27章1節/ヨブ記40章25節~41章参照。
 【遊ぶ】原文は「そこで遊ぶ」。「そこで(海で)」は「それ(レビヤタン)と」とも読むこともできる。したがって、ここを「主がレビヤタンと遊ぶために」と解する説がある[関根訳][ワイザー]。これだと、主が自然の秩序を確立されたので、レビヤタンさえ主の遊び相手になったと解することができよう。「船の往来」では、前8世紀のアラバスタ(白い石膏)板には、フェニキアの海域で、四方に渦巻く波の上を木材と積んだ多数の船が往来する様が刻まれている〔Hossfeld and Zenger.Psalms (3). 55.〕。
[34]【歌】原語の「スィヒー」は「暝想/語り/つぶやき」のこと。〔NRSV〕〔REB〕[フランシスコ会訳][ワイザー]もこの意味にとる。しかし、この言葉は「歌」をも意味する〔新共同訳〕[関根訳]。「歌」と解するならば「わたしの歌が主に喜ばれるように」となり、「想い」ととれば「わたしの想いが主のみ心にかなうように」となる。どちらの場合でも(特に後の方では)単に自分の心の想いが主のみ心にかなうことを祈願するだけではなく、自分の心それ自体が主にあって「喜んでいる」という意味も含まれている[ICC]。動詞は必ずしも祈願ととる必要はない。後半の「わたしは」が特に強調されていることと後半の内容からこのように解して差し支えないと思う。
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