16篇福音の本質

1ミクタム。ダビデの詩。
神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。
2
主に申します。「あなたはわたしの主。
あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3
この地の聖なる人々 わたしの愛する尊い人々に申します。
4
「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。
わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず
彼らの神の名を唇に上らせません。」
5
主はわたしに与えられた分、わたしの杯。
主はわたしの運命を支える方。
6
測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7
わたしは主をたたえます。
主はわたしの思いを励まし
わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8
わたしは絶えず主に相対しています。
主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません。
9
わたしの心は喜び、魂は躍ります。
 からだは安心して憩います。
10
あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11
命の道を教えてくださいます。
わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い
右の御手から永遠の喜びをいただきます。

                                 【講話】
福音三相

 今日はみ霊の福音について語りたいと思います。私はここにいる皆さん方と何ら変わるところのない人間です。私の言う意味は、人間としても、また人格的に見ても皆さんと同じだという意味です。それだけではありません。私の置かれている社会的な状態も皆さんと何一つ変わるところがありません。専門の牧師でもないし、専門の神学者でもない。プロの伝道者でもありません。一介の大学の先生です。つまり皆さん方と全く同じ普通の生活を送っている人間として今語っているのです。
 ですから、私がこうしてお話している目的は、伝道して信者を増やすとか、会堂を建てたり教団を発展させたりするためではありません。キリスト教を広めることでさえ私の最終目標でないと言えます。では、なんのためにこういう集会を持っているのかと言いますと、それは、自分に与えられたみ霊の福音、これがどんなにすばらしいものであるか、ですね、ただそれだけを伝えたい。こういうつもりでやっているのです。ですからこれはヴォランティア伝道です。奉仕活動です。だから、皆さんが、どこかの教会に所属している人であっても、またどこか自分に合った教会があれば、そこへ所属しても、いっこうにかまいません。皆さんがどこかの教会や教団の集会に出席して、そこで大きな恵みを与えられたら、だれでもいいから知っている人をその集会へ連れて行きたいと自然に思うようになるものです。それと全く同じ気持ちで、私は今皆さん方を「イエス様の集会」へ連れて行きたい。こう思っているわけです。
 ですから、私が伝えようとしているのは、教義や神学ではありません。教義や神学ももちろん大事です。けれども、それよりももっと根元的なこと、イエス様の精神を宿す。あるいはイエス様のみ霊を宿す。英語では精神も霊も"spirit"で同じですね。これが伝えようとしていることなのです。ではその最も大事なこととはなにか? これはパウロが第一コリントの手紙15章の1〜5節で述べています。
 イエス様が十字架で「私たちのために」贖いのみ業を成就されたこと。父の神のみ力によってイエス様が復活されたこと。そのイエス様のみ名によって聖霊が私たちひとりひとりに降ること。この三つです。十字架の贖い。父によるみ子の復活。イエス様のみ名による聖霊降臨。この三つの相です。これすなわち「福音三相」です。この三つの相はひとつ、「三相一貫」です。これが、父と子と聖霊なる神、すなわち三位一体の神が私たちのために為されたみ業です。「福音三相」と「三位一体」。これこそが、イエス様の福音の核心です。この福音を言葉として学び、理解することももちろん大事です。けれどももっと大事なことは、体で体験することです。内面的霊的に示されることです。今日最初に詩編の16篇をお読みしたのは、この篇には、今お話したイエス様の福音がみごとに歌いこまれているからです。

