【注釈】
■年代と構成
 この篇の14節後半「主よ、急いでわたしを救助してください」から18節までは、70篇2節後半~6節とほぼ同じである。このため40篇14~18節をペルシア時代の前期(前6世紀後半)の作とし、2節~13節をペルシア時代中期(前5世紀)の作に分類することもできる〔Briggs.Psalms.(1)xc〕。40篇全体の構成区分は5節/7節/12節/14節などの扱い方によって、日本語訳も英訳もそれぞれ一定しない〔新共同訳〕〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕〔REB〕。内容的なまとまりによって細分すると2~4節/5~6節/7~9節/10~11節/12~13節/14~16節/17~18節になろうか〔NRSV〕。これに対して2~12節/13~17節/18節のように分ける訳もある〔REB〕。
 このように、40篇は少なくとも二つ、あるいは三つの詩篇が合成されていると見られている。それゆえこの詩が内容的なまとまりに欠けると見るなら、それは皮相的な見方であろう。ではこの詩は、どのような意図の下に合成されたのか? 
 40篇では、12前半に主に救われた賛美がきて、後半に苦しみと祈りが来るのも通常の順序とは逆である。こういう場合に、この詩が<全体として>何を言おうとしているのかを重視し、<この視点から>本文を解釈する心構えが大事である。詩の本文が、どのような過程を経て、どのような資料の組み合わせから成り立っているかという、いわゆるテキスト批評に基づく文献学的な考察は、聖書の本文を解明する上で重要ではあっても、そういう文献的な批評それ自体は、本文それ自体の解釈にとって代ることができない。
 以下に40篇の解釈について、諸説をあげてみよう。
(1)ユダヤ教のラビは、冒頭の「ダビデの歌」を辞義通りに解釈して、2~12節は重病で死に襲われたダビデが、主によって救われた喜びを賛美していると見ている。しかし、この詩が作られたたのは、それ以前、彼がまだ瀕死の状態にあった頃のことで、13節以下はその時のことを歌っていると見る。ダビデは、病と死のおそれの中から救いを呼び求めているのである。ただし、このダビデの歌には、かつてイスラエルの民がエジプトに囚われていた時に、モーセに導かれて救い出された出来事が反映しているという別のラビの解釈も紹介している。しかも、そのような過去の出来事の反映だけでなく、さらに、未来においてメシアが到来することを預言していると結んでいる〔Tehillim.(2). Commentary and Translation by Rabbi Avrohom Chaim Feuer.Mesorah Publications (1978)497 〕。
(2)現在のプロテスタント系の学説では、この篇は70篇や35篇4節/同21節/同26~28節などから祭儀用に合成されたという見方を採る。この解釈だと、その祭儀的な目的は何か、が逆に問われることになろう。だから、合成は単なる祭儀用ではなく、新たに生じた具体的な出来事なり体験なりが存在していて、その現実から、過去の救いの体験を想い出し、そうすることで現在迫る苦難(例えば22篇のような)からの救いを呼び求めている。このように見れば、全体のまとまりが見えてくるという説もある〔Artur Weiser.Psalms.Old Testament Library.333-34.〕。
(3)上の二つの説に対して、ヘブライ人への手紙は、この詩篇の7~8節にイエス・キリストについてのメシア預言を読み取っている(ヘブライ10章5~9節)。2~6節の感謝と賛美を受けて、自分が神に献げることができる「供え物」は、もはや<自分自身>以外にありえないというのが7節の告白である。しかも<この>献げ物こそ、あらゆる献げ物を終わらせる窮極の「いえにえ」であること、このことをヘブライ人への手紙はこの詩篇から洞察した。それだけでなく、8節ではさらに第二イザヤの「受難の僕」像へと導かれる〔Derek Kidner. Psalms 1-72. IVP Aademic (1973).177.〕。ヘブライ人への手紙のこの解釈は、上の二つの説と矛盾するものではない。
