【注釈】
■27篇について
 詩編1~89篇を一つのまとまりと見なすなら、27篇はその前半部の「ダビデの歌」に属することになる。27篇それ自体も1~6節と7~14節に分けられるが、前半は捕囚期以前の王国時代(前8世紀後半~7世紀前半)のもので、後半はペルシア帝国時代(前5世紀~4世紀前半)のものだろうか。
 内容的に見ると、前半は敵を前にして主に対する信頼を告白しており、「主」は3人称で語られる。後半は「嘆き」とも受け取れる祈りに満たされていて、「主」は2人称で呼びかけられている。しかし、このような二つの詩の「合成」は詩編でしばしば用いられる手法であって、異なると思われる二つの詩が、共通する用語(救い/敵/心/探し求める/命)で一つに結ばれている。
 おそらくこの詩の前半は、戦(いくさ)に臨んで、王が民を代表して捧げたものであろう。前半では王が主に対する信頼を告白し、その後に祭壇で犠牲が献げられ、続いて後半で主の加護を訴える祈りとなり、最期に王の祈りに対する主からの答えが祭司の口から与えられる(14節)という祭儀の形式をとっている〔Craigie. Psalms 1-50.Word Biblical Commentary.An electronic edition.〕。
 したがって、この詩の「わたし」は、民を代表する王が唱える公(おおやけ)の「わたし」である。しかし、共同体的な「わたし」でありながら、同時にそれが戦に出る兵士たち一人一人の祈りとも重なること、これが祭儀的な用語の特徴である。だから詩編では、「わたし」は、しばしば共同体的でありながら、同時に個人を指すことができる。したがって訴訟において、「敵対者の偽証によって死罪の危機に瀕した人が、神殿に逃れて信仰を告白し救いを求める」場合も想定されよう〔岩波訳(注)〕。ここで語られる「わたし」が様々な苦難や苦境という「敵」に直面する際に、個人の「わたし」としてこの詩を聴く/読むことも可能である〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅱ)116頁〕。
■注釈
[1]【光】「わたしの光」はここだけである。「光」が特に「ヤハウェのみ顔」を指すのは民数記6章24~26節を参照。さらに広く「太陽」そのものをも指す場合もある(詩編84章12節)。なお「救いの光」は36篇10節/イザヤ書9章1節/同60章19節を参照。
[2]【この身を食らう】原文は「わたしの肉を食らう」で、敵を猛獣にたとえている。「敵」は戦の敵(詩編14篇4節)あるいは訴訟の相手側(詩編7篇2~6節)の両方の意味に解することが出来る。
【つまずき倒れる】「躓く」も「倒れる」も完了形であるが、「すでに成就された」こととして未来への確信を表わすヘブライ語の用法である〔クレイギー:前掲書〕。
[3]「敵陣が囲む」は敵の軍団が王の町を包囲する状況を思わせる(列王記下18章13節~19章37節の故事を参照)。「わたしには確信がある」の「わたし」は強められた言い方。
[4]【主の家】ヤハウェの神殿のことで、そこは主の臨在が顕われる場である。
【生きている・・・・・】原文は「わたしのすべての日々、あなたの家に住まう」。原文では、1~5節までが2行ずつになっているから、4節のこの行は後からの挿入と思われる。
【尋ねきわめる】原語「バーカル」(尋ね求める)[NRSV]〔REB〕を「ボーケル」(朝)と読み替えて「朝まで」とする訳もある〔新共同訳〕〔Biblia Hebraica(注)〕。礼拝は朝早く行なわれることが多かった。「暁に目覚めたい」〔フランシスコ会訳聖書〕。
[5]【仮庵】原文の「彼(主の)の庵(いおり)/仮屋」を「彼の幕屋」とする異読がある〔Biblia Hebraica(注)996頁〕。しかし、この語は次の行の「幕屋」と並行している。イスラエルがカナンに定着する以前の礼拝の場は天幕を張っただけの移動可能な「仮屋」"the tent of meeting" であったが(詩編18篇12節参照)、定着後に聖所としての「幕屋」"the tabernacle" が、定められた場所に設けられた。どちらも主(ヤハウェ)の臨在の場であることに変わりない。「幕屋」〔新共同訳〕[フランシスコ会訳]。主の臨在する「幕屋」は、危難の際の「逃れの場/避難所」である(詩編31篇21節/同32篇7節など)。ただし、エルサレムが敵に包囲された状況の下では、神殿だけが特別の避難所だとは考えられないから、ここは比喩的に町全体が主の臨在によって護られることだと見る訳もある〔Briggs.Psalms.(1)239〕。
【岩の上に】前行の幕屋に<かくまう>ことと内容的に合わない。このため、終わりの行「わたしを岩の上に立たせる」を次の6節につなぐ訳もある。「岩の上にわたしを立たせ、群がる敵の上に頭を高く」〔新共同訳〕。また、「岩の上に」を「危難の中から(わたしを取り上げる)」と読み替える訳もある〔Biblia Hebraica(注)〕〔Briggs.Psalms.(1)239〕。
