詩編148
主をほめたたえよ
1ハレルヤ
天よ、主をほめたたえよ
高きところよ、主をたたえよ。
2み使いたちよ、主をほめたたえよ
主の万軍よ、こぞってたたえよ。
3太陽も月も主をほめたたえよ
輝く星々も主をたたえよ。
4至高の天も大空の上の水も
主をほめたたえよ。
5これらのものよ、み名をたたえよ
主が命じるとこれらが生まれた。
6主はこれらを代々限りなく据え
その定めを越えるものはない。
7地において主をほめたたえよ
海に住む竜もすべての深みもたたえよ。
8火も雹も、雪も濃霧も
み言葉を行なう大風も。
9山々もすべての丘も
果実の木も杉の林も。
10獣もすべての家畜も
這うものも翼ある鳥も。
11地の王たちもすべての民も
王侯たちもすべての裁き人も。
12若者も乙女も共に
老いた者も幼子も共に。
13主のみ名をほめたたえよ
み名のみ一人高く
ご栄光は天地に満ちる。
14主はその民のため角を高く上げ
主の慈しみに生きるすべての者に栄誉を与え
イスラエルの子ら、主に近い民に賛美を授ける。
ハレルヤ
【注釈】
この詩は、始めと終わりに「ハレルヤ」という合唱がおかれ、全体が「天において」以下と「地において」以下とに分けられている。1節から7節までに、「ほめたたえよ」と「たたえよ」(どちらも「ハレル」)が10回繰り返されている。この「十」は、創世記1章で神が命じた創造する十の言葉に対応し、またモーセの十戒をも反映する。これに始めと終わりの「ハレルヤ」を加えると、全部で12になるから、イスラエルの十二部族を象徴することになろう。
「天において」以下では、その賛美の理由が5〜6節で述べられ、「地において」以下では、13〜14節にその理由が歌われる。作られた年代は、ギリシア時代の後期、すなわち、アレクサンドロス大王の東方遠征以後からマカベア戦争以前(前3〜2世紀)となっている〔Briggs.Psalms.(2)〕。この頃に一群の賛美の詩編が生まれたからであろう。しかし、歌の内容はこれよりも古く、エジプトやアッシリア=バビロニアの神々と自然への賛美につながる。14節に現われる「角」とは、具体的には、ダビデ王朝、虜囚からの帰還、ネヘミヤによる新国家建設などが考えられる。関根訳はネヘミヤ時代を想定している。また、7節に現われる「竜」も、この詩編の背景には古代の神々と混沌との闘いの神話があることを思わせる。「火」「雹」「煙」(濃霧?)などもシナイ山での主の顕現を暗示しているのだろうか。
[1]【ハレルヤ】文字どおりに訳すと「ヤハウェをほめよ」となる。しかし、旧約時代の ユダヤ教では、直接に神のみ名を口にするのを避けるため、「ヤハウェ」を「主(アドナイ)」と呼んだ。このために、この句は「主をほめよ」(Praise the Lord.)と訳 される。しかし、この「ハレルヤ」は、「アーメン」と同じく、現在にいたるまでこ のままでキリスト教徒の間で用いられている。
[2]【主の万軍】「万軍」の語源である「ツァーバー」は、「主の宮で仕える」「主の 闘いに参加する」の意味があり、「天の万軍」とは天使たちを指し、これに太陽や月や星なども含まれることがある。しかし、ここでは、次の節に「太陽」「月」が現われるから、この語は前行の「天使」と同じ意味に用いられている。
[4]【大空の上の水】この行を直訳すれば「天の天も天の上の水も」となる。ヘブライで は天の上に水があると考えられたから、「天の最も高い所から天の水がある低い所まで」の意味であろう。
[5]【生まれた】原語は「創造された」。
[6]【定めを越える】原典本文は「越えることのできない主の定め」である。また、欄外の読 みには、「それらが越えることのない(主の定め)」とある。したがって訳の多くは この解釈をとる[ワイザー]「越ええない掟」〔新共同訳〕/「越えることのできない掟」[フランシスコ会訳]。だが前行の「据える」には、「固く立てる」「固く定める」の意味もあり、主の定めた法そのものが永遠に不変であると解釈して「永遠に過ぎ去ることのない定めを立てられた」〔REB〕という訳もある〔NRSVの欄外も〕。このような解釈は、「天界」すなわち月より上の世界は永遠に不変であり、「地において」以下の月下の世界はうつろいゆく変転の世界であると考えるギリシア的な思想の影響をこの詩の背後に読みとっているのかも知れない。
