【注釈】
■構成について
34篇は25篇と同じように各節の頭の文字がヘブライ語のアルファベット順で始まる構成になっている。25篇の祈りが答えられた感謝の歌であると見ることもできよう。全体は、表題を除くと、賛美(2~4節)と救いの証し(5~7節)と教え(8~22節)、しめくくり(23節)のように分けることができる〔フランシスコ会訳聖書〕。「教え」の部分をさらに9~11節/12~15節/16~22節のように細分する訳もある〔新共同訳〕。12節から「諭(さと)し」を与える智恵文学のスタイルが入ってくるので、ここで区切ることも考えられるが、9節以下の構成はがそれほど判然としているわけではない。
全篇を通じて、一人称の「わたし」と三人称の「彼ら」、単数形の「者/人」(7節/9節/13節/20節)と複数形の「者たち/人たち」(3節/6節/8節/10節/16節/17節/19節)が混じり合って一体になっている。4節に見られるように、一人の感謝が全員に広がり、全員が一人になっている。最後の23節は、この篇全体の結びとしてふさわしい。
■注釈
[1]34篇の表題は、サムエル記上21章11~22章2節にちなんで後から付けられたものである。「アビメレク」は、ガトの王アキシュの誤りだとも考えられるが、「アビメレク」(王の父)という呼び方はペリシテの王たちを指す一般的な通称だという説もある。なお「アビメレク」についてはサムエル記上22章9~19節を参照。表題とこの篇との間に直接の関係はない。この篇に、ダビデのこの時期の心境を読みとって付けられたのであろう。
[2]【わたし】原語は「わたしの命/魂」。
[3]【誇る】原語は「ハレルヤ」の基となる動詞(再帰態)で「自分自身にハレルヤを言う/誇る」こと。
【聞いて喜ぶ】「(権力者たちにの下で)苦しむ者たち/へりくだる者たち」は「聞くがよい。そして喜ぶがよい」と命令形に読むこともできる〔岩波訳〕。
[6]この節には過去形と命令形の二通りの読み方がある。原典本文は過去形で「彼らは主を仰いで輝き、恥じて顔を赤らめることがなかった」となる。この読みだと前後の節と時制が一致する。しかし、欄外の読みに従って命令形に読むこともできる。七〇人訳(ギリシア語訳)も命令形になっている。過去形の読みをとる訳が多いが〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕両方共に捨て難い。
【輝く】「仰ぎ見る」は「見つめる」ことで、「輝く」の原語の動詞は「流れる/注入する/輝く」だから、「彼(主)を見つめて、そこから光が注入されて輝く」こと。
[8]【陣をしいて】「み使い」は単数。列王記下6章15~17節のエリシャの故事を反映している。
[9]【善い】霊的なものだけでなく身体的にもすべてにおいて「善い」ことをしてくださる。「味わう」とは「体得する/納得する」こと。9節は第一ペトロ2章3節の基になっている。
【より頼む】原語は「逃れる/避難する/信頼する」こと。2篇12節を参照。
[10]【聖徒たち】主に心から信頼する「主の民」のこと。レビ記19章全体と16篇3節を参照。
[11]【若獅子】原語は複数。若い獅子は力に満ちて獲物を漁(あさ)るから、比喩的に「富める者たち」を指す。「富む者たちさえ貧しくなり飢えることがあった」(七十人訳)。
[12]【子らよ】この呼びかけは知恵文学で用いられる言い方である(箴言4章1節/第一ヨハネ2章1節)。知恵の諭しでは、まず全体をまとめて、その最も大事なことを語る。ここでは「主を畏れる」ことがそれである(箴言1章7節)。
[13]【誰か】25篇12節を参照。
【日々を愛し】長らえて幸いを得たい人(単数)のこと。"Which of you delights life and desires a long life to enjoy prosperity?" 〔NRSV〕
[14]~[15]この二つの節も、先の「誰か?」という問いかけへの答えである。14節は自分の口が「語ってはならない」ことに注意せよとあり、15節は自分の行ないが「実行しなければならない」ことを勧める。言葉への否定的な注意と行ないへの肯定的な実行を促す。言葉への戒めと実行への勧めは、新約のヤコブ3章全体に受け継がれている。
【偽りを語る】十戒に「偽証するな」とあるが、これは同じイスラエル共同体の中で隣人同士が危害を加えてはならないことを戒めているから、比較的初期の教えである。これに対して、捕囚期以後のペルシア時代では、より広い範囲の人たちに対しても嘘や欺瞞を語ってはならないと戒めている。「偽りを言わない」ことは「知恵の諭し」の大事な特徴である(箴言4章24節/同13章3節/同21章23節)。
【平和】原語「シャローム」は、広い意味での「平和」と、人々の心の「平安」の両方の意味を含む。新約のギリシア語「エイレーネー」もこの両義を受け継いでいる(ローマ14章19節)。
[16]16節の冒頭の文字(アイン)と17節冒頭の(ペ)とは、初期のヘブライ語のアルファベットでは「ペ」→「アイン」の順番であったのが、後に入れ変わって「アイン」→「ペ」になった。このために、ほんらい17節→16節→18節の順序であったのが入れ変えられた。現行の原典のままだと、18節の「彼らが叫ぶと」の主語「彼ら」が17節の「悪を行なう者」になってしまう。現行の16節と17節を入れ替えると18節へうまくつながるが〔NRSV〕〔REB〕、日本の訳は現在のままの順に従っているものが多い〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔岩波訳〕。このために七〇人訳にならって、18節の「彼ら」を「正しい者たち/義人たちが」と言い換えてある。
[17]【彼らへの記憶】ヤハウェにその名前を「覚えられる」とは、この世を去っても主のもとへ召されることである(日本でも主君の「覚えめでたい」と言う)。逆に「彼らへの記憶が断たれる/絶やされる」は、地上においても天においても、その人の存在が失われることであり、これは人の「滅び」を意味する(9篇7節参照)。
[18]「義人たち」は七十人訳から出ている。原典は「彼ら」。
[19]【心砕けた者たち】「心の砕けた者」はイザヤ書61章1節/147篇3節を参照。
【霊の砕かれた者たち】「精神的に打ちのめされた者たち」のこと(51篇19節/イザヤ書57章15節参照。ここでは自分の罪を悔いて苦しむだけでなく、特に苦難を受ける主の民を指していて(イザヤ57章15節)、これが20節へつながる。
[20]~[21]【彼の骨】「骨」はその人の霊の宿るところ(日本語「気骨のある人」)(創世記2章23節)。義のために苦しむ者を主は必ず守られること。新約ではこれがイエスの死に受け継がれている(ヨハネ19章36節参照)。
[22]【殺す】原語は「刺し殺す」。ここは「邪な者にとって死となる」と読むこともできる。なお「悪」と訳した語は、20節の「災い」の原語と同じである。
【滅びる】原語は「罪の意識を持つ/咎めを受ける」であるが(「償わねばならぬ」〔岩波訳〕)、罪の結果「滅びる」と訳した。「滅び去る」〔フランシスコ会訳聖書〕。これを「罪に定められる/断罪される」と受動態に訳すこともできる〔新共同訳〕。"condemned"〔NRSV〕。23節の「滅びる」も同様。
[23]アルファベットは22節で終わっているから、23節は後から加えられたのであろう。
【より頼む】原語は「逃げ込む/避難する」(9節と同じ)。
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