 受難の僕を預言する詩としては、22篇がよく知られている。そこでは、先に苦難の体験と神への呼びかけが来て、救われた感謝とこれを伝える賛美が続く。ところが、今回の篇では、一見するとこの順序が逆になっているように思われる。しかし、ユダヤ教のラビが洞察するように、救いの賛美と、これを伝える喜びが先に語られ、そこから以前にさかのぼって苦難の体験が語られる、という形をとっていると見ることもできよう。
■注
[1]表題については19篇参照。
[2]【身を屈めて】原典欄外の異読には「耳を傾けて」という読み方もある。
[3]【恐ろしい穴】原義は「恐ろしい叫びや騒ぎの穴」。原典欄外に「虚無/滅びの穴」という読み方もある。「死」を思わせる病気のことか。
【立たせる】原語「クーム」には「立ち上がる」「復興する」「よみがえる」などの意味がある。
[5]【高ぶる者ら】七〇人訳では「空しいもの(偶像)」とある。原語「ルハビーム」は「ラハブ」(89篇11節/イザヤ書51章9節)の複数形。「ラハブ」は天地創造以前の混沌の海に住むとされる怪物のこと。「暴君ら」〔岩波訳〕。
【偽り】「欺瞞」の意味だけでなく「偽りの神々/偶像」〔NRSV〕をも指す。
[7]【犠牲】「酬恩祭」。これがどのようなものかはレビ記17章1節~7節参照。「供え物」は穀物などを指す(20篇4節参照)。これらの捧げ物はほんらい個人的に神に捧げるものであったが、後には共同体の祭儀の性格をも帯びようになった。なお、これらが感謝の気持を現わすのは27篇6節にも見られる。「犠牲を喜ばれない」は51篇18節、ホセア書6章6節を参照。
【耳を貫かれた】奴隷が主人に服従することを示すために耳を突刺す習わしがあったことから、この箇所をそれと関連づける見方もある。原語は「突き刺す/掘る/こじ開ける」こと。しかしここでは、はやり「主のみ声に聴き従うようにしてくださった」と解するほうが自然である。ここを「わたしは自分の耳を閉じなかった」という読み方もある〔HB注〕。
ただしここの「耳を開く」には、神が受難の僕に啓示を与える時のイザヤ書50章4~5節が反映していると見ることができる。
【はん祭と罪祭・・・・】「罪祭」についてはレビ記9章7~14節を参照。この行についてはエレミヤ書7章21~26節を参照。7~9節全体はへブライ10章4~10節に引用されている。ただし、七十人訳39篇7節には「犠牲も供え物もあなたは望まない。あなたはわたしのために体を備えて(成就して/完成して)くださった。燔祭も罪祭もあなたは求めない」とあるから、ヘブライ人への手紙で「(イエス・キリストの)体が献げられた」とあるのはこの七十人訳の読み方からである。
[8]【わたしは来ています】イザヤ書6章8節を参照。「 」をこの句だけに限る訳〔REB〕と9節の終わりまでを作者の言葉とする訳〔NRSV〕がある。
【巻物】この行は後からの加筆と思われる。ここでの「巻物」は、申命記6章6~8節にある契約によって与えられた律法の書を指すとも考えられるが、ここではより内面的に「心に記された書」の意味にまで深められている。またこれを「天の書」と結びつけることもできよう(56篇9節/エレミヤ書31章33節参照)。より具体的に作者は詩編70篇(今回の14~18節)を携えているという見方もある〔岩波訳注〕。
[9]【み旨】神が自分に示された善い計らい、恵の意志のこと。
【心にあります】原義は「内臓の真ん中に」あること。
[10]10節から12節までには、特に主からの「義」「真実・信仰」「救い」「まこと」「慈愛」などの重要な言葉が「集会で宜べ伝える」ことと結びつけられている。
【集会で】原語は「大きなカハルで」。「カハル」はヘブライの「会衆/集会」を指すもので、具体的には会堂(シナゴーグ)での「集会」のこと。このヘブライ語は、新約聖書の「教会」(エクレシア)と同じく、ほんらいは人の「集い」それ自体のことであって、集いの「場所」のことではない。"in the great congregation" 〔NRSV〕"in the great assembly" 〔REB〕。