[7]【海に住む竜】元々は海(水)の霊を意味するのか。海(水)は「混沌」の象徴でも ある。なお7〜8節については、ヨブ記38章1〜11節/同40章15〜32節のベヘモットとレビヤタンについてを参照。
[8]【濃い霧】原語は「たちこめる煙」。「雪よ、霧よ」[フランシスコ会訳]〔Hossfeld and Zenger.Psalms (3).〕/「雪も霜も」〔NRSV〕/「雪も氷も」〔REB〕。「雲」[ワイザー]という訳もある。
{14]【角を高く上げ】「角」はここでは力の象徴として主がその民のために勝利してくださることを意味する。
【主の慈しみに生きる者】原語は複数で「ハシディーム」。この語は慣用的に用いられたから「主を敬う者たち」[関根訳]とも訳される。新共同訳のここの訳語が原語に最も近い。「主は、誇り高き力にあってその民を高くし、その忠実な僕たちに、主に近きイスラエルの民に賛美の冠を授けた」〔REB〕。しかし「これは、忠実な者がみな賛美するもの、主に近い民イスラエルの子らの賛美の的」[フランシスコ会訳]。14節には「民族的な」視点が導入されているから、それまでの宇宙的な賛美に比べると内容的にそぐわないという見方もあるが、14節によって、148篇は、前後の147篇と149篇とのつながりが保たれていると指摘されている。
【講話】
(1)
この詩の作者は、神のおられる天上の最も高い所から始めて順次降りながら大地へ、そこに住む生き物へ、そして人間へ、さらに「主の慈しみに生きる民」へと賛美への呼びかけを絞っていく。もしも、わたしたち人間が、この大宇宙に、そしてわたしたちをとりまく自然界に、なにか神秘なもの崇高なものを感じとることがあるとすれば、それは星の輝く天であり、大地を照らす太陽であり、夜空を明るくする月であろう。作者の目は、「近寄りがたい光」の中に居ます神のみ座から、順次自分の周囲の人たちにまで移り、ついに自分自身もその一人である神の民、すなわち「主に近い民」に目を向ける。その心の動きは自然であり、そこに溢れる感動は率直である。
しかし、すぐに分かることだが、彼は、ここで、自然をあるがままの姿で賛美し崇拝しているのではない。言い替えれば、彼の肉眼に映る宇宙が、無条件でこのような賛美を彼の内面に呼び起こしているのではない。むしろ逆に、彼の感動は、先ず彼自身の内面から発して、それが全宇宙を包む、というように動いているのが分かる。作者の内面に働きかける主のみ霊が、彼の内にこのような賛美を湧き出させていて、それが自分自身を含む全宇宙へと広がるというのが、ここで起こっていることなのである。その賛美は、この意味で、「啓示された」賛美である。彼が造られた個々のものを直接には賛美せずに、「主をほめたたえよ」と歌うのはこのためである。もっとも、このような啓示も、太古からの人間の自然に対する畏敬の念をその背景にしているのは言うまでもない。
このことは、この詩編の賛美や感動が、太古からの人間の「自然な」心の動きに源を持つと同時に、そういう「人の情」がこういう賛美を生み出すという見ほうが必ずしも正しくないことを暗示している。わたしたちの日常の心が、それだけで「自然に」美しい感動を生じさせるというのは、必ずしも正しくない。自分の経験をも含めて言うのだが、そういう日常での「自然な」わたしたちの心の状態は、喜びや感謝、愛や希望に満ちているとは限らない。むしろさまざまな悲しみや愁い、思い煩いや不安に支配されているときのほうがずっと多い。だからわたしたちが、自然を心から賛美したり、生きていることが喜びとなったりするのは、むしろなにか特別の事情があってのことなのだと考えたほうがよさそうである。賛美や感謝、喜びや希望、愛や信頼、こういうものは、わたしたちの日常の心に「自然に」生じてくるというよりは、むしろ「不思議にも」湧いてくると言ったほうがいい。それは、なにか特別な場合に「どこからともなく」注がれる、というのがほんとうなのである。だから、この篇に歌われている賛美は、ある意味で、非日常的なもの、いわば神からの啓示によって授かったと考えるほうが正しい。心自ずから賛美を生み出すという「自然な」状態は、ここでは、主のみ霊による啓示と人間の内面に本来具わっている心の有りようとが密接に結びついて開かれてくるのだ。
