詩編15
御臨在に住む者
 
【聖句】
1  賛歌。ダビデの歌
主よ、誰があなたの天幕に宿るのですか?
  誰があなたの聖なる山に住むのですか?
 
全き道を歩み義を行なう者
  真実な心で語る者。
その舌で中傷せず
  その友に害を為さず
  その仲間を侮辱しない。
その目は神に棄てられた者を退け
  主を畏れる者を尊び
  誓ったことは傷ついても変えない。
金を貸しても利息を取らず
  賄賂を受け取り罪なき者を陥れない。
 
これらを行なう者は
 とこしえに揺るがない。
                        【注釈】
【講話】
(1)
 ここでは、「聖なる山」に住まう者は誰なのか、言いかえると、どんな人が神の御臨在に与り、その祝福を受けることができるのか? という問いかけがなされている。神様の居られる家の敷居はとても高くて容易に近づけない。こう思う人も多いだろうが、その一方で、神様のお住まいには、だれでも比較的「気安くお参りする」ことができる。こう思う人もけっこういる。いったい、神の御臨在とは、そんなに近づき難いのか? それとも、誰でも、その気になれば入れる家なのか? この15篇は、こういう疑問に答えてくれる? と言うよりも、こういう疑問を起こさせる。
 これに対する答えは以外に身近である。「崇高な」問いかけにしてはいささか拍子抜けするほど「日常的」である。自分の隣人、友人に対して誠実で思い遣りのある行為をするというきわめて常識的実際的な基準である。ただし、ここで注意していただきたいのは、これらの基準が、単に個人と個人の間にとどまらないで、民と民、国と国との間をも含んでいる点である。たとえば、3節の「侮辱する」は、31篇12節では個人を指しているが、79篇4節では民族間の関係としてとらえられている。
 神を見くびってはならないと云われるのを重々承知の上で言わせてもらうが、わたしは神は実に「子煩悩」だと思う。いい加減出来の悪い子供に対して「甘過ぎる」という意味である。「出来の悪い子ほど可愛い」と云うが、どんなに「低レベル」のことしかできなくても、そんな子が「少し」良くなったり、親の気持ちを察してくれるようになると、親の欲目には「すっかり変わった」と映るものだ。神の要求しておられるのはそんなに高いことではないのではないか、近頃私はつくづくそう思う。わたしたちが「少し」行いを改めたり、心がけを変えて「お祈り」をするだけでも、神はちゃんと報いて下さるのだ。放蕩息子の話にあるように、息子が「何一つ良いこともせずに」ばつが悪そうに戻って来ても、「走りよって」彼を抱いてやる。「父馬鹿」でなくてはできないことである。
 ところが、神のこの大きすぎるほどの寛大さが、逆に子どもの側に「甘え」と「見くびり」を生じさせて、その「低レベル」に向けられた神の憐れみさえも蔑ろにすると、それだけ神の裁きが厳しくならざるをえないことになろう。それが「愚かな」子供への当然の報いであるが、このことが分かるかどうか? これが問われることになる。
 神のこの「慈愛と峻厳」との大きな隔たり、これを見誤ると、わたしたちは自分勝手な基準を立てて神の基準を推し量ってしまう。聖書の神の基準は、世間一般のそれに比すると「高い」。この点で親の子供に対する期待と似ていなくもない。しかし聖書が世間並みの基準を越えた「気高い」ものであることを強調するあまり、普通の人には実行できないような印象を与えてしまうことがよくある。「どうせ駄目なのだ」、こう思わせてしまえば悪魔の勝ちである。しかも、そう説いている本人も、この神の基準を破ったとしても「まさかそれほど」恐ろしいことが起こるとは想像していない。
 アブラハムはそうではなかった。彼は神の「慈愛」と、これを踏みにじった場合に必然的に起こるであろう「恐ろしい」出来事との間の驚くほどの距離を見誤らなかった。彼は「まさかそれほど」のことが実際に起こるのを、ソドムの絶滅という想像もできない事態が生じることを知ったのである。しかも彼は、わたしたちの目からみればきわめて「低い」レベルで、なんとかこの町を救おうとして、たった五人の義人が居れば町を赦そうという約束を神から引き出している。アブラハムの出した要求は、わたしたちがその気になってやれば十分守れる程度のことであった。わたしはそう思っている。
 この詩篇に歌われている「聖なる山に住む者」の資格はきわめて現実的実際的で、日常生活のなかで心がけるなら、あえて言うなら「誰でも」実行できるほどである。しかしこの詩篇は、そのような誰でもできることが人間の奥深い思い遣りの心から出るもので、それは宗教的、霊的な深みにおいてとらえられた時にのみ「実行できる」性質のものであることも見抜いている。
(2)
 この詩篇は「今現在」神が御臨在しておられる場に入るための「参加資格」である。逆に言えば、たとえ、キリスト教国と呼ばれる国の民でも、ここに述べられている教えを守らなければ、その人にせよその民にせよ神の宮に住むことはできない。だから、この際、そういう「宗教」に基づいた色分けは一切御破算にして考えるほうがよさそうである。問われてくるのは次のことだけである。「今現在」神はどこに居ますのか?そして、一人の人であれ一つの民であれ、この神の「聖なる山」に住む者は誰なのか?である。個人と国や国民とを同じアナロギー(類比)で考えるのはおかしいと思われるかもしれない。しかしこの類比は、ここで語られている宗教的な次元では許されると思う。もっとはっきり言わせてもらえば、個人であれ国であれ、正直で義を行なう者は神に守られる、ただそれだけの厳然とした「真理」である。もはや一切の宗教的、文化的、歴史的な配慮や思惑は無用である。パウロの言葉を借りるならば「ユダヤ人も異邦人も、ギリシア人も未開の人も」区別されない。ここで問われるのは、ただ「人間」と、人間が入ることのできる「神の住みたもう聖なる山」、それだけである。この詩篇がわたしたちに語っているのはこのきわめて明白な真理である。