■イエス様の贖い

 まずみ子にある十字架の贖いについてです。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず(do not take part in their sacrifices)、 彼らの神の名を唇に上らせません」とありますね。「血を注ぐ」というのは、人の血を流すことです。これは他人の命を奪うことだけではありません。どんな形にせよ他人を犠牲にすることを指しています。現代は競争の時代です。しかし、競争は争いを産み、争いは戦いを産みます。人の血を注ぐ神と宗教、これが、「この世の神」の姿です。聖書で偶像というのはこれです。
 人の血を求める偶像、これは怖いですね。こういう「血を流す」宗教があるために、逆に人を宗教から遠ざけて躓かせているのです。主様は、私たちのいっさいの罪を担って、私たちを赦しの愛で導きつつ、私たちと一緒に歩んでくださるのです。特別の人のことではありませんよ。ここにいる全部の人の罪を主様は贖って、ご自分の血を捧げることによって、私たちの罪の赦しをかちとってくださったのです。だからもはや血を捧げることが要らないし、人と争う必要もないのです。ですから寛容の精神が大事です。人間の長い歴史を通して、実にさまざまな宗教が、網の目のようにつながって広がっています。この網の上に、聖書の福音が支えられているのです。だから、このネットが今日の私たちを支えてくれているのです。
 4節の後半に「私は彼らの神の名を唇に上らせません」とありませすね。私たちにはただイエス様あるのみです。信仰は自由でなければなりません。だからといって、主を信じる者が、あまりに無節操になって妥協すると、「なんだ、キリスト教も私たちも同じなんだ」と周囲の人たちになめられて、人を躓かせないようにとのこちらの善意を誤解して、逆に私たちの信仰の自由を侵したり否定したりする危険があります。こういう場合には、はっきりとけじめをつけなければなりません。寛容は妥協ではありません。相手がこちらの信仰の自由を無視する場合には、きちんとけじめをつけなければなりません。この点では、主にあるひとりひとりが、それぞれの置かれた場にあって、祈りとみ霊の導きに従うのが大切です。
〔注〕この点でコリントの信徒への手紙(1)10章の23〜33節を参照。ただし、ここでパウロが「躓きを与える」と言う場合に、「ユダヤ人」と「弱いクリスチャン」と「異教徒」との3種類の人たちを念頭に置いて、しかもそれぞれに対して違う意味で「躓き」という言葉を用いています。パウロの時代と現代の日本とでは事情が全く違いますから、ここでのパウロの指示とこれの解釈には注意を要します。

■ただ主様のみ

 5節と6節へ行きましょう。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」(you alone are my inheritance, my cup of blessing)「主はわたしの運命を支える方」(You guard all that is mine)とありますね。人間は歳をとると、後世に名を残したい、自分がこの世に生きた証を後々の世に伝えたい、こういう気持ちが強くなってくるものです。もちろんわたし自身にも、そういう気持ちがあります。けれども、最近は、どうもそういうことが、必ずしも主のみ霊の導きではないような気がしています。あれもしよう、これもしようと意欲的に努力をするよりも、むしろ、逆に「捨てること」ですね。これが大事なんではないか。要するに全く存在しなかった無から生まれてきて、再びなんにもない無へと戻っていく。私たちは、持たないこと、まだやっていないことがいろいろあるのではなくて、持ちすぎている、いろんなことをやりすぎている、こう思うようになってきました。要らないものは全部捨てる。そういう方へ導かれていく。これがどうもみ霊の導きではないかと思い始めています。
 なんにもなくなって、生まれて来たままの姿へと戻っていく。そういう気持ちになったとき、本当にみ霊の輝きが顕れてくるんですね。その時に、初めて不思議なみ霊にある輝きを見ることができます。復活というのはこういうものではないかと体験するのですね。名を残し事業を残すことよりも、主に導かれてだんだんとなにも持たない無の姿へと引き入れられていく。十字架のイエス様が与えてくださる罪の赦しというのは、こういうことではないかと思います。そこに開けてくる世界。これが本当の復活へと到る道ではないかと思うんです。
 欲望と嫉妬と不満、この三つが人を悩ますと言いますが、「主はわたしに与えられた分」という気持ちでいると、なにかにとらわれることがなくて、比較的楽しく仕事ができるようです。そういうとらわれない心で物事を見ると、本物が見えてくるんですね。ああ、これはほんとうだ。いや、これは違う、嘘だとね。そういう見分けができるようになるのです。私もこれからいろいろな仕事をやるでしょう。でも、そのこと自体が、自分が生きること、というより、活かされていることの意味ではない。自分では、そう思っています。