ところで、作者の賛美は、太陽や月や星々や「大空の上の水」よりもなお高い天の「高きところ」まで届いている。バビロニアやエジプトやカナンの神々として崇拝されているこれらの神々を突き抜けて、このように直接目に映る対象の奥にある見えないお方の存在をこの作者は洞察している。彼は、これらの目に見える天体を「造られた」ものと見る。「主が命じるとこれらが生まれた」。この「主」、天の万象の奥にあって、これらの万象を生ぜしめている根源の力となっている「神」、それが彼の内面に啓示されたこと、このこと自体も彼の賛美の大きな理由となっているのは間違いない。言い替えれば、彼の賛美は、これを啓示してくれたお方との「交わり」の中から湧いているのである。この「交わり」こそ、彼をして、天地の万象に向かって、「主をほめたたえよ」と歌わせている原動力である。素朴な例えを借りるなら、父親の持っているものは、ことごとくその子のものであるかのように映るのだ。親子が固い絆で結ばれているときはなおさらそうである。彼は、自分を取り囲むあらゆる対象を生み出した根源のお方との交わりに引き入れられた。その時、自分の目に映るいっさいのものが、ある不思議な秩序を帯びて輝くのである。彼はその根源を見ることはできない。彼が知ることができるのは、そのお方の存在、すなわちその「み名」のみである。
主のみ名をほめたたえよ
み名のみ一人高く
ご栄光は天地に満ちる。
ひるがえってわたしたちの現実に目を向けるとき、そこには、栄光の代わりに灰色の不透明さが映り、秩序の代わりに混沌がある。賛美の代わりに日常の労苦と、これに伴う不安がある。若者たちの顔に輝きがあるとは言えないし、乙女たちが喜びに満ちているとも言えない。老人たちは不満を抱き、子供たちはいらだっている。わたしたちの国の内だけでなく、外の国を見ても事情はあまり変わらない。むしろ、世界を覆う混沌の波が、わたしたちの国をひしひしと取り巻いているというのが実状である。こういう状況の中にあって、わたしたちの心は、ともすれば厚い霧に閉ざされそうになる。この状況を突き破って、光明をもたらしてくれる「力」が、どこからか来ないだろうか。この詩に歌われているような賛美、それは、人間の生きる喜びの最も深いところに根ざしたものだと思うが、そのような賛美がどこからか注がれてこないだろうか。
主はその民のために角を高く上げ
とあるように、わたしたちのために新しい展望を切り開いてくれるような「み名」が啓示されることはないのだろうか。こういうことをこの詩は、わたしたちに問いかけてくる。
(2)
では、いったいそうのような「み名」とは、どのような「名」なのだろうか。クリスチャンならば、ここでいわゆる「キリスト教」を持ち出すであろう。また、ある人たちは、「いや、それはむしろ仏教のほうではないか」と言うだろう。だがそれは、キリスト教をも含めて現存するいかなる「宗教」によってでもないであろう。この詩の作者の時代にも、それぞれの国や民は、それぞれに「神」あるいは「神々」を持っていた(この時代には天体も神々であり、地上の王侯たちはこれらの神々によって守護されていた)。けれども、どの神も神々も、地上に平和をもたらし、世界に秩序をつくりだし、人の心に平安を与えることができなかった。なぜなら、それらの神や神々は、「地のすべての王たちもすべての民も」心から賛美できる神ではなかったからである。「王侯たちもすべての裁き人も」これに従うことのできる真理ではなかったからである。このような状況の中で、この篇の作者は、これらの現存するいかなる神や神々よりも高い存在へと目を向けている。地の王たちや「すべての」民が賛美できる神のみ名、これが、彼に啓示された「み名」であり、この詩がわたしたちに啓示しようとしている「み名」である。それは、おそらく、作者自身も想像しなかったほどに広くて大きい「み名」であったろう。「それのみ一人高く」、ご栄光は天地に満ちていると歌われている「み名」は、これ以下の名ではありえない。