[6]【頭をもたげる】「頭/顔を上げる」は、敵に対して優位に立つこと(3篇4節)。
【喜びのいけにえ】「生け贄」は、幕屋の聖所にある真鍮が貼られた祭壇の上で焼かれた。勝利が与えられた時に主に捧げる感謝の犠牲のこと。
【主に向かい・・・・・】6節もこれまでの節と行数が合わない。最期の行は、ほんらい13節の終わりに来ていたのが、ここに移されたのかもしれない〔岩波訳注〕。
[7]敵を前にして主により頼む確信と賛美から転じて、7節からは切々とした祈り(詩編55篇2~3節)に変わる。
[8]原文前半の直訳は「あなた(主)に向かって、わたしの心は言う『あなたたちはわたしの顔を尋ね求めよ』」であるが、これでは誰が誰に命令しているのか分からない。「あなたたちはわたしの顔を尋ね求めよ」とここだけ複数に対する命令になっているから、この部分は後からの挿入であろう。「あなたに向かってわたしの心は言う」だけが後半の「主よ、あなたのみ顔をわたしは尋ね求めます」につながるのであろう〔Biblia Hebraica(注)996〕。「わたしの心はあなたに言った『わたしは熱心にあなたの顔を求めた』」〔七十人訳〕/「心よ、主はお前に言われる『わたしの顔を尋ね求めよ』と」〔新共同訳〕。「わたしの心はあなたの言葉を借りて(あなたに代わって)言います、『わたしの顔を求めよ』と」〔フランシスコ会訳聖書〕。" 'Come', my heart has said, 'seek his presence' ".(「さあ、」とわたしの心は言った「主の臨在を求めよ」)〔REB〕。なお祈りによって「主/神の顔を尋ね求める」とは、主の臨在を求めて、主との交わりに入ること(24篇6節/105篇4節参照)。
[9]「顔を隠す」は69篇18~19節/102篇3節/143篇7節を参照。「退ける/追い出す」は詩編22篇2節を、またヨハネ6章37節を参照。
[10]この節のような状況は、アッシリアによる北王国イスラエルの滅亡と、新バビロニアによる南王国ユダの捕囚の際に生じた実状を背景にしているのであろう。ここをアンティオコス4世によるマカバイ戦争時代(前175~164年)の出来事と関連づける説もあるが〔Briggs.Psalms.(1)241〕、そうだとすればこの詩篇の後半部の時代がさらに後になろう。
[11]【安全な路】「待ち伏せる(敵)」の原語「ショーレル」は「隠れ潜んで狙う」ことであるから、その敵も知らない、あるいは気づかない安全な小路のこと(詩編5篇9節)。
[12]【意のままに】原語「ネフェシュ」には「命/魂」「息/喉(のど)」「望み/貪欲」などの意味がある。ここでは「悪意」とも「貪婪な欲望」とも訳すことができる(17篇9節/35篇25節)。「わが仇どもの喉に」〔岩波訳〕。「貪欲な敵に」〔新共同訳〕。「敵の望むままに」〔フランシスコ会訳聖書〕。
【暴虐の言葉を】原文は「暴虐/不法を吐く(者たち)」である。「吐く」という動詞にとれば、「偽りの証人どもが立ち」そして「暴言/不法を吐く」となる〔ミルトス『詩編』(1)112頁〕。"...for false witnesses have risen against me, and they are breathing out violence."[NRSV]。しかし、ここは「暴言を吐く者たち」(形容詞)ともとることができるから〔Analytical Hebrew and Chaldee Lexicon 334.〕、「立つ」を「暴言を吐く者たち」にもかけて「偽りの証人、不法を言い広める者が立つ」〔新共同訳〕と訳すこともできる。「偽りの証人や暴言を吐く者がわたしに逆らって立つ」〔フランシスコ会訳聖書〕。なおこの節に、マカバイ戦争当時、ギリシア側とユダヤ(マカバイ)側に分かれて争った厳しい内部対立を読み取る見方もある〔Briggs.Psalms.(1)242〕。
[13]【わたしは信じる】原文は「もしもわたしが信じなかったならば」で内容的に意味が通らない。「わたし自身は信じる」〔Biblia Hebraica(注)997頁〕「わたしは信じる」〔七十人訳〕に従う訳が多い。「わたしは固く信じています」〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕。
【生ける者の地】死者の降る陰府(よみ)ではなく、生きている者たちのこの地上のこと(116篇9節/142篇6節)。だからここでは、偽りの訴えを起こす敵対者たちによって死罪になることがないこと〔岩波訳(注)〕。
[14]この節は、詩の前半と後半を結びつけた編集者が、詩全体のまとめとして加えたものであろう。
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