【義の】原語は「ツェデク」(義)。特に神からの「義」のことで、これは神の「憐れみ」あるいは「救い」の意味も含む。「救いの業を」〔フランシスコ会訳聖書〕「義のおとずれを」〔岩波訳〕"the glad news of deliverance" 〔NRSV〕。「神の義」が「救い」として終末に到来することについてはダニエル書9章24節を参照。
【告げ知らせた】原語「バーサル」は「告げる」であるが、この動詞はほんらい「善い」を伴って戦の勝利を伝えることである(サムエル記下18章27節)。この動詞はそれだけで神の勝利/凱旋の「よいおとずれ/吉報を知らせる」の意味になり(詩編68篇12節)、このことから神による「救いを知らせる」ことを指すようになった。今回のこの部分は七十人訳(39篇)では「大いなるエクレシアで義を<福音した>」とあって、ギリシア語「エウアンゲリゾー」〔中動相アオリスト形〕が用いられている。これが新約の「福音を伝える(エウアンゲリゾマイ)」にあたる(イザヤ書40章9節の「よい知らせ」を参照)。
[12]【わたしに惜しむ】「(あなたの慈愛を)わたしから閉ざす」と訳すこともできる。なおこの12節を11節につないで、ひとつのまとまりとして13節から区切る訳もある〔岩波訳〕〔REB〕。逆に12節を13節へつなぐ訳もある〔フランシスコ会訳聖書〕〔NRSV〕。
[13]【災い】原語「ラーアー」は「邪悪な」「悪意の」を意味する形容詞から出た語で、「悪」「災い」「苦難/苦悩」「不幸」「滅び」など広い意味がある。「数えきれないほどのわたしの不義」とは何を指すのか? 諸説があって一定しない。
(1)13~18節を敵に命を狙われている貧者が、神に助けを求める「嘆きの歌」とする解釈もある〔岩波訳(注8)106頁〕。
(2)13節を3節と関連づけて、「わたし」は個人ではなく、共同体全体を代表する「わたし」であり、その民の数えきれない不義・不正を指していて、「先が何も見えず」「心(勇気)も挫けている」のは民全体のことだという見方もある〔Briggs.Psalms.(1)356-57〕。
(3)13節を18節の「貧しい者」と対応させて、民あるいは特定の共同体全体の不義と悪を自分一身に受けている「貧しいわたし」が、苦難の中で何をどうすればいいのか分からなくなっている状態を表わすという見方もできる〔Weiser.Psalms.Old Testament Library. 340〕〔新共同訳『旧約聖書注解』(Ⅱ)124頁〕。
[14]なお14節からは70篇がほとんどそのまま用いられているが、70篇2節では「神よ」とあり、続いて「主(ヤハウェ)よ」と呼びかける。
[15]【恥じあわてる】15節から16節にかけて「ボーシュ」(恥じる)「ハーフェル」(赤面する)「カーラム」(恥じる/失望する)「シャーマム」(驚きあわてる)「バーシェット」(恥辱/屈辱)などの類語が繰り返されている。これは敵に憎悪を抱くあまり、彼らが呪われることを祈り求めているのではなく、第二イザヤ書で預言されている「受難の主の僕」に刃向かい彼を嘲った者たちが、神から与えられた僕の栄光の姿を観て「恥じてあわてる/驚く」ことを指すのであろう(イザヤ書52章15節/知恵の書5章2~10節を参照)。続く「退かされ悔しがる」も同様に理解するほうがよい。
[16]【恥辱に終わる】「彼らは、嘲った相手が神から栄光を授けられるのを観て、最後には恥辱のあまりおののく」事態に陥ること。
[18]【虐げられて乏しい】この句は普通「貧しく乏しい」と訳され、社会的に貧しい者、弱い者、苦しめられる者を意味し、「耐え忍ぶ者」「柔和な者」の意味にもなる(申命記24章14節/エレミヤ書22章16節/エゼキエル書16章49節を参照)。詩編にはこの句が多く、特に「乏しい」は23回も出てくる(37篇14~15節/74篇21節/86篇1節/109篇22節等)。この篇のように「悪しき者」「しえたげる者」などの「敵」に苦しめられる人たちを指すことが多い。この人たちは「主に見捨てられた」と見なされ、そのゆえに彼等を一層苦しめようとたくらむ「邪悪な者たち」にいじめられたのであろう(69篇27節参照)。ただしここでいう「貧しい者」とは、敵に苦しめられるイスラエル共同体のことであり、これを代表する主の僕の嘆願だと解釈することもできよう。
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