だが彼は、既存の神や神々を否定したり拒絶したりはしない。それどころか、それらの「権威」に向かって、「主を心からほめたたえる」ように求めている。そのみ前では、地上の権力者はもとより、天の神々も、天使といえども「その定めを越えるものはない」のである。これが、この詩がわたしたちに伝えようとしている「主のみ名」である。現代のわたしたちに最も必要なもの、それは、国境を越え民族を越えて、人々が心から賛美できるこのような「み名」ではないだろうか。これが「啓示」されることがわたしたちの世界で今痛切に求められている。この事をこの詩は教えてくれる。
では、このような「み名」は、どのようにして啓示されるのだろうか。あるいはだれに啓示されるのだろうか。それは、「主の慈しみに生きるすべての者」にであり、「主に近い民」にである。「主に近い」とは「主に近づく」ということであろう。このような「み名」を求めて主に近づく、そういう民に神は必ずそのみ名を啓示してくださる、こうこの詩は告げている。しかし、過去の栄光と伝統を誇る民が、必ずしも「主に近い」とは限らない。むしろ、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」(マルコ7章)というのが、ほんとうのところではないのか。そうだとすれば、「主に近い」あるいは「主に近づく」のは、過去において主に近かった民とは言えない。現在の世界でそのようなみ名を最も切実に求めている民こそ最も「主に近い」、そう言っていいと思う。「世界で」というのは、現在では、掛け値無しに、あらゆる問題が、いわゆる「グローバル」(地球規模)な問題となってその解決を迫っているからである。それぞれの国やそれぞれの民族が、過去の栄光や伝統、過去の慣習や宗教的価値観に束縛されて、自分たちの垣根を越えようとはせずに、逆にそういう既成の意識に頼ろうとする傾向のある中で、どのような民が、いち早くこの詩に歌われているような普遍性を持つ「み名」に向けて大胆に歩み出すのか。こういうことが、今さまざまな国のさまざまな民に問われている。このような「み名」を持つ民が、これからの世界を指導するからである。少なくとも、こういう「み名」を思い描くことのできるヴィジョンを与えられている民こそ、これからの世界をリードする民となり、国となるのは確かである。ヴィジョンを持たない民は滅びるのだから。
(3)
では、そのような民とは、どのような民なのか。新約聖書からのイエスのお言葉を引用しよう。
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、これはみ心にかなうことでした。」(ルカ10章21節)
つけ加えるならば、イエスはこの言葉を「聖霊に満たされて」、すなわちこの詩の作者のように天からの啓示に接して語ったとルカは記している。み霊に導かれ、そのヴィジョンを与えられて初めて「天地の主である父のみ名」を「ほめたたえる」ことができる。この事をここでのルカによる福音書は示している。ルカの記述の順序に従うなら、イエスは、このお言葉のすぐ前で、弟子たちに「蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたたちに与えた」と言われている。また、先の引用に続けて「すべてのことは父からわたしに任せられている」とあり、さらに「あなたたちの見ているものを見る目は幸いだ」とも言われている。このような前後関係から解釈するならば、ここで「幼子のような者に」与えられる賛美の啓示とは、これに逆らうあらゆる障害を克服し、敵対する力に打ち勝って進む権威を具えていて、しかも、それが、「イエスのみ名」とはっきり結び付けられていることが分かる。「主のみ名」とは、この名のことであり、この詩が預言し証ししているのも「このみ名」にほかならない。