 しかもこの山は「高い」ように見えても「それほど」高くはない。わたしたちが心がけさえすれば決して無理ではない。「どうせ我々は五十歩百歩だ」という理屈も分からないではない。しかし、神の御前では、たとえ一歩の違いでも大きな意味を持つ。神はその「心」を御覧になる方だから、出来栄えはともかく、少しでも「義を行なおう」と心がける者にはかならず報いて下さる。たとえ神様の義の「まねごと」でも、神はそれなりにちゃんと評価してくださる。だから、「そんなことをやっても無駄だ」などと、評論家面して嘲る利口馬鹿どもを気にする必要はない。個人と同じく国の場合でも、正しいことを行なうのに他国の思惑を気にする必要はない。どこかの国のように、自分の都合次第で軍備を増強させようとする、そんな思惑に縛られる必要はない。「義を行ない」「真実を語る」、「その友に害を為さず」「隣人を侮辱しない」、そして「誓った事は傷ついても変えない」そんな国が栄える、ただこの真理である。神はそういう民と伴に住まわれる、こうこの詩篇は語っている。
 21世紀をリードするのはどこの国か?などと近頃よく云われている。しかし、この詩篇は、21世紀よりもはるか彼方の「終末」を指している。「聖なる山」とは、終末の時に、神の民が集う所と重なり合っている。では誰がその神の住まいに受け入れられるのだろうか。この問いは、同時に、「今現在」神が住まわれている所に誰が入り得るのかという問いと出合う。「終末」とは、この世に生きているわたしたちにとって、「今の時」にほかならない。わたしたちは「今この時」を除いてはどこにも「終末」に出合う場を持たないのだから。「永遠」も「終末」も(厳密に言うとこの二つは違っているが)人間には「今」としてしか把握されないのだから。
 ある人が、ある民が、本当にどれだけのことをしたのか、これが神の御前に問われる時が「終末」の意味するところだと思う。そして、終末が、人間の「歴史」を根底において支えているとすれば、「今この時」をいかに生きたかが、個人にとっても国にとっても決定的な意味を持つことになろう。歴史を導いておられる神は、どの民族、どの国にも、その民族の歴史的な存在価値を決定する「時」を公平にお与えになる。いわゆる「キリスト教国」などという過去の歴史や遺産に寄りかかったレッテルは、この視点では一切問題にされない。「神には偏り見ることがないから」である。
(3)
 先にこの詩篇の基準は明確な具体性を出していないと述べた。だが、その中で一つきわめてはっきりと目につくことが語られている。それは「利息を取らない」という行為である。申命記の引用を見ても分かるように、利息をとることを聖書は必ずしも否定してはいない。しかし、原語が示すように、利息を取ることと貧しい者を苦しめることとが重ねられている。現代の資本主義社会で「利息」がどんなに基本的な意味を持つかぐらいは、いくら経済観念に乏しいわたしでも理解できる。それでも、わたしはやはりここの聖書のお言葉を見過ごしにはできない。聞く所によると、イスラム教の世界(イラン)では、いまなお銀行でさえ「利息」を取らないと言う。もっとも、これでは国の経済が成り立たないだろうから、そこは何らかの抜け道が用意されているのだろう。これに似た状態が、シェイクスピアの『ベニスの商人』にも描かれていて、かわいそうなシャイロックが、「キリスト教徒」に恨みをはらそうとして失敗する場面がある。利息を取るユダヤ人の経済がこれを取らない「キリスト教国」の経済を裏で支えているという現実はここでは隠されているが、わたしが注意したいのは、ともかくも16世紀までは、キリスト教も「利息」を取るのを禁じていたという点である。なぜイスラム教もキリスト教もユダヤ教も利息を禁じていたのだろうか。この素朴な疑問がこの詩篇を読むと湧いてくる。世界の三大宗教が揃って禁じているのは何かそれなりの理由があるに違いない。こうわたしなりに推測する。確かに聖書は利息を禁じてはいないが、「利息を目当てに」金を貸すことには厳しい警告を発している。おそらくこれは、利息を追求すると、必然的に貧しい者を一層の苦しみへ追い込むようになる経済のメカニズムをこれらの宗教が見抜いていたからではないか。素人のわたしにはこれぐらいのことしか分からない。どなたかこの道の御専門の方にお願いしたい。どうか、例えば「お金」それ自体を買ったり売ったりするのが「正しい」ことなのかを判断していただけないだろうか?そんなことと「聖なる山」とは何の関係もないと笑われるかもしれないが、「そんな身近で卑近な」ことこそ今大切なのではないか。こういうことを一歩一歩解決し是正していく民こそ、神の民として人類の未来を切り開くのではないか、こうこの詩篇は語っているように思えてならない。  
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