信愛と全託

 8節には「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし わたしは揺らぐことがありません」とあります。もう何も要らないなどと言うと、皆さんはまだ若いから、そんなことを言っても、まだまだいろいろ欲しいものがあるし、やりたいこともある。こう思っていらっしゃるでしょうね。でも、イエス様にそういう自分の願いや望みをいっさいお委ねするなら、イエス様が導いて、あなたのやるべきこと、あなたのやれることをちゃんと成就してくださいます。それ以上に、あなたがたの思いを超えてお与え下さいます。なによりも主のみ霊のご臨在が、あなたがたを支えていてくださいますよ。イエス様を信頼してくださって、大丈夫です。
 ある姉妹が、オーストラリアへ留学して、いろいろ辛い目にあってもう止めようかと思ったことやどうしていいか分からない状況に出合ったりして、メールでそのことを言ってきました。その度に私は「主に委ねなさい」を繰り返してきました。ああしようこうしようと、いろいろ自分で考えてみるのもいいけれども、いざ本当にやってみると、自分の思っていたのとは違った状況、違った結果が出てくるんですね。そんな時どうするか。主に委ねる。これだけです。その結果が多分よかったのでしょう。今度オーストラリアのシドニー工科大学の大学院でのMBAコースに合格できたと電話がありました。
 マタイ福音書に、「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればほかのものは全部与えられる」とあります。皆さんはこれを聞いて、そんなこと言っても、神様の国や神様の義だけ求めていたら、ほかのことができなくなると思うかもしれません。でも、キェルケゴールという哲学者は、もし人がこの言葉を実行してみれば、すぐに分かるはずだ。神様のみ前に歩みだしたら、ほかのことを考えることができなくなる。つまり、それ以外のことに煩わされなくても、ちゃんと小さな事に至るまで、神様が面倒を見てくださる。こういうことなんですね。だからなにがあっても大丈夫です。

■霊体拝受

 次は復活の問題です。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく(do not leave my soul among the dead) あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず(do not allow your godly one to rot in the grave)」とあります。ここは使徒言行録2章31節で、ペトロがイエス様の復活を証しする際に引用しているところです。
 旧約時代には、新約聖書のキリスト教や仏教で言う「地獄」という考え方がありません。死者は全員陰府(よみ)に降り、そこにいると考えられていました。新約聖書では、「死者」というのは、この世にまだ生存していても、現実には霊的に死んでいる者たちのことです。「墓で朽ちる」とは、この世の存在でなにも残らないこと、人は肉体的には無から生まれて「地の塵」へと帰る。後にはなにも残らない全くの虚無だけという意味です。神の霊を受けることで神様と出会うことがもうできない状態を指しています。
 ところが主のみ霊にある者はそうではない。第一コリント15章35節〜49節にあるように、イエス様のみ霊にあって生きる者は、たとえこの肉体の存在は無に帰してもみ霊にある「霊の体」が与えられると言うのです。イエス様がよみがえられて今もなお生き続け、私たちと共に歩んでいてくださる。イエス様を信じるということは、イエス様の復活の命のなかを歩むことなんです。イエス様の復活の命を歩む者は、自分もその復活に与ることができます。これが福音の大事なところです。イエス様を得る人は、自分自身を得る人だとイエス様がおっしゃったのはそういう意味ですね。
 このイエス様の霊的な命に私たちも与って生きる。死ぬことのない「霊の体」が与えられるのです。こういう霊的な命は、地上の名誉や富や知識とは全く関係がありません(第一コリント13章8〜13節)。ただ 主様のみ霊のご臨在にかかっています。私たちには、いっさいのものを失っても、なおこの霊の体の命があるのです。
 太陽はもう50億年ほどで消滅しますから、地球はそれよりもずっと前に存在しなくなります。でも「たとえ天地は過ぎ去っても、私の言葉は過ぎ去ることがない」とイエス様は言われました。主様のみ言は主様の霊です。復活された主様の霊のお体はけっして無くならないのです。しかしそのような「霊の体」は、それより先に、まず「地上で蒔かれている」状態の肉の体からしか生まれてきません。だから、その霊の体は、地上にあって肉体的に存在している私たちの内で、み霊にあってすでに始まっているのです。「あなたは命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り(granting me the joy of your presence)、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます(and the pleasures of living with you forever).」とあるとおりです。

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