このイエスのお言葉に従うならば、「主に近い民」とは、「イエスのみ名」に近づく民を指している。くどいようであるが、このイエスのみ名は、「聖霊」すなわちみ霊によって啓示されるのである。わたしは、先に、この詩の賛美が、主との「交わり」の中から生まれていると指摘した。今、わたしたちはその「交わり」が、「主イエス」との交わりであることを知る。「み名」とは、万象の奥にあって、直接見ることも触れることもできない存在に対する呼びかけであるのならば、「人」となることで「神」を啓示された「主イエスのみ名」こそ、わたしたちに与えられた啓示の源となる「み名」である。わたしたちはこの名を呼ぶ。このみ名を呼び、このみ名を求める民こそ「主に近い」民なのだ。このみ名を呼び求めるとき、イエスのみ霊がその人の内に宿り、彼と主との交わりが始まるからである。そこに開けてくる世界こそ、詩編148の賛美の世界である。イエスのみ霊は彼を次第に深く導いて、万象の奥に存在する真理を見させてくださる。いっさいのものがイエスのみ名を帯びて映る、こういうところへ彼は引き入れられる。
み子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあ るものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威 も、万物はみ子において造られたからです。(コロサイ1章15〜16節)
これが、使徒パウロの行き着いた世界であり、彼とその弟子たちがわたしたちに伝えようとしている世界である。
これらのものよ、み名をたたえよ
主が命じるとこれらが生まれた。
わたしには、詩編148のこの世界とパウロの世界とが重なってくる。
もう一度先に引用したイエスのお言葉を思い出していただきたい。イエスはその中で「幼子のような者」と言われた。「幼稚」という言葉が暗示するように、この「幼子」は古代のヘブライの世界では必ずしもよい意味ではない。むしろ、無知な者、未熟な者、聞き分けのない者を指す。このことを考慮に入れると、ここでのイエスのお言葉は、特に注目してよいであろう。英語の「シンプル」という言葉もそうであるが、これには「愚かな、無知な」という意味と「単純な、偽りのない、混ぜ物がない」という意味とがある。言葉の詮索はしたくないが、イエスがここで言われているのは、言葉の本来の意味で幼子のように「単純」なこと、「偽りがない」こと、「素直」なことを指していると考えていいと思う。だが、「あらゆる敵の障害を克服する力」「天地の万象の奥に潜む真理を洞察する能力」と幼子の「単純さ」とは、わたしの内では簡単には結びつかない。さらに、「地上のあらゆる王や民が心からほめたたえる」ことのできるみ名となると、この「単純さ」はそれほど「単純」ではない。「単純」ということが、人間ならだれでも具えている共通の本性という意味でなら分からないこともないが、自分とは異なる民族、異なる国の人たちと心から交わるのは、よほど心の広い人、そして優れた英知を宿す人でなければできないことだ。単なる同情や「単純さ」とは正反対の、深い知恵と度量とが要求されるからである。
ここで語られている「幼子のような単純さ」とは、通常の人間の情(むろんこれもあるけれども)だけでは処理しきれない深さと高さとを帯びている。言い替えれば、それは、「啓示された」単純さなのである。繰り返すようであるが、啓示とは、人間に本来具わっている性質を無視するのでも否定するのでもない。人の単純は、この宇宙を動かしている神の単純に触れるときに初めて活きる。その意味で、この単純は、「無心」に遊ぶ子供の姿にたとえるのが最もふさわしいかも知れない。無心とは、「心ない」ことではない。無心とは、天啓に触れることのできる「とらわれない」心のことである。無の心は、多くの知識や経験を必ずしも必要としないが、そのような経験や知識に裏打ちされることを否定もしない。イエスは、自分の生まれた国とその周辺のごく限られた地方しか知らなかった。大切なのは、なにができるか、どんな能力があるかではなくて、その「心の有りよう」なのだ。澄んだとらわれない幼子の心こそ宇宙を賛美できる天の啓示を受けるのに最もふさわしい、こうイエスは言いたかったのである。だから、この「啓示」は、案外わたしたちの身近なところにあるのではないか。イエスのみ名を呼び、主イエスとの交わりを通じて天地を造られた神を賛美する。理屈を言えば、限りなく難しいことになるのだろうが、これは、おそろしく「単純」で、だれにでもいつでもできることなのではないか。こんなふうに思える。
(4)
ところで、わたしたちは、この詩に語られる「主に近い民」とは、どのような民かを心に思い描くことができるだろうか。いろいろな人々が、世界中のいたるところで、主イエスのみ名を呼び、主に近づこうとしている。それらの中には、キリスト教国と言われる国の人たちもいれば、そうでない国の人たちもいる。しかし、この詩に歌われているように「天の高いところ」から「地のすべての民」にいたる人たちまでが心から賛美できるような「み名」は、まだ生まれていない。わたしたちの国の中にもいろいろな宗教や信条を持つ人たちがおり、国の周辺、アジアの国々にも、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、などの実にさまざまな宗教がある。民族の数にいたっては見当もつかない。さらに目を広げれば、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカなどの世界が広がる。そんな中で「すべての民が賛美できるみ名」がどこからどのようにして生まれるのか今のわたしには想像することもできない。ただ一つ言えること、それは、このようなみ名を切に求める民、そして、とらわれない開かれた心でこれを受け入れる民、このような民に主の啓示が与えられることである。いわゆるキリスト教国といわれる国にこれが生まれるのか、それとも、そのような制度や伝統にとらわれないところに生まれるのか、だれにも分からない。だが、それがどこで生まれどこで育とうとも、そのみ名を呼んで主に近づこうとする民が、これからの世界を導き人類を指導する民となるであろう。そのようなみ名が生まれ、そのようなみ名が呼び求められる国は幸いである。そこは、いつまでも人類の心に残る場所となるであろう。あのクリスマスの夜に天使の合唱が響いたベツレヘムのように。
いと高きところには、栄光神にあれ
地には平和、み心にかなう人にあれ。
【追記】
嵯峨野便り
庭の百日紅も盛りを過ぎ、夏の暑さにも秋の気配がただよう候となりました。わたしたちも去る8月19日〜20日の二日間、琵琶湖を見おろす憩いの村で、夏期集会を持ちました。井上宏英兄の担当で、河合隼雄著『宗教と科学の接点』を取り上げて読書会を持ち、翌日は私市が担当してイザヤ書30章からみ言を読みました。また秋に備えての集会の準備をも語り合うことができたのも感謝です。詩編の訳解も「1日1篇」と題して、今回で30回を数えることになりました。ひとまずこれで、区切りをつけようと考えています。もともと全部の詩編を訳して註するのがわたしの目的ではなかったからです。それでも、30編の詩編とはいえ、その訳註では、ずいぶん苦しいこともありました。主の導きと読者の方々からの励ましに支えられなかったら、とてもできなかったと思います。お励ましありがとうございました。今までのをまとめて、新しい形で読者の方にお目見えするときが来るかも知れません。読者のお一人お一人に主のみ恵みが注がれますように。
8月29日 私 市 元 宏
季刊 『光露』 85号 夏号
昭和63年(1985年)9月5日発行